大学1年生の私が見た 福島第一原発の今

大学1年生の私が見た 福島第一原発の今
私は堀江珠音といいます。朝起きてから夜寝るまでTwitterを見ている「ツイ廃」です。行動的でもなく社交的でもない。去年入学した大学でも「新歓コンパ」には一度も参加したことはありません。そんな私が、勇気を出して手を挙げたことがあります。

「東京電力福島第一原子力発電所を視察する」ということです。

私は現在、NHKでアルバイトをしています。原発事故については、幼い頃忘れられない記憶があります。その一方で、事故についてあまり知らない自分もいます。事故に関する報道は、時に難しい専門用語もあって同じ世代に情報が届いていないのではないかと思っていました。

今回、取材班が原発に取材に行くと聞き、同世代の目線で発信する機会になるかもしれないと思い、同行したいと手を挙げました。

原発事故が起こった時8歳だった私は20歳になりました。大学1年生の私が見た福島第一原発の体験を率直につづってみたいと思います。

あの日、私は牛乳が飲めなくなった

原発事故があったのは小学校2年生のとき。事故が起きて、日本がどうなっているか正直全然わかりませんでした。
埼玉県に住んでいた私の日常にも変化がありました。学校で一番の楽しみだった給食の時間です。当時、私は学校に行くことが苦手で、大好きだった給食の時間だけ登校することもありました。

楽しみにしていたハンバーグやスープが出てこなくなり、さばのみそ煮や納豆、それと牛乳というメニューに変わりました。そして、給食中の教室は異常に静かだったのを覚えています。

小学3年生のころ。友達の中に1人だけ牛乳ではなく麦茶を飲む女の子がいることに気付きました。

「牛乳、アレルギーだから飲めないの」

でも、私は入学した時からずっと同じクラスだったので、その子が本当は牛乳を飲めることは知っていました。

なんで急に飲めなくなったんだろう?

その子はある日、「お父さんとお母さんに、『牛乳は放射能に汚染されている。飲むとガンになるから飲むな』って言われたの」とそっと教えてくれました。

その日から、私もしばらくの間、毎回牛乳を残しました。

今思えば、当時の私は信じられる情報がわからず、不安になってしまっていたのだと思います。
【取材班メモ】埼玉県畜産安全課によると、2011年度、埼玉県の原乳で基準値を超える放射性物質を検出した事例は無かった。

初めて行く福島第一原発

福島は私の母の故郷です。

それでも原発がある浜通り(太平洋側の地域)は縁がなく、原発事故後に訪れるのは初めて。

バスの窓から見た原発周辺の街の印象を、「平らだな」と思ってしまいました。

避難している人たちの一部は地元に戻り始めているとニュースで見て知っているつもりだったけれど、原発事故のせいで12年前から時間が止まったままの場所もあるんだと改めて思い知りました。
【取材班メモ】避難指示が出ている範囲は当初の4分の1程度(約1150平方キロメートルのうちの約320平方キロメートル)に縮小したが、今も2万人以上が避難を余儀なくされている。
福島第一原発に到着しました。

現場に入るにはいくつもの準備が必要でした。
例えば、首からぶら下げる、青い色の線量計。これは体に浴びる「外部被ばく」を調べるためのもので、一人1台必ず身につけるのがルールでした。

1号機原子炉建屋まで100メートル

そして私は事故を起こした原子炉建屋に向かいました。

こんなに近くまで行けるのか…と驚きながら、1号機まで約100メートルの近さのところまでゆっくりと歩いていきます。
爆発によって大きく壊れた1号機…むき出しになった鉄骨が露出する「あの建物」が目の前に迫ってきました。

ピーーー!

20マイクロシーベルトの被ばくをするごとに発する警報音が初めて鳴りました。
離れた場所では1時間当たり0.2~0.6マイクロシーベルトほどだった放射線量は、この場所では1時間当たり100マイクロシーベルト近くまで上がっていました。これでも事故当時に比べれば桁違いに放射線量は下がったのだと言います。
【取材班メモ】一般の人の被ばく限度は年間1ミリシーベルト(1000マイクロシーベルト)とされている。
「怖くないの?」
同行した人たちに質問され、自分が怖いとは感じていないことに気付きました。

その中の1人が、
「震災直後は、天気予報のようにきょうは○○マイクロシーベルト、と報道されていた。だからシーベルトと聞くだけで怖いんだよ」と言いました。

小学2年生だった私は、事故当時のことを本当に知らないんだ、放射線量の「怖さ」を実感できていないんだ。この場所に立ってはじめて、「自分は知らない」ということを感覚として知りました。

そして、「何か思っていたのと違う…」私はそんな印象も持ってしまいました。

福島第一原発に来る前の私は、「深刻な事故現場」のようなものを想像していました。人が近づくこともできず、荒れ果てているのではないか…そう思っていました。
けれど、目の前には、クレーンが動き、規則正しく、たんたんと作業員の方が働く光景もありました。まるで日常の「工事現場」のように感じました。

うまくことばにできないけど、同じ日本で同じ時間軸でも、これだけ違う場所がある、ということを見せつけられました。

処理水で飼育される魚

建屋から少し離れた場所に、思ってもみない施設がありました。

大きな水槽があり、中をのぞくと、平べったい魚がたくさん…ヒラメです。
トリチウムを含む「処理水」を海水で基準以下に薄めて海に放出する計画に関係しているそうです。風評被害を心配する地元の方から「問題ないなら、その中で魚を育ててほしい」と求められたのがきっかけだと言います。
【取材班メモ】福島第一原発でたまるトリチウムなどの放射性物質を含む処理水について、政府は基準の40分の1未満まで薄めたうえで、ことし春から夏ごろにかけて海への放出を始める方針。
東京電力の人たちは自分でヒラメやアワビの飼育の様子をTwitterとYouTubeで日々発信していました。
私がいつも見ているTwitterにはさまざまな意見が飛び交っています。もしもSNSだけ見ていたら、この取り組みを素直には信じていなかったかもしれません。自分の目で見て、SNS上の発信と実際の取り組みがつながった気がしました。

福島の食

福島第一原発には、もう1つ印象に残った場所がありました。

「大型休憩所」にある食堂です。
「できるだけ、地元の福島県の食材を使った食事を提供しています」と説明があり、この日は豚肉や米、野菜の一部などに福島県産の食材が使われていました。「おいしそう」と率直に思いました。

事故の直後の記憶にある「私の給食」のような風景は、福島第一原発の中にはありませんでした。
私のひいおばあちゃんは、福島県田村市でたくさんの野菜を育てていました。祖母や母、家族は、その野菜を楽しみにしていました。

SNSでは今でも「福島の食材は危ない」といった投稿を目にすることがあり、悲しい気持ちになります。検査で安全が確認された食材は広がってほしいと思いました。

勇気を出して来てみてよかった

勇気を出して福島第一原発まで来て、これまで思っていたイメージと違うなと思いました。

原発に行く前に見た、人が戻れない街の光景も忘れられません。まだ街に戻れない方がいるのも現実です。廃炉作業はこの先、まだ長い時間がかかると聞きました。

今回の視察で私が見たのは、福島第一原発のわずか一部ですが、自分の目で見て耳で聞き、頭で考えることの大切さを改めて感じました。今後さらに自分で調べ、さまざまな立場の人の話を聞いてみようと思いました。

原発の問題だけでなく、ほかの事に関しても、体験できることは自分で体験し、自分の意見を持ちたいと思います。

小学3年生の時に牛乳を飲めなかった女の子は、今、私と同じ大学に通う親友です。

今回私が見たこと、聞いたことを、まずはその彼女に伝えたいと思います。
デジタルセンター
石丸響子
報道番組ディレクターを経て現所属
番組・プロジェクトのデジタル発信や地域局のコミュニティ連携をサポート
人事局デジタルグループ
名倉孝
2019年入局
名古屋局、松山局を経て現所属