このマークの意味 知ってますか?

このマークの意味 知ってますか?
2023年春、日本の映画界が総力を挙げてある取り組みに乗り出しました。

そのシンボルとなったのが、カチンコをデザインしたマーク。
その名も『映適マーク』です。

このマークが生まれた背景には、日本映画界を危機的状況に陥れかねない、古くからのある慣習がありました。

その意味を知ると、日本映画を見る目が変わるかもしれません。
(科学文化部 記者 加川直央)

仕事は増える 若手は辞める…

映画の撮影助手としてチーフを務める萬代有香さん。
ニューヨークで映画づくりを学ぶなどしたあと、2009年にフリーランスの撮影助手「見習い」として映画業界で働き始めました。

当初は低予算の作品での仕事が多く、始発で集合場所に向かい、日が暮れるとスタジオに移動して撮影を続け、帰るのは終電ギリギリでした。

終電に間に合わない撮影の際にはバイクで通いましたが、早朝から深夜までの撮影が続くと寝不足の状態で運転しなければなりませんでした。
萬代有香さん
「低予算の映画ではタクシー代や宿泊費の予算がないので、郊外のロケでは、なんとか終電に間に合うように撮影を終わらせます。ようやく帰宅して2時間仮眠して、また撮影に行くというような毎日でした。撮影以外にも移動や機材のメンテナンスなどに時間が取られ、結局、寝る時間は無くなってしまうんです」
その後、見習いから、サード、セカンドと呼ばれる立場となり、現在はチーフになりましたが、厳しい労働環境は大きくは変わらず、仕事に追われる毎日が続いています。

フリーランスは、体調を崩すなどして働けなくなると収入が無くなる不安定な立場です。年金や社会保険料の支払いはもちろん、撮影機材を自腹で購入することも珍しくありません。
さらに現場のスタッフを困らせているのは、日本の映画業界の慣習です。

日本映画は、作品ごとにフリーランスのスタッフを集めて制作されることが多く、その際には知り合いのつてなどで声がかかります。しかし、労働条件などは契約書として交わされずに口約束で決めることが常識となっていました。
萬代有香さん
「過去には『撮影態度が悪かった』などの理由で、当初、約束していた報酬が一方的に減額されることがありました。不払いになったという話を聞いたこともあります。でも、契約書がないので、弁護士を立てて裁判しようにも争うことができない。私はコロナ禍で休業補償などをしっかりしてもらう必要があると思ったので、自分で契約書を用意するようになりました。ただ、あまりいい顔をされないというのが現実です」
さらに、ここ数年はインターネットの配信作品や深夜ドラマなどが増え、スタッフの人手不足が深刻になってきています。

若手が入ってきても激務の映画業界に耐えられず辞めていく人が多いため、萬代さんたちのように業界に残っているスタッフが、その分を働くしかないのが現状です。

萬代さんも2022年は、1年を通じてドラマや映画などの作品に参加し続け、自律神経の不調のため不眠症になったといいます。
萬代有香さん
「映画の撮影が入ると、数か月間は拘束されます。スケジュールに予備日はありますが休日はなく、基本的にプライベートの予定は入れられません。家族ができたり、メンタルを壊したりすると、とても働き続けられない。後輩から『別の映像業界に転職します』と言われても、気持ちは理解できるので止められません。でも、お芝居を撮影するというのは、とても経験がいる仕事なので、熟練した人材はどんどん限られてきている状況です」

日本 映画界 先行きに懸念の声

2017年のユネスコ統計研究所の調査に基づく世界の映画制作本数ランキングによると、日本はインド、中国、アメリカに次ぐ4位の594本で、韓国やフランスを大きく上回ります。
また日本映画製作者連盟によりますと、2022年の1年間に日本で公開された映画は634本です。日本の映画制作は非常に勢いがあるように見えます。

しかし、その先行きを懸念する声は日に日に強まっています。

2019年、経済産業省が映画の制作現場の労働環境について実態調査を行いました。映画制作に携わる1051人が回答し、そのおよそ76%をフリーランスのスタッフが占めていました。このうち「映画制作で携わる上での問題点」という設問に答えたフリーランスのスタッフ、550人の回答結果は次のとおりです。
【フリーランスのスタッフ「映画制作で携わる上での問題点」(複数回答)】

▽「収入が低い」78%
▽「勤務時間が長すぎる」75.8%
▽「この業界の将来性に不安がある」72.9%
多くの人たちが、労働環境の厳しさと業界の将来への不安を感じていました。
過酷な労働環境のせいで若手が定着しなければ撮影技術が受け継がれなくなり、作品の質に影響が出るおそれがあります。その結果として興行収入が落ち込むと、さらに次の映画にかけられる制作予算は減ってしまい、現場の労働環境も悪化してしまいます。そんな悪循環が起こる可能性を示唆した結果でした。

“映”画を“適”正につくろう

このままでは日本の映画は先細る一方だと、映画界をあげての議論が始まりました。
そして、およそ4年にわたる議論を経てできたのが、労働環境などが適正と認定された作品に『映適マーク』を表示する新しい認定制度です。

認定は新たに設立された一般社団法人「日本映画制作適正化機構」、通称「映適」が行います。

労働環境などが適正かどうかは、映適が定めた映画撮影のガイドラインにのっとって判断されます。

今年度から申請の受け付けが始まります。
2023年3月29日、“映適”と、大手映画会社でつくる「日本映画製作者連盟」、独立系プロダクションでつくる「日本映画製作者協会」、さらに監督や撮影など8つの映画の職能団体、あわせて11の団体が、この認定制度の協約に調印しました。

新たな認定制度のスタートを前に行われた会見の場で、映適の理事長に就任した東宝の島谷能成会長は…。
映適 島谷能成 理事長
「法令を遵守して作品を作らなければ映画界の発展はない。ようやく新しい一歩を踏み出せる」

ガイドラインの中身は

この認定制度の肝は、新たな「ガイドライン」です。

これまで映画の撮影現場には、こうした統一したルールがありませんでした。そこで、今回の制度に先だって、さまざまな立場で映画に関わる人たちが議論を重ね、映画撮影のガイドラインを作成しました。一体、どんな内容なのでしょうか。
【撮影時間】
1日の撮影時間は、準備と撤収を含め原則1日13時間以内と定めています。また、2週間に1日は完全に休む日を設けることとしています。

【契約書】
すべてのフリーランススタッフに対し、契約期間や業務内容、金額や支払日などを明記した契約書を交わすことが定められました。契約書のひな形も用意されています。

【ハラスメント】
労働環境を守るため、ハラスメント対策についても盛り込まれました。作品ごとにハラスメントを防止する責任者を必ず選任し、ハラスメント講習をすべてのスタッフを対象に行うことに努めるとしています。ハラスメント対策は、映適のウェブサイトに掲載されている最新版の「ハラスメント防止ガイドライン」に基づいて行うこととされています。

【制作費】
やむを得ない事情で制作費の予算を超えた場合、映画の発注側である製作委員会などが超過分を負担することとされています。これまでの映画界では契約書が無かったため、具体的な対応が事前に話し合われることはなかったということです。
この認定制度に申請する場合、撮影前にスケジュールやスタッフリスト、作品の脚本などを映適に提出します。

撮影後は、実際の撮影時間などを記した日報のほか、ガイドラインをどれくらい守ることができたかの自己評価を記入した書類なども提出し、その内容をもとに審査が行われます。

審査の結果、認定されると、作品に『映適マーク』を表示することができます。

この認定制度以外にも、映適はスタッフの処遇改善・人材育成を支援する「スタッフセンター」を設置することになっています。

このセンターでは、フリーランスのスタッフや映画学校の学生などがデータベースに登録され、契約締結の際のサポートやキャリア履歴の管理などを行うほか、映画制作に関わるセミナーの実施や、ハラスメントの対応窓口の設置なども予定しているとしています。

映画監督の反応は…

以前から映画界の労働環境の適正化を訴えていた人がいます。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「万引き家族」や「誰も知らない」などの作品で知られる是枝裕和監督です。

2022年6月、是枝監督はほかの映画監督や弁護士と共に「日本版CNC設立を求める会」を立ち上げました。「CNC(セーエヌセー)」とは、フランスで映画産業の振興や適正化を所管する「国立映画センター」のことです。
公的な機関ですが、運営には映画のチケット代などの一部が充てられていて、まさに映画界自身が映画の制作環境の適正化を担っているとも言えます。是枝監督たちは、こうした組織を中心に映画界の労働環境を整備することを提言してきました。

今回、作成された映画撮影のガイドラインについて、是枝監督は、これまでルールが全くなかった業界に一定のルールを示したことを評価した上で、次のように指摘します。
是枝裕和 監督
「ガイドラインで示された『1日の撮影時間が13時間以内』『休日は2週間に少なくとも1日』という労働環境で、本当に若手スタッフや子育て中の女性が働けるでしょうか。僕が以前、監督した作品では、原則として1日の上限が10時間、5日働いたら1日休みというルールで撮影していました。私は比較的予算も多くあり、撮影期間も長いので、これを実現できている面もありますが、客観的に見て、今回のガイドラインの条件では、依然として映画業界を諦めざるを得ない人が出てくるでしょう。フリーランスなんだから集中的に働いて、あとで長期間休めば良いだろうという意見もありますが、それで生活ができるような給料をスタッフはもらっていません」
是枝監督がこうした指摘をする背景には、海外で映画を撮影してきた自身の経験があります。

是枝監督の話では、例えばフランスでは1日の撮影時間が8時間まで、週休は2日です。
さらにスタッフを土曜日に働かせる場合は2倍、日曜日なら3倍のギャラを支払わなければならないそうです。

また、韓国でも撮影時間は週に52時間までと決められています。韓国映画の制作現場は、もともと日本と同じような過酷な労働環境でしたが、劇的に働き方改革が進みました。ただし、結果として制作費がおよそ1.5倍になったという話を聞いたとのことでした。

では、海外での撮影はどんなものだったのでしょうか。撮影時間が短くなって効率が下がったり、時間がかかったりはしないのでしょうか。
是枝裕和 監督
「海外での撮影は本当に楽でした。撮影にフランスで8時間かけるのと、日本で12時間かけるので、撮れる量は実は同じなんです。僕は日本でもトップレベルのスタッフと仕事をしてきたので、違いがあるとしたらスタッフの人数です。現場の合理化が必要なのは間違いありませんが、今も漫然と撮影しているわけではなく、これ以上、スタッフの努力でどうにかなる問題ではない。適切な労働時間で、なおかつ効率よく撮影するには、お金がかかるということです。制作費を増やす覚悟がないと、現場の環境は変わりません」
ただ、低予算の映画に制限がかかると、意欲的な作品が減り、日本映画の多様性が失われてしまうのではないかという懸念も是枝さんは感じています。

多様な作品が生み出せる環境を守るためにも、公的な下支えが必要だと言います。
是枝裕和 監督
「日本映画の質が落ちているとは思いませんが、国際競争力はありません。海外から見ると、ほぼ助成もないのに趣味的な映画がたくさん作られている不思議な国だという印象です。韓国映画は働き方改革で多様性は減りましたが、同時に低予算の映画を支援する仕組みがあり、国際競争力のある大作映画と低予算の独立映画が共存できています」

問われる今後の運営

映適では、最終的にすべての作品が映適マークを付けて欲しいとしていますが、2023年3月の会見で島谷理事長は、初年度の目標は認定作品を「20本」としました。

年間およそ600本の映画が公開されている日本では、かなり少ない数に思えますが、島谷理事長は「スモールスタート」を強調しました。
映適 島谷能成 理事長
「いまの映適の事務局は4名体制で、20本なら何とかスタートを切れると思っている。これから審査本数が増加すると、人や予算も増やしていかなければならない。映画に関わる人たちに広く協力頂きながら、独立した機関として運営できるようにしていきたい」
『映適マーク』を取得するためには、これまでよりも制作の負担が増えることは否めません。また、今のところ『映適マーク』取得による優遇措置や、取得しないことによるペナルティなどもありません。

スタートしたばかりの認定制度ということもあり、撮影現場のスタッフたちへの認知度も含め、まだ十分に浸透しているとは言いにくいのが現状です。
映適 島谷能成 理事長
「まずは映画適正化という考え方がどれだけ浸透していくかが勝負だ。映画界で仕事をする人たちが『映適マーク』を付けたい、『映適マーク』がある作品で仕事をしたいと思うようになることを願っている。健全な現場から良い作品が生まれて、それが映画の多様性にも影響していくはずだ。これからさまざまな問題が出てくると思うが、乗り越えていけると確信している」
是枝裕和 監督
「欠点だらけかもしれないが、ルールができた。スタートとしてはしかたないと思うし、それを見直すと言っていることに期待しています。今後、現場から意見を吸い上げて、修正していって欲しい。コーヒーのフェアトレードのラベルのように『映適マーク』があれば『誰も搾取されていない作品だから』と応援したい人が出てきて、そういう作品作りの現場に参加したいと思う人が増えていくのが本来の姿ではないでしょうか」

映適マークを見たら

映画業界の働き方を変えるかもしれない『映適マーク』。
あくまで映画業界の内側の話に聞こえるかもしれませんが、私たちが見る映画は、多くのフリーランススタッフたちに支えられています。

例えば“推し”の俳優が参加している作品が、健全な労働環境で作られていると知ったら、ちょっとうれしくなりませんか?

その監督が作っている、ほかの作品も見てみたくなるかもしれません。

もし来年の今ごろ、映画館でこのマークを見かけたら、そこで働いているスタッフたちの働き方に思いをはせてみて下さい。

その積み重ねが、日本の映画の未来につながるのかもしれません。
科学文化部 記者
加川 直央
2015年入局
京都局を経て2020年から現所属
主に文化やITの分野を取材