“ムツゴロウさん” 畑正憲さん 心筋梗塞のため死去 87歳

「ムツゴロウ」の愛称で親しまれ、動物とのふれあいをテーマに多くの文学作品を執筆し、テレビ番組などでも活躍した作家の畑正憲さんが5日、心筋梗塞のため亡くなりました。87歳でした。

畑さんは福岡市生まれで、東京大学大学院を経て、学習研究社で動物記録映画の制作に携わり、退社後、本格的に作家活動を始めました。

1971年に北海道の無人島に熊や馬を連れて移住し、翌年に北海道の浜中町に人と動物がともに暮らす「動物王国」を作りました。

「ムツゴロウ」の愛称で親しまれ「ムツゴロウの青春記」や「ムツゴロウの動物交際術」など、人と動物とのふれあいを描いた数々の著作を発表し、1977年には菊池寛賞を受賞するなど、動物文学の第一人者として知られました。

文筆活動の傍ら、テレビ番組にも出演し、世界各国を旅してさまざまな動物と触れ合う姿が人気を博しました。

1986年には親とはぐれた子猫が旅をしながら成長していく姿を描いた映画「子猫物語」の監督も務めました。

関係者によりますと、畑さんは5日に自宅で倒れ、北海道内の病院で心筋梗塞のため亡くなりました。87歳でした。

漫画家 五十嵐大介さん「自身で体験しながら知を積み上げ」

「海獣の子供」などの作品で知られ、NHKの番組で畑さんと対談したことがある漫画家の五十嵐大介さんは、NHKの取材に対し、「子どものころから畑さんの番組を見ていました。実際に会うとテレビの印象以上に物事の真理を見つめていて、優しいまなざしもありましたが強いまなざしもあり、緊張感がありました。生物全般に対する深い知識があり、机上の学問でなく自身で体験しながら知を積み上げていると感じました。もっとお話ししたかったですが、残念です」と話していました。

脳科学者 茂木健一郎さん SNSで悼む声

SNSのツイッターには畑さんの死を悼む声が寄せられています。

このうち、脳科学者の茂木健一郎さんは「畑正憲さんと対談させていただいた時、その温かいお人柄と鋭い知性の組み合わせに心ふるえ、感動しました。ムツゴロウさんのお仕事は、これからもたくさんの人の心を動かし、人間が歩むべき道を示してくださることでしょう」などと投稿しました。

さかなクン 「天国でも楽しくすギョされてください」

畑さんが亡くなったことを受けて、東京海洋大学名誉博士の「さかなクン」は、追悼のイラストとメッセージを寄せました。

イラストは笑顔の畑さんを愛称にちなんた魚の「ムツゴロウ」や、象や犬、猫などの動物が囲んでいます。

そして「ムツゴロウ畑正憲先生からたくさんたくさんいただきました感動は宝物です!ずっとずーっとたいせつに致します。ゆっくりお休みになられてください。私たちをあたたかく見守ってください。ありがとう“ギョ”ざいます」というメッセージが記されています。

また、さかなクンは「突然の訃報にとてもショックです。さかなクンも畑正憲先生のテレビ番組や本で育ちました!!命の輝きや尊さ。とびきりの元気と笑顔があってこそ自然の中の仲間たちと出会い感動をいただけることを学びました。お会いできました時の感激は、一生の宝物です。“われら動物みな兄弟”の精神をこれからも皆さまと共にずっとずっとたいせつに進んでいきます。畑正憲先生天国でも動物たちと楽しくすギョされてくださいね」とするコメントを出しました。

漫画家 川崎のぼるさん「動物と人間の距離を縮めてくれた」

畑正憲さんが原作を担当した自伝的漫画、「ムツゴロウが征く」で、作画を担当したのは「巨人の星」などの作品で知られる漫画家の川崎のぼるさんでした。

NHKの電話インタビューに応えた川崎さんは畑さんについて「ムツさんは動物と人間の距離を縮めてくれました。その一方で、動物はただかわいいだけではなく、思うようにいかないものだということも教えてくれました。この作品でも、動物と死別する悲しさや危険性など、動物と向き合う厳しさも描くことを意識していました」と話していました。

作画を担当するにあたって川崎さんは、北海道にある畑さんの自宅を訪ねたということで、そのときの印象について「動物が本当に好きだということが、ちょっとしたしぐさからでも伝わってきて、あれだけ動物の中に入っていけるのは愛情だけではなく、知識もあったからだと思います。とてもフランクで明るく、よく笑う人で、こういう人だから動物をとりこにするんだなとよく分かりました」と話していました。

また、川崎さんが馬主となっていた競走馬が足を骨折した際には、畑さんが引き取って北海道で育ててくれたということで「畑さんは、その馬がほかの馬と競争するとハンデをあげても勝つんだと喜んで話してくれて、僕もそれを聞いてうれしかったです。感謝しています」と話していました。

日本プロ麻雀連盟理事「イメージ向上につとめてくれた」

畑さんはマージャンが得意で、プロの雀士でもあり、日本プロ麻雀連盟の最高顧問も務めていました。

畑さんとマージャンを通じて40年近くのつきあいがあり、日本プロ麻雀連盟の理事で北海道本部長の喜多清貴さんは、「畑さんはマージャンのイメージ向上につとめてくれた」と話した上で、「マージャンへの愛情だけでマージャン界のために尽力いただいた。本当にありがとうございました、と言いたい」と振り返りました。

喜多さんは、36年ほど前、動物王国の中で畑さんが参加して行われた48時間、眠らずに行う勝負に記録担当者として同席したということです。

畑さんのマージャンは根気強さが特徴で、長期戦に強く、最終盤で大逆転して周囲を驚かせることも多かったということで、唇を長時間かみしめながら臨むため、唇から出血する姿もよく見かけたということです。

動物王国の元従業員「アイデアマンだった」

畑さんが北海道 浜中町につくった人と動物がともに暮らす「動物王国」の元従業員、石川利昭さんは「畑さんはアイデアマンで、科学者で、そして愛にあふれた人でした」と振り返りました。

北海道 中標津町に暮らす石川さんは、畑さんとおよそ50年来のつきあいで、20代前半のころから「動物王国」で働きました。

その時の畑さんについて「研究者として、起きた事象に対してすぐに対処できるアイデアマン」だったと振り返りました。

当時のエピソードとして「親と離れ離れになったアザラシの赤ちゃんを保護したことがありました。なかなかミルクを飲まない赤ちゃんに対して、畑さんがミルクをシャーベット状にして飲ませるアイデアを出したことで、しっかり成長させて海に帰すことができました。流氷の上で氷をペロペロとなめる別のアザラシの赤ちゃんの様子を参考に思いついたようで、脳にすばらしいコンピューターを持った方でした」と話しました。

また「畑さんは、麻雀が好きで強かった」となつかしそうに話していました。

石川さんはその上で「向こうの空の上で再会する方もたくさんいると思うので楽しく麻雀やっていると思います」と話していました。

旭山動物園 坂東園長「ずっと動物業界をけん引 残念な気持ち」

北海道旭川市にある「旭山動物園」の坂東元園長は「ずっと動物業界をけん引してきた方だったので、すごく残念な気持ちです。これからも畑さんが愛した生き物たちへの思いをみんなで引き継ぎ、動物園から魅力を伝え続けていきたい」と話していました。

坂東園長は12年前に旭川市内のホテルで開かれた「環境保全フォーラム」で畑さんと面会し、話をしたことがあるということです。

坂東園長は畑さんについて「人間として動物を客観的に観察するのではなく、自分が動物になったつもりで、動物の感性や能力などを考えるところにとても魅力を感じていました。私自身も、旭山動物園の施設を考えるときにお客様への見せ方ではなく、動物の感性を目覚めさせるための方法を考えるなど、動物への考え方や関わり方で多くのことを参考にしていました」と話していました。

むつかけ漁名人 岡本忠好さん「本当にムツゴロウのようだった」

「ムツゴロウ」の生息地で知られる佐賀県鹿島市では、生前の畑正憲さんを知る「むつかけ漁」の名人、岡本忠好さんが「本当にムツゴロウのようだった」と別れを惜しんでいました。

鹿島市で干潟に出てきたムツゴロウを針で引っかけて釣る「むつかけ漁」の名人、岡本さんによりますと、畑さんが鹿島市を訪れたのは14、5年前ということです。

岡本さんは、テレビのロケをしていた畑さんが泥の中に隠れるように干潟に腹ばいになった様子を見て驚いたと言います。

岡本さんは「子どもが干潟の上で遊ぶのはよく見るが、泥の中に入って楽しそうにしているのを見た大人は畑さんが初めてだ。泥の中に顔を伏せ、1分ほどしてからプハッと顔を出した。本当に干潟の住人、ムツゴロウのようですごいと思った」と話していました。

また畑さんは、干潟で遊ぶ子どもたちを見て「いいな、いいな」と喜んでいたということです。

岡本さんは「こんなに干潟を楽しんでくれる人がいるんだと思った。50年以上、干潟に携わっているが、畑さんの様子を見ると干潟への思いは足元にも及ばないと感じた」と振り返っていました。

そして畑さんが亡くなったことについて「亡くなったのは残念だが、干潟を思う畑さんの気持ちは自分の中に大きく残っている。この干潟を全国の人にもっともっと伝えていきたい。特に子どもたちが畑さん=ムツゴロウさんのように干潟を楽しむ姿を見たいと思う」と話し、別れを惜しんでいました。