私と息子 30年のアンサンブル

私と息子 30年のアンサンブル
「無理無理 絶対無理」

振り返れば、母親の私はわが子が夢を持てるとすら考えていませんでした。

息子は生まれて4か月で難病を発症し、医師から普通の発達は望めないと宣告されました。

できないことだらけの彼の世界を変えたのはチェロ。

ことばで感情を伝えられなくても、弦に乗せれば伝えられる。

ひたむきに努力を重ね、この春、プロのチェリストとして一歩を踏み出しました。

ステージで堂々と演奏する姿に私はかつての自分にそっと語りかけました。

「子どもには想像もつかない未来が待っている。だから『無理無理』って言わないで」

(ネットワーク報道部 松本裕樹)

演奏会への招待状

「同じ病気で苦しんでる親御さんたちの希望の灯になれば」

1通のメールがNHKの情報提供窓口ニュースポストに届きました。

ある演奏会の招待状でした。

生後4か月で国指定の難病「ウエスト症候群」を発症した男性が、チェロ奏者としてプロデビューするというのです。

難病の息子と向き合ってきた日々をつづった文面に、ついに迎える晴れの舞台をぜひ取材してほしいという思いがにじんでいました。

ニュースポストには、日々さまざまな取材依頼も寄せられますが、この招待状には、なぜかひきつけられました。

直感を信じて、会いに行ってみることにしました。

出迎えてくれたのは、メールを寄せてくれた父親の豊さんと母親の恵さん。

恵さんは笑顔でこう切り出しました。
松本恵さん
「私は息子がプロのチェロ奏者になるなんて思っていなかったんですよ」
2人の話に、私はいつしか時間を忘れて聞き入っていました。
(ここから、母・恵さんの目線で続けます)

私が悪かったに違いない…

息子の晋が生まれたのは1992年。

2歳上の長女に続く、初めての男子誕生に家族みんなが喜びました。
そんなわが子に異常が見られたのは生後4か月。

体を突っ張らせるしぐさをしたあと、ぐったり力が抜けてしまうのです。

2、3日続くので、近所の病院の小児科に連れて行くと、診察した先生の顔色が変わりました。

それから数日たたないうちに大きな発作を起こし、晋は入院。

てんかんの発作は覚悟していました。

でも、それが国指定の難病で、難治性のてんかん「ウエスト症候群」であると医師から伝えられたときは、絶望のどん底に落とされた気持ちでした。

聞いたことも無かった「ウエスト症候群」。

調べてみると不安になることばかり。

発症の原因はさまざまで、すべての患者に共通するものはない。

疾患そのもので命は落とすことはないものの、脳へのダメージが深刻で発達障害などの後遺症が残る可能性が高いこと、特効薬や確固たる治療法が確立されていないこと。

そして、何回目かの検査のあと、医師からこう告げられました。
「キャッチアップは難しいかもしれない」
脳のダメージによる影響で、通常の発達は望めないという宣告でした。

薄暗い病室で晋の寝顔を見ながら自分を責めました。

つい4か月前、元気に生まれてきてくれた晋。

きっと母親である私が悪かったに違いない。

いっそのこと、子どもたちと近所の川に飛び込んでしまおうか…

あの頃の私は追い詰められていました。

「できない」「無理」を言い聞かせて

幸いにも晋のてんかんの症状は徐々に治まり、3か月程で退院することができました。
しかし、成長が進むにつれて奇妙なクセに悩まされるようになりました。

電光掲示板など光るものを見ると目が離せない。

大きな音が苦手。

目を合わせてくれない。

ほしいものを指さす時は自分の手ではなくほかの人の手を使う。

今思えば、発達障害にあたる行動だと気付けますが、あのころはわが子が何を考えているかわからない。

晋の世界観がつかめないので、まるで宇宙人と話している感覚でした。
もちろん小学校でも周りになじめません。

教室のけん騒に耐えられず飛び出たり、じっと座って授業を受けられない。

周りの子どもたちも彼の行動を理解できず、友達もできない。

そんな状況をストレスに感じていたのは、晋自身。

新品のTシャツの胸元を自分でかじってボロボロにして帰って来たことは、1度や2度ではありません。

そんな姿を見るたびに私は胸を痛め「この子はできない」「無理なんだ」と言い聞かせていました。

晋はすごい! でも私は…

そんな晋に豊かな能力があることを見抜いたのは、ビオラ奏者の夫でした。
「晋って低音の音に反応して歌ってない?」
家でオーケストラのCDをかけたとき、晋が音楽にあわせて歌っているような、うなっているような声を出していました。

確かによく聞くとチェロやコントラバスの低音部分を歌っていました。

小学校3年生になったある日、晋をチェロ教室に初めて連れて行った夫がひどく興奮して帰ってきました。
「晋が一発でチェロの音色を弾いた!何か月もかかる弦楽器を1発で弾いた!この子のとりえは音楽なんだよ!」
興奮さめやらぬ夫の話を聞きながら、私は半信半疑でした。

お箸もちゃんと持てない。

字を書かせても、絵を描かせても不器用。

そんな晋が楽器なんて…

それも繊細な音を出す弦楽器なんて…

「無理無理」と頭から決めつけていたのです。

それでも、この日から晋はチェロを弾き続けました。

音楽が居場所に…

大きな転機となったのが中学生になって入ったジュニアオーケストラでした。

人づきあいが苦手なのに、多くの仲間と演奏なんて無理なんじゃ…

そんな私の心配はまたも覆されます。
「松本くん、うまいね!」
仲間から尊敬されている晋の姿を見たのは初めてでした。
その姿に、療育指導を受けていた先生のことばが頭をよぎりました。
「子育てはどうしても目の前のことにとらわれがちだけど、10年、20年先を見据えて考えてあげて」
ことばでうまくコミュニケーションがとれなくても、音楽なら居場所を見つけられるかもしれない。

多くの人と演奏することで彼の特殊な才能が開花しました。

彼の耳は周りの楽器の一つ一つの音色を聞き分け、周りがどんな音を出したいか、その音にどんな音をあわせるのがよいかを自然に感じ取っていました。

晋が友人に囲まれ、楽しく演奏しているのを見るだけで幸せでした。
ますます音楽にのめり込んだ晋は、東京音楽大学付属高校で日本を代表するチェロ奏者として活躍している堀了介先生と出会いました。

堀先生に勧められて、音楽大学を出るころには、プロの演奏家としての夢を抱くようになっていました。

留学と決めた覚悟

「古典楽器のバロックチェロを学びたいからドイツに留学したいんだけど」
それは唐突な相談でした。

えっ?海外?

話を聞くと、バロックチェロの世界的な演奏家の指導を受けられるチャンスをもらったから、ドイツのケルンに行きたいという申し出でした。

大学の費用まではなんとか工面したけど留学費用なんて…

ことばの問題もあるし、そもそも1人暮らしなんて無理。

できるわけがない。

また私の「無理無理病」が頭をもたげました。

そんな私の気持ちをよそに、バロックチェロの練習を続ける晋。

「無理」「行きたい」のやりとりは1年も続きました。

結局、私が折れ、留学に向けて準備を進めることになりました。

しかし、留学費用は高額で、気持ちだけではどうにもならない。

そんな話を友人にしたところ、勧められたのがクラウドファンディングでした。

ここでも私は「無理」を連呼しました。

子どもの留学費用という個人的な理由で協力してくれる人なんているはずがない。

二の足を踏む私に友人たちは背中を押してくれました。
「障害があっても得意なことを突き詰めていけば、夢だったプロの演奏家の道が開けるかもしれない。その夢を応援したいという人はたくさんいますよ」
いつのまにか晋の夢は、周りの人たちを巻き込んだ挑戦になっていました。
留学先の生活費など含め、目標金額を200万円に設定しました。

集まった金額は245万5000円。

このとき、私の覚悟が決まりました。

かつての私と同じように悩んでいる親たちにとって、晋はきっと希望になる。

だから、晋をプロのチェロ奏者にするんだ。

結局、留学は3年間続きました。

そしてこの春、晋は夢を実現させることになったのでした。
息子と歩んできた長い旅路を語ってくれた晋さんのご両親。

気がつけば、私は1時間、聞き入っていました。

「演奏会をぜひ取材させてください」

そう伝えて自宅を辞しました。

プロとして対等な立場です

この春、ついに開かれることになった晋さんのプロデビューの演奏会。

リコーダー、ヴァイオリン、チェンバロ、それぞれ古楽器の一流の演奏家3人が賛同してくれました。

本番の10日前、7時間にわたるリハーサルを取材しました。

一緒に演奏するプロたちに、晋さんの奏でる音、そして障害のことをどう思っているのか聞いてみたかったのです。
「ここのパートはちょっと周りが殺伐としているから、ちょっと温かい感じで元に戻っていく感じでいきましょう」

リハーサルは練習の合間に笑い声が飛び交う和やかな雰囲気で進んでいました。

曲のイメージを共有する話し合いでは、晋さんはメンバーから出た意見を譜面に書き記していきました。

3人は晋さんをひとりのプロの演奏家として接していました。
チェンバロ 西野晟一朗さん
「障害のある演奏家ではなく、同じプロの演奏家として対等な立場で晋さんと接しています。4人の音がよくなるためにどうすればよいのか、彼にリクエストすることもしょっちゅうです」
ヴァイオリン 遠藤結子さん
「彼の音はすごくノリがよくて、彼自身がやりたいことと私たちの音がはまったときの一体感は本当にすばらしいです」
リコーダー 辺保陽一さん
「世間一般では彼の障害をハンデと捉えるかもしれないですが、音楽の世界ではそれも個性として音に変えられます。だから彼の個性をどんどん伸ばしてほしいし、彼の姿からわれわれも学ぶことは多いです」
横で恥ずかしそうに聞いていた晋さん。

演奏会に向けた思いを話してくれました。
松本晋さん
「ちょっとドキドキするし、プレッシャーもありますが、感謝の気持ちを込めて演奏したいです」

もう「無理」じゃない

そして演奏会当日。
会場となった新宿の教会の礼拝堂にはおよそ70人が集まりました。

息子の晴れ姿を見ようと恵さんも開演を待ちます。
松本恵さん
「もう見てるこっちが緊張してしまいますよね。とにかく楽しんで演奏してくれたら」
一方、舞台裏では蝶ネクタイを付けるのに苦労する晋さんの姿が…
晋さん
「すごく緊張しているからなのか、ネクタイがなかなか付けられなくて焦りました」
そんな晋さんに仲間が優しく声をかけます。

「楽しんでいきましょう!」

晋さんは笑顔で舞台へ向かいました。
演奏する楽曲は5曲。

17世紀後半から18世紀にかけての後期バロックの曲目を演奏します。

最初の楽曲、ルベルの「舞踏さまざま」は晋さんが最も好きな曲です。
フランスの宮廷の踊りをイメージし、華やかさの裏にある悲しさや憂いを音に込めていく晋さん。

バロックチェロの低く、優しい音色が3つの音と重なり合います。
そして、演奏会のクライマックスとなる後半。

ルクレールの「音楽の愉しみ 第2番 作品8」は30分休むことなく演奏が続きます。
疲れの出る後半。

晋さんは3人の息遣いを目で追いながら、笑顔でこの難曲を弾ききりました。

そしてアンコールに応えた1曲を加えた6曲を演奏し終えると、会場からは割れんばかりの拍手が鳴りやみませんでした。

恵さんはその光景を目に焼き付けていました。
「プロになったんだから、1曲終わるごとに舌を出すのはやめてほしいですよね」
演奏後の感想を尋ねたところ、開口一番はまさかのダメ出し。

でも、恵さんの目は、心なしか潤んでいました。
松本恵さん
「本当によくここまで頑張ったなと。まだまだスタートラインに立っただけですが、彼がやりたいことを続けられるよう私は応援し続けようと思います」

演奏会のあとで

演奏会の取材から3週間。

テレビでの放送を間近に控え、確認することが出てきたので、私は改めて恵さんと豊さんのもとを訪れました。

用件を済ませて帰ろうとしたとき、ふと、恵さんが話し始めました。

「私も晋との30年をまとめることができて本当によかったです」

「とんでもないです。貴重なお話が聞けました。テレビでもたっぷりお伝えしますね」

「ほんとよかった。わたし、テレビで放送された翌日に入院するからギリギリ見られるんですよ」

えっ?入院?

「私、大腸ガンなんです。それもステージ4」

「…」

何度もお会いし、何時間もお話を聞いてきましたが、そんなこと、ひと言も聞いていません。

突然の告白に頭が真っ白になって、次のことばが出ない私を察し、恵さんが続けました。

「肝臓、肺にも転移しちゃって。でも元気そうでしょ。全然、治す気でいるし、退院後の予定もたくさん入れてるのよ」
明るく話す恵さんの横で豊さんの表情は曇っていました。

がんと分かったのは去年11月のことだったといいます。

私たちが取材依頼を受け取ったのは、そのひと月あとでした。

どうして、取材のきっかけとなったあの投稿にひきつけられたのか。

恵さんがどんな思いで、今回の取材を受けたのか。

撮影のためにお願いして、恵さんと晋さんに奏でてもらった旋律を聴いたとき、どうしてあんなに心が揺さぶられたのか。

いくつもの疑問が氷解していくような思いでぼう然となりました。

少しして、豊さんが口を開きました。

「そういうことです」

「退院したら快気祝をやりますからね。絶対にやりますからね」

絞り出したひとことでした。

「退院後が楽しみだわ」

恵さんは最後まで笑顔でした。

そう「無理」じゃない

帰り道、2人が奏でてくれた楽曲、「花は咲く」のメロディーが頭の中で流れていました。
そして、恵さんが30年前の自分に向けて話したことばを思い出していました。
「あなたの子どもには想像もつかない未来が待っています。だから大丈夫。無理無理じゃない。諦めちゃいけないよって伝えたい」
あのことばは、かつての自分にだけでなく、病と闘うことになった今の自分にも語りかけたものではなかったか。

大丈夫。

そう、「無理」じゃない。