避難指示が解除されたのは、町内に残る帰還困難区域の4%に当たる室原、末森、津島、大堀の4つの地区の合わせて6.61平方キロメートルで、午前10時に防災行政無線で避難指示解除が伝えられたあと、室原地区で町や国の職員と住民が出席して、警察や消防のパトロールの出発を見送る式典が開かれました。
また、立ち入り規制が続いていた大堀地区では、バリケードなどが撤去されました。
浪江町は、12年前に起きた原発事故で全体のおよそ8割が立ち入りが厳しく制限される帰還困難区域になり、今回、避難指示が解除された地域では、「特定復興再生拠点区域」として先行して除染やインフラ整備が進められていました。
室原地区に帰還する予定の小澤晴久さん(72)は「この12年いろいろなことがあったので、解除された瞬間はうれしさや安ど感が込み上げてきました。どれだけの人が帰ってくるか不安はありますが、ふるさとに戻ってなんとかにぎわいを取り戻していきたいです」と話していました。
浪江町には、依然として、原発周辺の自治体の中で最も広い174平方キロメートル余りの帰還困難区域が残されています。
先に解除された地域も含め帰還を希望する人が伸び悩む中、まちづくりの担い手をどのようにして呼び込むかが課題となっています。
吉田栄光町長は「復興への道のりはまだ長いが、帰還困難区域でも避難指示が解除されたことは一歩前進だ。帰還する人、移住してくる人で新たな街を形成し、ふるさとを次の世代につないでいきたい」と話していました。

福島 浪江町 帰還困難区域の一部 12年余続いた避難指示解除
福島県浪江町の帰還困難区域の一部で東京電力福島第一原子力発電所の事故のため12年余りにわたって続いていた避難指示が31日午前、解除されました。

町の8割近く帰還困難区域のまま 解除の見通し立たず
浪江町は、今回の解除の後も依然として町の面積の8割近くが帰還困難区域となったままで、避難指示解除の具体的な見通しは立っていません。
浪江町南部の小丸地区に自宅がある桑原信一さん(71)はおよそ50キロ離れた本宮市に避難していて、月に1度のペースで自宅に戻っています。
自宅は桜や紅葉の名所として知られる県立自然公園高瀬川渓谷の近くにあり、原発事故が起きる前は桑原さんらこの地区の住民が遊歩道の整備や案内板制作などを長年行っていました。
帰還困難区域となり、立ち入りが厳しく制限されてからは、許可をとって高瀬川渓谷に通い、写真を通じてふるさとの魅力の発信を続けています。
桑原さんの両親は、帰還を果たせぬまま原発事故の2年後に亡くなりました。
桑原さんは「両親は『早く戻りたい』と言いながら他界してしまいました。ここの自然が大好きなので、1日でも早く除染と避難指示の解除をしてもらい帰還したいですが、それまでに自分の気力と体力がなくならないか不安です」と話していました。
妻のヒデ子さん(69)は「帰還を希望する人の宅地だけを除染するという国の枠組みが示されていますが、それでは帰還後の生活が不安です。この12年間、『復興とは何だろう』と考え続けています。他の拠点区域外の人も帰りたいけれど帰れない、諦めざるをえないという人がほとんどで、12年という時の重みを感じています」と話していました。
浪江町南部の小丸地区に自宅がある桑原信一さん(71)はおよそ50キロ離れた本宮市に避難していて、月に1度のペースで自宅に戻っています。
自宅は桜や紅葉の名所として知られる県立自然公園高瀬川渓谷の近くにあり、原発事故が起きる前は桑原さんらこの地区の住民が遊歩道の整備や案内板制作などを長年行っていました。
帰還困難区域となり、立ち入りが厳しく制限されてからは、許可をとって高瀬川渓谷に通い、写真を通じてふるさとの魅力の発信を続けています。
桑原さんの両親は、帰還を果たせぬまま原発事故の2年後に亡くなりました。
桑原さんは「両親は『早く戻りたい』と言いながら他界してしまいました。ここの自然が大好きなので、1日でも早く除染と避難指示の解除をしてもらい帰還したいですが、それまでに自分の気力と体力がなくならないか不安です」と話していました。
妻のヒデ子さん(69)は「帰還を希望する人の宅地だけを除染するという国の枠組みが示されていますが、それでは帰還後の生活が不安です。この12年間、『復興とは何だろう』と考え続けています。他の拠点区域外の人も帰りたいけれど帰れない、諦めざるをえないという人がほとんどで、12年という時の重みを感じています」と話していました。