今や国内有数の流通グループとなったセブン&アイ・ホールディングス。
その礎を築いたのが伊藤雅俊氏です。
イトーヨーカ堂創業者 伊藤雅俊氏死去 セブン&アイの礎築く
大手スーパー「イトーヨーカ堂」の創業者で、総合スーパーやコンビニエンスストアなどを傘下に持つ「セブン&アイ・ホールディングス」の礎を築いた、伊藤雅俊名誉会長が、3月10日に亡くなりました。98歳でした。
伊藤氏は、昭和33年に家業の洋品店をもとに、イトーヨーカ堂の前身となる衣料品店「ヨーカ堂」を東京 足立区に設立し、社長に就任しました。
その後、アメリカのスーパーマーケットを参考に、品ぞろえを食品や生活用品にも広げて総合スーパー事業に乗り出し、社名を「イトーヨーカ堂」に改めました。
また、ファミリーレストランの「デニーズ」やコンビニエンスストアの「セブン‐イレブン」といった幅広い事業展開にも着手し、イトーヨーカ堂が国内有数の流通グループである「セブン&アイ・ホールディングス」となる礎を築きました。
伊藤氏は平成4年、社員による総会屋への利益供与事件の責任をとって社長を辞任しました。
平成17年にはセブン&アイ・ホールディングスの名誉会長になり、経営の一線から退いていました。
会社によりますと、伊藤氏は老衰のため3月10日に亡くなりました。98歳でした。
巨大流通グループの礎として
洋品店から総合スーパーへ
伊藤雅俊氏は、1958年に今のイトーヨーカ堂の前身となる「ヨーカ堂」を設立しました。
その発祥は、伊藤氏の叔父が1920年に開業した洋服を扱う洋品店です。
その後、事業を引き継いだ伊藤氏は、アメリカのスーパーマーケットを参考に総合スーパーの運営に乗り出します。
1961年からはチェーン展開を進め、品ぞろえを食品や生活用品にも広げます。
1970年には社名を現在の「イトーヨーカ堂」に改めて出店を拡大。
最も多い時には182店舗を展開しました。
その発祥は、伊藤氏の叔父が1920年に開業した洋服を扱う洋品店です。
その後、事業を引き継いだ伊藤氏は、アメリカのスーパーマーケットを参考に総合スーパーの運営に乗り出します。
1961年からはチェーン展開を進め、品ぞろえを食品や生活用品にも広げます。
1970年には社名を現在の「イトーヨーカ堂」に改めて出店を拡大。
最も多い時には182店舗を展開しました。
商売の道は「最悪を考え、信用を第1に」
戦後を代表する小売業界の経営者として一時代を築いた伊藤氏は、商売人として「信用」を何より大切にしてきたといいます。
40年以上にわたり伊藤氏と親交があり、イトーヨーカ堂の社長も務めた亀井淳氏(78)は、訃報の一報を受けたあと、取材に対し、伊藤氏の経営哲学について次のように語りました。
「『お客様は来てくださらないもの。銀行は貸してくださらないもの。取引先は商品を売ってくださらないもの。常に最悪の事態を頭に入れて、だからこそ信用が第一で誠実に行動するように』と教わりました」
長年、グループの店舗開発を担い、時に数百億円という大きな投資を手がけることもありましたが、伊藤氏からは責任の大きさを十分理解するよう諭されたといいます。
「『君たちは未来のための大事な投資をしているが、われわれは豆腐1丁、パンツ1枚という小さい商売の積み重ねで稼いだお金を使っていることを忘れないでほしい』と伊藤さんから指摘されました。『俺たちにできない店作りを君が進めてくれていることには感謝している』と励ましてもいただきました」
40年以上にわたり伊藤氏と親交があり、イトーヨーカ堂の社長も務めた亀井淳氏(78)は、訃報の一報を受けたあと、取材に対し、伊藤氏の経営哲学について次のように語りました。
「『お客様は来てくださらないもの。銀行は貸してくださらないもの。取引先は商品を売ってくださらないもの。常に最悪の事態を頭に入れて、だからこそ信用が第一で誠実に行動するように』と教わりました」
長年、グループの店舗開発を担い、時に数百億円という大きな投資を手がけることもありましたが、伊藤氏からは責任の大きさを十分理解するよう諭されたといいます。
「『君たちは未来のための大事な投資をしているが、われわれは豆腐1丁、パンツ1枚という小さい商売の積み重ねで稼いだお金を使っていることを忘れないでほしい』と伊藤さんから指摘されました。『俺たちにできない店作りを君が進めてくれていることには感謝している』と励ましてもいただきました」
スーパーからコンビニ 外食 総合流通グループへ
伊藤氏は、グループとして新たなビジネスモデルも推し進めました。
コンビニエンスストア事業の展開です。
この時期、コンビニ事業を率いた部下の鈴木敏文 現セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問(90)のもと、アメリカで生まれたコンビニを日本に持ち込み、1974年から全国展開を開始。
その後「セブン‐イレブン」は国内で2万店を超え、グループの中核事業に成長しました。
コンビニエンスストア事業の展開です。
この時期、コンビニ事業を率いた部下の鈴木敏文 現セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問(90)のもと、アメリカで生まれたコンビニを日本に持ち込み、1974年から全国展開を開始。
その後「セブン‐イレブン」は国内で2万店を超え、グループの中核事業に成長しました。
現場重視を貫き 変化を
消費者の変化に対応し、成長を模索し続けてきた伊藤氏。
そこには、世代の垣根を越えて人の心をつかみ、ニーズをくみ取る人柄も大きく関わっていたといいます。
スーパーの業界団体のあるベテラン職員は「自分が新人職員だった時に『頑張ってるか?』と声をかけてくれました。当時でも日本で1、2を争うスーパーの経営者にもかかわらず、若い職員に気さくに接してくれるんだと感じてうれしくなりました」と振り返っていました。
前出の亀井氏も「社員とのコミュニケーションを大切にし、しょっちゅう聞き取りをしてはメモを取り、時代の変化を見ていたようです」と振り返ります。
名誉会長となり経営の一線を退いたあとも、90代になるまでグループ内外の店を視察し、最新トレンドを吸収しようとするなど、どん欲な姿勢は健在だったと言います。
かつて日本の小売業の隆盛を築いたイトーヨーカ堂ですが、設立から半世紀余りを経て、いま、大きな転機を迎えています。
伊藤氏が亡くなる前日の9日には、イトーヨーカ堂をめぐり大幅な店舗の削減や、アパレル事業からの完全撤退など、合理化を一段と進める方針が示されました。
伊藤氏は、みずからの著書「商いの道」の中で、「会社が大きくなると、経営者も、そこで働く社員も、冒険者たる魂を忘れ、リスクを怖れます。これでは会社に生気がなくなってしまいます。(中略)怖くても冒険心を持とうーそう私は考えるのです」と記しています。
次の世代に残されたメッセージに映ります。
そこには、世代の垣根を越えて人の心をつかみ、ニーズをくみ取る人柄も大きく関わっていたといいます。
スーパーの業界団体のあるベテラン職員は「自分が新人職員だった時に『頑張ってるか?』と声をかけてくれました。当時でも日本で1、2を争うスーパーの経営者にもかかわらず、若い職員に気さくに接してくれるんだと感じてうれしくなりました」と振り返っていました。
前出の亀井氏も「社員とのコミュニケーションを大切にし、しょっちゅう聞き取りをしてはメモを取り、時代の変化を見ていたようです」と振り返ります。
名誉会長となり経営の一線を退いたあとも、90代になるまでグループ内外の店を視察し、最新トレンドを吸収しようとするなど、どん欲な姿勢は健在だったと言います。
かつて日本の小売業の隆盛を築いたイトーヨーカ堂ですが、設立から半世紀余りを経て、いま、大きな転機を迎えています。
伊藤氏が亡くなる前日の9日には、イトーヨーカ堂をめぐり大幅な店舗の削減や、アパレル事業からの完全撤退など、合理化を一段と進める方針が示されました。
伊藤氏は、みずからの著書「商いの道」の中で、「会社が大きくなると、経営者も、そこで働く社員も、冒険者たる魂を忘れ、リスクを怖れます。これでは会社に生気がなくなってしまいます。(中略)怖くても冒険心を持とうーそう私は考えるのです」と記しています。
次の世代に残されたメッセージに映ります。