関東大震災から100年 大規模な火災防ぐ取り組み進む

ことしは10万人以上が犠牲になった「関東大震災」から100年になります。地震が昼どきに起きたこともあり東京や横浜市では大規模な火災が発生して甚大な被害となりました。
地震による火災を防ごうと、東京の大手ガス会社では首都圏に細かな地震計のネットワークを設けて被害が大きいと推定される地域のガスの供給を停止するなど、対策が進んでいます。

大正12年9月1日に発生した関東大震災では、関東各地で地震の揺れによる建物の倒壊や津波、土砂災害などが相次ぎました。

なかでも被害を大きくしたのが火災で、10万人以上におよぶ犠牲者のおよそ9割を占めました。

地震は正午前に発生し、多くの家庭では、かまどやしちりんなどを使って昼食の準備をしていたことなどから被害が拡大し、東京では焼失面積が38平方キロメートルに及びました。

首都圏を中心にガスを供給している東京ガスでは、地震のデータをもとに火災の発生を防ぐ取り組みを進めています。

関東南部を中心に地震計を1平方キロメートル当たり1基、あわせて4000基設置し、震度6弱以上に相当する激しい揺れを感知した場合にはデータをもとに地域のガスの供給を自動で停止するシステムを構築しています。

揺れを感知してガス漏れなどによる火災を防ぐ仕組みとしては、一般家庭に設置されているマイコンメーターがありますが、このシステムでは地区全体に供給されるガスを速やかに止めることで火災の防止につながるとしています。

東京ガスによりますと12年前の東日本大震災では茨城県日立市や横浜市の一部の地域でガスの供給を自動で停止し、ガス漏れなどによる大きな被害は発生しなかったということです。

地震計のデータは警視庁や首都高速道路などにも共有され、災害時の交通規制などに役立てられることになっています。

東京ガスネットワーク防災グループの相河淳一郎マネージャーは「阪神・淡路大震災や東日本大震災などの大規模な災害を契機に対策の高度化を進めてきました。首都直下地震が起きるかもしれないという状況の中で、災害の備えへの意識は非常に高まっていて、少しでもよくしていけるよう歩みを続けなければいけないと考えています」と話していました。

関東大震災 未曽有の被害に

今から100年前の大正12年9月1日に発生した関東大震災は、近代化した首都圏を襲った大地震により激しい揺れや、津波、土砂災害、それに大規模な火災などが発生し未曽有の被害となりました。

午前11時58分に関東南岸の「相模トラフ」を震源とするマグニチュード7.9の大地震が起き、当時の震度階級では
▽東京、神奈川県、千葉県、埼玉県、山梨県で震度6の激しい揺れを観測し、
▽北海道から四国にかけての広い範囲で震度5から1の揺れを観測しました。

内閣府の報告書などによりますと神奈川県のほか東京や千葉県など関東南部を中心にあわせて10万を超える住宅が全壊しました。

また、神奈川県鎌倉市では鶴岡八幡宮の拝殿など歴史ある神社や仏閣が倒壊したほか、重さ121トンもある鎌倉大仏が30センチ以上ずれ動きました。

相模湾を中心に津波も発生し、静岡県熱海市で12メートル、千葉県館山市で9メートルを観測しました。

震源に近い神奈川県の山間部を中心に土砂災害も相次ぎました。

なかでも現在の神奈川県小田原市根府川では大規模な土砂災害が発生して駅に止まっていた列車がホームごと海に流され、200人が死亡しました。

東京の埋め立て地や神奈川県の川沿いの低地では地盤の液状化が起き、地割れや建物の沈下なども発生して地下水が吹き出す現象も起きました。

火災による被害 9割

関東大震災の死者・行方不明者は10万5000人余りにのぼり、このうち9割が火災による被害です。

地震の発生時刻が昼食の時間帯に重なりかまどやしちりんなどを使っていたこともあって同時多発的に火が出て次々と延焼し、焼失面積が38平方キロメートルと大規模な火災となりました。

地震の揺れで断水したことや強風が吹いていたことも被害を拡大させた要因と考えられています。

特に被害が大きかったのが現在の東京・墨田区にあった「被服廠跡」と呼ばれる工場跡地です。

周囲から火の手が迫り、炎や煙が竜巻のようになる「火災旋風」も発生して、避難していた人の大半のおよそ3万8000人が死亡しました。

また、内閣府の報告書では朝鮮人が武装したり放火したりするなどといった根拠の無いうわさを背景に、各地で殺人事件が多発したとされています。

関東大震災では住む家を失い、避難を余儀なくされた人も膨大な数にのぼりました。

推計で100万人を超えるとされ、現在の千代田区や港区、台東区などにあたる「東京市」の人口のおよそ40%に当たり、上野公園には50万人以上が避難しました。

その後、「帝都復興計画」をもとに東京や横浜市では土地区画の整理や河川の改修、「昭和通り」など舗装された幹線道路の新設も進みました。

また、震災を教訓に「隅田公園」など数多くの公園が整備され、災害時の避難や防火の役割を担いました。

こうした復興事業を通じて新しい町並みが誕生し、東京の銀座や京橋は「晴海通り」の拡幅で次第ににぎわいを取り戻しました。