
東日本大震災12年【各地の動き】大切な人を思う 鎮魂の一日に
東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から12年です。岩手・宮城・福島の沿岸部などでは人口の減少が深刻になる中、若い世代の定着のために地域のにぎわいをどう取り戻すかが、大きな課題となっています。
11日に各地で行われた、犠牲者を追悼する式典、記憶を伝える行事などの様子を時系列でまとめました。
【特設サイト】3.11 伝え続ける 東日本大震災から12年
東日本大震災関連の最新ニュースや動画、被災地の復興状況を検証するコンテンツなどをまとめています。

17:30~ 宮城 石巻 大川小学校で灯籠にあかり

震災で多くの児童などが犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校では、児童の遺族などが鎮魂と震災の風化を防ぎたいという願いを込めて、手作りした竹の灯籠にあかりをともす取り組みを去年から行っています。11日は震災遺構の校舎近くの広場に当時学校に在籍していた児童の数と同じ108本の竹の灯籠が円形状に並べられ、午後5時45分ごろ、灯籠の中に通されたLEDが点灯されると、竹にあけられた穴から光が漏れて幻想的な雰囲気に包まれました。
今回のプロジェクトの共同代表を務め、大川小学校で当時6年生だった三男を亡くした佐藤和隆さんは「きょうという日は、多くの人にとって特別な日です。改めて12年前の災害を振り返る機会にしてもらえればと思います」と話していました。
また、共同代表で当時6年生だった次女を亡くした佐藤敏郎さんは「『お父さん、きれいだね』と言ってくれていると思います。自分の家族や未来のことを思い巡らせる、そんな時間にしたいです」と話していました。
今回のプロジェクトの共同代表を務め、大川小学校で当時6年生だった三男を亡くした佐藤和隆さんは「きょうという日は、多くの人にとって特別な日です。改めて12年前の災害を振り返る機会にしてもらえればと思います」と話していました。
また、共同代表で当時6年生だった次女を亡くした佐藤敏郎さんは「『お父さん、きれいだね』と言ってくれていると思います。自分の家族や未来のことを思い巡らせる、そんな時間にしたいです」と話していました。
16:30~ 宮城 石巻「がんばろう!石巻」看板前に約4000個の灯籠

津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市の南浜町では、多くの人を励ましてきた「がんばろう!石巻」の看板の前で追悼行事が行われ、地元の人やボランティアの人たちが、関連死を含めた市内の犠牲者の数にあたるおよそ4000個の灯籠を並べました。そして午後4時半ごろ明かりがともされ、訪れた人たちは静かに見つめ、犠牲者をしのんでいました。
ガラスの器にろうそくを置き、白やピンクの布で覆った灯籠には「震災のことを伝えていきます」とか、「誰もが小さな幸せ感じて暮らせますように」などと、メッセージが書かれています。灯籠の明かりは11日午後11時までともされるということです。
ガラスの器にろうそくを置き、白やピンクの布で覆った灯籠には「震災のことを伝えていきます」とか、「誰もが小さな幸せ感じて暮らせますように」などと、メッセージが書かれています。灯籠の明かりは11日午後11時までともされるということです。
14:46ごろ~16:00ごろ 宮城 石巻 大川小学校で遺族が祈り

東日本大震災で多くの児童らが犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校は、12年前に発生した震災で児童と教職員あわせて84人が犠牲になり、おととし、校舎とその周辺が震災遺構として整備されました。11日は児童の遺族など多くの人が訪れ、地震が発生した午後2時46分と、学校に津波が押し寄せた地震発生からおよそ50分後の午後3時37分ごろに合わせて、祈りをささげていました。
⇒「大川小学校で遺族が祈り 宮城 石巻」詳細記事
15:20ごろ 東京 佐々木朗希投手らWBC日本選手が黙とう

WBCの日本選手たちは1次ラウンドの第3戦、チェコ戦を前に東日本大震災の犠牲者に黙とうをささげました。地震が発生した午後2時46分は前の試合が行われていたため、選手たちは午後3時すぎに東京ドームの一塁側のファールゾーンで輪になりました。
そして11日の試合の先発で震災で父親と祖父母を亡くした岩手県出身の佐々木朗希投手とともに震災の犠牲者におよそ30秒間、祈りをささげました。
そして11日の試合の先発で震災で父親と祖父母を亡くした岩手県出身の佐々木朗希投手とともに震災の犠牲者におよそ30秒間、祈りをささげました。
14:46すぎ 仙台 荒浜小学校 犠牲者への思い込め風船を空に

東日本大震災の津波で被災し、現在は震災遺構となっている仙台市若林区の「荒浜小学校」では卒業生や地域の人たちが犠牲者への思いを込めて風船を空に放ちました。11日は地域の人たちが集まり、地震が発生した午後2時46分に祈りをささげ、そのあとマリーゴールドなどの花の種を入れた色とりどりの風船およそ1000個を一斉に空に放ちました。
荒浜小学校は震災当時、津波が校舎の2階まで押し寄せ、校舎に避難した児童や住民は全員救助されましたが、周辺の地区でおよそ200人が犠牲になりました。
当時、荒浜地区に住み、親戚の子どもを亡くしたという80代の男性は「私たちにとっては何年たっても忘れることも風化することもありません。震災を思い出すのがつらく、今もここに来られない人もいます。心の復興はまだこれからだと思います」と話していました。
荒浜小学校は震災当時、津波が校舎の2階まで押し寄せ、校舎に避難した児童や住民は全員救助されましたが、周辺の地区でおよそ200人が犠牲になりました。
当時、荒浜地区に住み、親戚の子どもを亡くしたという80代の男性は「私たちにとっては何年たっても忘れることも風化することもありません。震災を思い出すのがつらく、今もここに来られない人もいます。心の復興はまだこれからだと思います」と話していました。
14:46~ 福島第一原発 東電 小早川社長が社員に訓示

東京電力の小早川智明社長は、12年前に事故を起こした福島第一原子力発電所を訪れて社員に対して訓示を行い「安全最優先のもと着実に廃炉を進め、完遂することが不可欠だ。大切なことは作業に携わるわれわれに対する信頼だ」などと述べました。
東京電力福島第一原発では、12年前に巨大地震が起きたのと同じ午後2時46分にあわせて小早川社長や社員などおよそ130人が集まり、1分間、黙とうしました。
このあと小早川社長は、社員に対して「当社の最大の使命である福島への責任を貫徹するためには、安全最優先のもと着実に廃炉を進め、完遂することが不可欠だ。そのために大切なことは作業に携わるわれわれに対する信頼だ。社会や地域に信頼いただけるよう行動と実績で示していこう」などと訓示しました。
東京電力福島第一原発では、12年前に巨大地震が起きたのと同じ午後2時46分にあわせて小早川社長や社員などおよそ130人が集まり、1分間、黙とうしました。
このあと小早川社長は、社員に対して「当社の最大の使命である福島への責任を貫徹するためには、安全最優先のもと着実に廃炉を進め、完遂することが不可欠だ。そのために大切なことは作業に携わるわれわれに対する信頼だ。社会や地域に信頼いただけるよう行動と実績で示していこう」などと訓示しました。
14:46~ 宮城 南三陸町 移りゆくふるさとの景色を撮影

12年前の震災で3000棟以上が全壊した南三陸町で写真館を営むカメラマンの佐藤信一さんは、震災の発生後、毎年3月11日に町の姿を写真におさめていて、11日も移りゆくふるさとの景色を撮影しました。天候にも恵まれたため町内には多くの人が訪れていて、佐藤さんは午後2時46分に、震災伝承館や43人が犠牲になった旧防災対策庁舎が1枚の写真におさまるように、高台から祈りをささげる人たちの様子を撮影しました。

佐藤さんは「この辺りに全壊した私の自宅もあったのでこの場所で撮影したかった。震災前の町並みは二度と戻ることはなくてさみしいですが、今は命を守るための新しい町に生まれ変わりました。10年以上たったきょうも大勢の人が集まってくれてありがたいし、この場所で何があったのかを伝えるための写真をこれからも撮り続けたい」と話していました。
14:46 東京 日比谷公園で追悼の催し

東京 千代田区の日比谷公園では、市民団体が毎年企画している追悼の催しが開かれ、会場に設けられた献花台には花を手向けて手を合わせる人の姿がみられました。そして地震が起きた午後2時46分にあわせて訪れた人たちが黙とうをささげました。また会場には先月、トルコ南部で起きた大地震の被災地を支援するための募金箱も設けられ、訪れた人たちに支援を呼びかけていました。
当時、仙台市で被災した大学3年の女性は毎年、この催しに訪れているということで「自分の親族は無事でしたが、家族を亡くした友人もいて、当時は後ろめたい気持ちを持っていました。12年がたち、記憶も薄れてきているので被災地を離れても当たり前の日常の大切さを伝えていきたい」と話していました。
当時、仙台市で被災した大学3年の女性は毎年、この催しに訪れているということで「自分の親族は無事でしたが、家族を亡くした友人もいて、当時は後ろめたい気持ちを持っていました。12年がたち、記憶も薄れてきているので被災地を離れても当たり前の日常の大切さを伝えていきたい」と話していました。
14:46 福島 双葉町 ウクライナ出身の演奏家 犠牲者を悼む

福島県双葉町の沿岸部に3年前に完成した産業交流センターでは、ウクライナ出身の演奏家、カテリーナさん(36)が「バンドゥーラ」を奏でながら歌声を響かせました。カテリーナさんは、震災復興支援ソング「花は咲く」などを演奏して震災の犠牲者を悼むとともに、ふるさとウクライナの平和を祈っていました。そして地震が発生した午後2時46分には海のほうを向いて集まった人とともに黙とうしていました。
カテリーナさんは、生後まもなくチョルノービリ原発事故が発生して避難生活を余儀なくされ、19歳のときから日本に移り住んでいて、音楽活動のかたわら、同じく原発事故で避難を余儀なくされた双葉町の住民と交流を続けています。カテリーナさんは「3月11日は忘れてはいけない日だと思っています。この日、この場所で歌い、自分の声でお祈りができたことを幸せに思います」と話していました。
カテリーナさんは、生後まもなくチョルノービリ原発事故が発生して避難生活を余儀なくされ、19歳のときから日本に移り住んでいて、音楽活動のかたわら、同じく原発事故で避難を余儀なくされた双葉町の住民と交流を続けています。カテリーナさんは「3月11日は忘れてはいけない日だと思っています。この日、この場所で歌い、自分の声でお祈りができたことを幸せに思います」と話していました。
⇒【動画】ウクライナ出身の演奏家 震災の犠牲者を悼む
14:46 茨城 北茨城 五浦岬公園の慰霊塔で追悼式
津波で5人が死亡し1人が行方不明になり「震災関連死」で5人が死亡した茨城県北茨城市では追悼式が開かれ、海沿いの五浦岬公園にある慰霊塔に住民や市の職員などおよそ50人が集まり、午後2時46分に海に向かい黙とうしました。その後、献花をするとともに、慰霊塔に設置された鐘を鳴らして静かに祈りをささげていました。
14:46 岩手 陸前高田 殉職した消防団員を追悼
岩手県陸前高田市にある東日本大震災で殉職した消防団員の鎮魂碑は、2年前、津波の被害に遭った消防団高田分団第1部の屯所があった場所の近くに建てられました。消防団によりますと、当時20人いた第1部の団員のうち11人が住民の避難誘導などに向かい亡くなったということです。
11日は消防団員などおよそ10人が訪れ、地震が発生した午後2時46分に防災無線のサイレンが鳴ると、亡くなった団員の数と同じ11回、鐘をついて犠牲になった団員たちを悼みました。
11日は消防団員などおよそ10人が訪れ、地震が発生した午後2時46分に防災無線のサイレンが鳴ると、亡くなった団員の数と同じ11回、鐘をついて犠牲になった団員たちを悼みました。
14:46 宮城 塩釜市で追悼の献花式
宮城県塩釜市で追悼の献花式が開かれ、地震が発生した午後2時46分にあわせ参列者全員で黙とうしたあと献花台に花を手向け、犠牲となった人たちに祈りをささげました。
献花式には遺族らのほか宮城県の村井知事も出席し、村井知事は「ひとつひとつの事象に丁寧に寄り添って対応していきたい」と決意を述べました。
そして若い世代を代表し、塩釜市立第一中学校の小幡心子さんがあいさつし「人々の思いや教訓を次の世代に伝えることが私たちの使命であり『ふるさと塩釜』とともに生きるということだと思う」と訴えました。
献花式には遺族らのほか宮城県の村井知事も出席し、村井知事は「ひとつひとつの事象に丁寧に寄り添って対応していきたい」と決意を述べました。
そして若い世代を代表し、塩釜市立第一中学校の小幡心子さんがあいさつし「人々の思いや教訓を次の世代に伝えることが私たちの使命であり『ふるさと塩釜』とともに生きるということだと思う」と訴えました。
14:46 宮城 石巻 日和山 地震発生時刻に合わせ祈り

津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市では、市内の沿岸部を見渡すことができる高台の日和山に地元の人などが訪れ、地震が発生した時刻に合わせて犠牲者に祈りをささげていました。日和山は震災当時、津波から逃れるために大勢の市民などが避難してきた場所で、11日に設置された献花台には多くの人が訪れて花を手向けていました。
そして地震が発生した午後2時46分に追悼のサイレンが鳴り響くと訪れた人たちは海に向かって1分間、祈りをささげていました。
市内に住む73歳の女性は「日和山からの眺めは地震の前とあまりに変わり、何度訪れてもほろっとくるものがあります。親類や友人の多くが津波に流され亡くなりました。津波は本当に怖いものです」と話していました。
そして地震が発生した午後2時46分に追悼のサイレンが鳴り響くと訪れた人たちは海に向かって1分間、祈りをささげていました。
市内に住む73歳の女性は「日和山からの眺めは地震の前とあまりに変わり、何度訪れてもほろっとくるものがあります。親類や友人の多くが津波に流され亡くなりました。津波は本当に怖いものです」と話していました。
14:46 埼玉 加須 双葉町に向かって黙とう
原発事故のあと福島県双葉町の多くの住民が避難生活を送った埼玉県加須市の高校の跡地に作られたモニュメントの前には、今も避難を続ける人などおよそ70人が双葉町の方向に向かって黙とうをささげました。
双葉町の70代の女性は「テレビで双葉町を見ると昔のことを思い出して涙が止まらないです。昔みたいに双葉町で暮らせるようになるよう望んでいます」と話していました。
双葉町の70代の女性は「テレビで双葉町を見ると昔のことを思い出して涙が止まらないです。昔みたいに双葉町で暮らせるようになるよう望んでいます」と話していました。
14:46 福島 双葉町 産業交流センターで黙とう
東京電力福島第一原子力発電所が立地し、去年、住民の帰還が始まった福島県双葉町では、これまで3月11日には町が主催する追悼式を行ってきましたが、参列者が減ったことなどもあり、ことしは産業交流センターに献花台を設置して犠牲者を追悼しています。地震が発生した午後2時46分には、献花に来た人や町の職員などが黙とうをささげていました。
福島県いわき市に避難している河野弘幸さん(56)は「もともとあった家が取り壊され、田んぼでの農作業も見られず、復興はまだまだと感じます。商業施設や病院などインフラ整備が十分ではないので、帰るのはかなり先だと感じています」と話していました。
福島県いわき市に避難している河野弘幸さん(56)は「もともとあった家が取り壊され、田んぼでの農作業も見られず、復興はまだまだと感じます。商業施設や病院などインフラ整備が十分ではないので、帰るのはかなり先だと感じています」と話していました。
14:46 福島 相馬 犠牲者を悼む木の葉流し

12年前の津波などで458人が犠牲になった福島県相馬市では、伝承施設や慰霊碑がある原釜地区の海岸に遺族などおよそ200人が集まり、1人ずつ、常緑樹のタイサンボクの葉を受け取り「じぃちゃん元気でね」とか「亡くなった人の分まで強く生きます」など、亡くなった家族へのメッセージなどを書き込みました。そして地震が発生した時刻の午後2時46分に海に向かって黙とうをささげたあと、木の葉を海に浮かべ、手を合わせて犠牲者を悼んでいました。
亡き祖父をしのんで3人の子どもたちとともに木の葉を流した市内の33歳の男性は「優しかった祖父のように、子どもにも、人に優しくできるように育ってほしいです」と話していました。
亡き祖父をしのんで3人の子どもたちとともに木の葉を流した市内の33歳の男性は「優しかった祖父のように、子どもにも、人に優しくできるように育ってほしいです」と話していました。
14:46 岸田首相 福島県主催の追悼復興祈念式に出席

岸田総理大臣は福島県を訪れて県が主催する追悼復興祈念式に出席し、東日本大震災が発生した時刻の午後2時46分に黙とうをささげ、犠牲者を悼みました。そして追悼のことばで「巨大地震と大津波、そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故は多くの県民の皆様から日々の暮らしを奪った。最愛のご家族やご親族、ご友人を失われた方々のお気持ちを思うと、今なお哀惜の念に堪えない」と述べました。
そのうえで「原子力災害からの復興に向けては、中長期的な対応が必要だ。引き続き、国が前面に立って、復興の前提となる、福島第一原発の安全かつ着実な廃炉とともに、帰還に向けた生活環境の整備や産業、なりわいの再生支援を進める」と述べました。
そのうえで「原子力災害からの復興に向けては、中長期的な対応が必要だ。引き続き、国が前面に立って、復興の前提となる、福島第一原発の安全かつ着実な廃炉とともに、帰還に向けた生活環境の整備や産業、なりわいの再生支援を進める」と述べました。
⇒「岸田首相 廃炉や住民帰還支援進める考え示す」詳細記事
14:46ごろ 立民 泉代表 仙台沿岸部の慰霊碑で黙とう

立憲民主党の泉代表は仙台市若林区で、校舎に津波が押し寄せ、今は震災遺構になっている荒浜小学校を視察し、沿岸部の慰霊碑で地震の発生時刻にあわせて黙とうをささげました。
このあと泉氏は記者団に対し「政治の側でもできることを最大限取り組んでいきたい。被災地域の復興も応援したいし、新しい地で生活している方々の孤立や生活の困難が起きないよう支援していきたい」と述べました。
そのうえで、政府が原発の運転期間を実質的に延長できる法案を閣議決定したことについて「人間の作ったものに絶対はない。安全神話はもうだめだということからスタートした『40年ルール』なので、安全対策を重視し、踏襲すべきだ」と批判しました。
このあと泉氏は記者団に対し「政治の側でもできることを最大限取り組んでいきたい。被災地域の復興も応援したいし、新しい地で生活している方々の孤立や生活の困難が起きないよう支援していきたい」と述べました。
そのうえで、政府が原発の運転期間を実質的に延長できる法案を閣議決定したことについて「人間の作ったものに絶対はない。安全神話はもうだめだということからスタートした『40年ルール』なので、安全対策を重視し、踏襲すべきだ」と批判しました。
14:40~ 岩手 釜石で合同追悼式
岩手県釜石市の釜石市民ホールでは岩手県と釜石市の合同追悼式が行われ、市内で亡くなった人の遺族などおよそ250人が参列しました。岩手県の達増拓也知事は「復興の取り組みは着実に進みましたがまだ終わっていません。大きな犠牲で学んだ教訓を決して忘れず次の世代に語り継ぐことを誓います」と述べました。
遺族を代表して釜石市の佐々木淳子さんは「いまも疑いたくなるようなあの震災から12年間の月日が流れ、教訓を伝える重みは増しています。未来の命を守るために、備える、逃げる、戻らない、そして語り継ぐを継承していきます」と述べました。
そして参列者が菊の花を献花台に供えて亡くなった人を悼みました。
遺族を代表して釜石市の佐々木淳子さんは「いまも疑いたくなるようなあの震災から12年間の月日が流れ、教訓を伝える重みは増しています。未来の命を守るために、備える、逃げる、戻らない、そして語り継ぐを継承していきます」と述べました。
そして参列者が菊の花を献花台に供えて亡くなった人を悼みました。
14:40 宮城 名取 再建された閖上小中学校 退職前の校長が祈り

宮城県名取市の閖上中学校では、帰宅した生徒ら14人が津波で犠牲となり、5年前、小中一貫校として再建された学校の敷地内に慰霊碑が設置されています。発災当時、閖上中学校の教務主任だった八森伸さん(60)は、生徒に津波の恐ろしさを教えてこなかったことを後悔し、再建された閖上小中学校に初代校長として赴任して防災教育に力を入れてきました。
八森さんは毎年、3月11日に慰霊碑を訪れていて、11日も慰霊碑の前に来ると刻まれた1人1人の名前をなでたあと手を合わせて祈りをささげました。このあと、集まってきた当時の教員や遺族、卒業生たちとともに、風船に亡くなった子どもたちへのメッセージを書いて飛ばしました。
八森さんは今月で定年退職となり、生徒を守る校長の立場としては、最後の3月11日になるということです。八森さんは「自分の命は自分で守ることをこの5年間伝えてきて、それは今の生徒には伝わったと思っている。ただ、亡くなった14人のことは生きたかったのに命を守ってあげられなくてごめんねと伝えた」と話していました。
八森さんは毎年、3月11日に慰霊碑を訪れていて、11日も慰霊碑の前に来ると刻まれた1人1人の名前をなでたあと手を合わせて祈りをささげました。このあと、集まってきた当時の教員や遺族、卒業生たちとともに、風船に亡くなった子どもたちへのメッセージを書いて飛ばしました。
八森さんは今月で定年退職となり、生徒を守る校長の立場としては、最後の3月11日になるということです。八森さんは「自分の命は自分で守ることをこの5年間伝えてきて、それは今の生徒には伝わったと思っている。ただ、亡くなった14人のことは生きたかったのに命を守ってあげられなくてごめんねと伝えた」と話していました。
14:00~ 宮城 気仙沼 遺族会主催の慰霊祭 ことしが最後に

住民の3分の1近い93人が犠牲になった宮城県気仙沼市の杉ノ下地区では、遺族会が主催して毎年3月11日に慰霊祭が行われてきましたが、運営資金が不足していることや参加する遺族が減っていることなどを理由にことしで取りやめることになりました。
11日は慰霊碑の近くにある寺で13回忌の法要が行われ、遺族会の会長をつとめる佐藤信行さん(72)が「行方不明となっている皆さんが、一日も早く家族のもとに帰ってくることを願っています」と挨拶しました。その後、参加者は慰霊碑に花を手向け、地震発生時刻の午後2時46分に合わせ、黙とうをささげました。
遺族の三浦祝子さん(77)は「いい所だったのに、たったいっときの波で何もなくなってしまった」と当時を振り返り、慰霊祭が取りやめになることについては「寂しいけれどしかたない。形は違えど心は変わらないから私は毎年来たいと思います」と話していました。
11日は慰霊碑の近くにある寺で13回忌の法要が行われ、遺族会の会長をつとめる佐藤信行さん(72)が「行方不明となっている皆さんが、一日も早く家族のもとに帰ってくることを願っています」と挨拶しました。その後、参加者は慰霊碑に花を手向け、地震発生時刻の午後2時46分に合わせ、黙とうをささげました。
遺族の三浦祝子さん(77)は「いい所だったのに、たったいっときの波で何もなくなってしまった」と当時を振り返り、慰霊祭が取りやめになることについては「寂しいけれどしかたない。形は違えど心は変わらないから私は毎年来たいと思います」と話していました。
13:35ごろ 宮城 石巻 閉校した小学校 元校長の祈り
東日本大震災の影響で閉校した宮城県石巻市の谷川小学校の跡地では、助かった子どもたちに強く生きてほしいと祈る元校長の姿がありました。
谷川小学校があった牡鹿半島の大谷川浜地区は津波でほぼすべての住宅が流され谷川小学校も津波で校舎が全壊しましたが、学校にいた児童と教職員は地域の人の協力で全員が無事避難することができました。しかし、転校する子どもが相次ぎ校舎も被災したことから震災の翌年に閉校し、現在は学校があった場所の高台に閉校記念碑が建っています。
当時、校長を務めていた千葉幸子さん(69)は7年前から毎年3月11日に、学校の跡地を訪れ祈りをささげていて、11日も閉校記念碑を掃除したあと、海に向かって手を合わせました。千葉さんは「地域みんなの思いでつながれた命なので、子どもたちには力強く進んでいってほしいです。いつになるかわからないけれど、この場所に戻って来れたり一緒に話せたりできる日がくるといいなと思います」と話していました。
谷川小学校があった牡鹿半島の大谷川浜地区は津波でほぼすべての住宅が流され谷川小学校も津波で校舎が全壊しましたが、学校にいた児童と教職員は地域の人の協力で全員が無事避難することができました。しかし、転校する子どもが相次ぎ校舎も被災したことから震災の翌年に閉校し、現在は学校があった場所の高台に閉校記念碑が建っています。
当時、校長を務めていた千葉幸子さん(69)は7年前から毎年3月11日に、学校の跡地を訪れ祈りをささげていて、11日も閉校記念碑を掃除したあと、海に向かって手を合わせました。千葉さんは「地域みんなの思いでつながれた命なので、子どもたちには力強く進んでいってほしいです。いつになるかわからないけれど、この場所に戻って来れたり一緒に話せたりできる日がくるといいなと思います」と話していました。
13:30~ 福島 富岡町 海岸で行方不明者の手がかり捜索
福島県富岡町の仏浜地区の海岸では、午後1時半すぎから双葉警察署の警察官や消防、海上保安庁の職員らあわせて45人が参加し、行方がわかっていない人の手がかりをさがしました。富岡町では6人の行方がわかっておらず、捜索にあたった人たちは、大きな熊手を使って海岸の砂を掘り起こしたり、砂浜に置かれた波消しブロックの隙間にたまった砂を棒を使ってかき出したりして、手がかりとなるものがないかさがしていました。
13:00~ 宮城 東松島 追悼の青いこいのぼり

宮城県東松島市では、280匹の青いこいのぼりを掲げ亡くなった子どもたちに祈りをささげました。この追悼行事は、東松島市で被災し当時5歳だった弟を亡くした男性が弟が好きだった青いこいのぼりを自宅の前に掲げたことをきっかけに始まり3月11日に毎年行われているものです。
亡くなった子どもたちが天国で寂しい思いをしないようにという思いが込められた青いこいのぼりは、全国から寄せられるようになり、ことしは280匹のこいのぼりが広場に掲げられ風を受けて悠々と泳いでいました。
震災当時、気仙沼で被災した美里町の30代の男性は「仕事の途中で被災し、その後も友人の手伝いなどで被災地に入っていたので、あの日の光景を思い出します。当時を知らない子どもたちに震災を伝えるきっかけになるので、続いていってほしいです」と話していました。
亡くなった子どもたちが天国で寂しい思いをしないようにという思いが込められた青いこいのぼりは、全国から寄せられるようになり、ことしは280匹のこいのぼりが広場に掲げられ風を受けて悠々と泳いでいました。
震災当時、気仙沼で被災した美里町の30代の男性は「仕事の途中で被災し、その後も友人の手伝いなどで被災地に入っていたので、あの日の光景を思い出します。当時を知らない子どもたちに震災を伝えるきっかけになるので、続いていってほしいです」と話していました。
12:50 静岡 楽天とロッテ 試合前に黙とう

東北を拠点とするプロ野球の楽天は、遠征先の静岡市でロッテとのオープン戦に臨み、試合前に両チームの選手たちが犠牲者に祈りをささげました。
球場には朝から半旗が掲げられ、楽天の石井一久監督や田中将大投手、岩手県一関市出身で中日から移籍した阿部寿樹選手など両チームの選手たちがそれぞれのベンチ前に整列し、半旗が掲げられたバックスクリーンに向かって1分間、黙とうしました。スタンドでは観戦に訪れた人たちも起立して一緒に祈りをささげていました。
球場には朝から半旗が掲げられ、楽天の石井一久監督や田中将大投手、岩手県一関市出身で中日から移籍した阿部寿樹選手など両チームの選手たちがそれぞれのベンチ前に整列し、半旗が掲げられたバックスクリーンに向かって1分間、黙とうしました。スタンドでは観戦に訪れた人たちも起立して一緒に祈りをささげていました。
⇒「楽天 遠征先で試合前に黙とう」詳細記事
12:05~ 岩手 大槌町 家族5人が犠牲の男性は

岩手県大槌町では、津波で家族5人が犠牲になった男性がことし12歳になる孫を連れて墓を訪れ、5人を追悼しました。
現在は盛岡市に住む三浦憲さん(65)は、大槌町にあった自宅が12年前の津波で流され、母親と妻、2人の娘、それに生後1か月だった孫の家族5人が犠牲になりました。このうち2人の娘と孫の行方は今も分かっていません。三浦さんは毎月、大槌町に通って5人の墓参りをしているということで、11日も一緒に暮らす長男の崇さんや、震災発生の後に生まれ、ことし12歳になる孫の宗裕くんなどとともに町内の高台にある5人の墓を訪れました。
岩手県の形とともに5人の顔が刻まれた墓の前で、三浦さんは宗裕くんなどと一緒に手をあわせていました。そして地震が起きた午後2時46分にサイレンがなると、海に向かって1分間、黙とうをささげていました。11日は自宅があった場所も訪れ、海に向かって手をあわせていました。
三浦さんは「もう涙が出ないのかなと思っても、ここに来るといろいろな思いがこみ上げてきます。生きている間は精いっぱい供養し、同時に震災の教訓を孫たちに伝えていきたい」と話していました。
現在は盛岡市に住む三浦憲さん(65)は、大槌町にあった自宅が12年前の津波で流され、母親と妻、2人の娘、それに生後1か月だった孫の家族5人が犠牲になりました。このうち2人の娘と孫の行方は今も分かっていません。三浦さんは毎月、大槌町に通って5人の墓参りをしているということで、11日も一緒に暮らす長男の崇さんや、震災発生の後に生まれ、ことし12歳になる孫の宗裕くんなどとともに町内の高台にある5人の墓を訪れました。
岩手県の形とともに5人の顔が刻まれた墓の前で、三浦さんは宗裕くんなどと一緒に手をあわせていました。そして地震が起きた午後2時46分にサイレンがなると、海に向かって1分間、黙とうをささげていました。11日は自宅があった場所も訪れ、海に向かって手をあわせていました。
三浦さんは「もう涙が出ないのかなと思っても、ここに来るといろいろな思いがこみ上げてきます。生きている間は精いっぱい供養し、同時に震災の教訓を孫たちに伝えていきたい」と話していました。
11:00~ 福島 白河 葉ノ木平地区で追悼式典
福島県の内陸部にある白河市では12年前の巨大地震で震度6強の揺れを観測し、葉ノ木平地区では、大規模な土砂崩れが起きて13人が亡くなりました。土砂崩れの跡地に整備された「葉ノ木平震災復興記念公園」では毎年3月11日に追悼の式典が行われ、全員で犠牲者に1分間の黙とうをささげ、そのあと参列した人たちは花を手向けたり手を合わせたりしていました。
夫と義理の父親を亡くした60代の女性は「12年たっても、ここに来ると胸が痛みます。残された家族が元気でいることが供養になると思いますし、震災のことは孫にも語り継いでいきたいです」と話していました。
夫と義理の父親を亡くした60代の女性は「12年たっても、ここに来ると胸が痛みます。残された家族が元気でいることが供養になると思いますし、震災のことは孫にも語り継いでいきたいです」と話していました。
10:30 福島 富岡町・大熊町 国道6号 全区間が通行自由に

福島県の浜通りを南北に貫く国道6号は、福島第一原発の敷地から1キロあまりの所を通っていて、原発近くの区間は避難指示にともなって通行が規制されていました。去年8月、双葉町で帰還困難区域の一部の避難指示が解除されたことで、原発事故から10年以上たって歩行者や自転車も含めてすべての区間が自由に通行できるようになりました。かつて沿道に数多く設置されていたバリケードや、通行規制を知らせる看板もほとんどなくなりました。
リュックサックを背負ってこの区間を歩いていた埼玉県の50代の男性は「規制解除を知り、ぜひ歩いてみたいと思って来ました。唯一歩けなかったこの道が歩けるようになっただけでも、復興が前進したと感じます」と話していました。
リュックサックを背負ってこの区間を歩いていた埼玉県の50代の男性は「規制解除を知り、ぜひ歩いてみたいと思って来ました。唯一歩けなかったこの道が歩けるようになっただけでも、復興が前進したと感じます」と話していました。
10:00 福島 富岡町 避難経験のある消防署員が捜索に参加
福島県富岡町では、原発事故の影響で県外に避難した経験のある消防署員が沿岸部に出て、今も行方が分からない人の捜索にあたりました。福島県川内村出身の秋元怜さん(19)は原発事故の影響で県外に避難し、避難先で人間関係に悩んでいたとき、一時帰宅して地元の村の人たちの温かさに触れ、地域のために役立ちたいと考えて去年から双葉郡を管轄する消防本部で働いています。
消防署員となって初めての3月11日、秋元さんは午前中から同僚や地元の消防団員などあわせておよそ40人で富岡漁港の周辺に出て今も行方が分からない人の捜索にあたり、手がかりをさがしました。
秋元さんは「初めての捜索でしたが、まだ見つかっていない人もいるので見つかってほしいと思いながら捜索しました。憧れの消防署員になったので生まれ育った双葉地域のために頑張りたい」と話していました。
消防署員となって初めての3月11日、秋元さんは午前中から同僚や地元の消防団員などあわせておよそ40人で富岡漁港の周辺に出て今も行方が分からない人の捜索にあたり、手がかりをさがしました。
秋元さんは「初めての捜索でしたが、まだ見つかっていない人もいるので見つかってほしいと思いながら捜索しました。憧れの消防署員になったので生まれ育った双葉地域のために頑張りたい」と話していました。
10:00ごろ 岩手 釜石 追悼施設で献花

岩手県釜石市の鵜住居地区にある震災の追悼施設「釜石祈りのパーク」には、市内の犠牲者のうち遺族が同意した1002人の名前が記された「芳名板」が設置されていて、朝から地元の人などが献花に訪れています。
家族3人で献花に訪れた市内の20代の男性は「この地区に住んでいた祖母を津波で亡くしました。この日になると悲しい気持ちになります。時間がたっても気持ちの整理はつきません」と話していました。
家族3人で献花に訪れた市内の20代の男性は「この地区に住んでいた祖母を津波で亡くしました。この日になると悲しい気持ちになります。時間がたっても気持ちの整理はつきません」と話していました。
10:00ごろ 茨城 北茨城 津波で兄を亡くしたきょうだいが墓参り
茨城県北茨城市では最大で高さおよそ7メートルの津波が押し寄せ、5人が死亡1人が行方不明となったほか、5人がいわゆる震災関連死で亡くなっています。
市内の磯原町で1人暮らしをしていた平塚幸男さん(当時80)は自宅が津波に流され、死亡しました。11日は弟の信次さん(84)や姉や妹、あわせて5人のきょうだいが市内にある墓地を訪れ、花と線香を供えて静かに手を合わせました。
ことしは十三回忌にあたるため、きょうだいそろって墓参りをすることにしたということで、幸男さんがきょうだい集まって旅行にいくことが好きだったことなど墓の前で思い出ばなしをしていました。信次さんは「きょうだいはみんな80代・90代だから集まれる機会も少ないのでことしはみんなで集まりました。生きているかぎりは墓参りを続けていきたい」と話していました。
市内の磯原町で1人暮らしをしていた平塚幸男さん(当時80)は自宅が津波に流され、死亡しました。11日は弟の信次さん(84)や姉や妹、あわせて5人のきょうだいが市内にある墓地を訪れ、花と線香を供えて静かに手を合わせました。
ことしは十三回忌にあたるため、きょうだいそろって墓参りをすることにしたということで、幸男さんがきょうだい集まって旅行にいくことが好きだったことなど墓の前で思い出ばなしをしていました。信次さんは「きょうだいはみんな80代・90代だから集まれる機会も少ないのでことしはみんなで集まりました。生きているかぎりは墓参りを続けていきたい」と話していました。
09:30 福島 いわき 豊間地区の復興願う桜咲く

福島県いわき市沿岸部の豊間地区では12年前の巨大地震による津波で400棟余りの住宅が流され、85人が犠牲になりました。自宅を失った住民の多くが入居する市の災害公営住宅には、漁師町としてにぎわった地区の復興を願って「タイリョウザクラ」と呼ばれる早咲きのサクラの木、およそ50本が植えられていて、ことしは去年よりおよそ1か月早く満開を迎えようとしています。
この住宅に住む76歳の女性は「散歩しながらいつもサクラに声をかけていて、きょうは見事に咲いていて感動しました。魚もワカメもとれた地域ですが少しずつ活気が戻ってきていると感じます」と話していました。
この地区の自治会長を務める遠藤重政さんは「不安はあるが、何としてでも復興を遂げたいと思い、植えました。3月の早咲きのサクラを見て震災を忘れず、昔も今もいいところだと感じてもらえるようにしていきたい」と話していました。
この住宅に住む76歳の女性は「散歩しながらいつもサクラに声をかけていて、きょうは見事に咲いていて感動しました。魚もワカメもとれた地域ですが少しずつ活気が戻ってきていると感じます」と話していました。
この地区の自治会長を務める遠藤重政さんは「不安はあるが、何としてでも復興を遂げたいと思い、植えました。3月の早咲きのサクラを見て震災を忘れず、昔も今もいいところだと感じてもらえるようにしていきたい」と話していました。
09:15 福島 いわき 震災後整備の堤防の上から祈り
福島県によりますと、いわき市では12年前の巨大地震とその後の津波などで293人が亡くなり、今も37人の行方が分かっていません。このうち沿岸の豊間地区では市内では最も高い8.6メートルの津波が押し寄せて住宅など400棟余りが流され、85人が犠牲になりました。
この地区で区長を務める橋本和彦さん(75)は、いとこの長男を津波で亡くし、11日朝は震災後に地区に整備された堤防の上から海に向かって祈りをささげていました。橋本さんは「あの日の海は真っ黒で荒れ狂っていましたが、きょうの海はとても穏やかです。住民どうし力を合わせて新たなまちづくりを進め、ようやくここまで再生したということを、亡くなった皆さんに報告したいと思います」と話していました。
この地区で区長を務める橋本和彦さん(75)は、いとこの長男を津波で亡くし、11日朝は震災後に地区に整備された堤防の上から海に向かって祈りをささげていました。橋本さんは「あの日の海は真っ黒で荒れ狂っていましたが、きょうの海はとても穏やかです。住民どうし力を合わせて新たなまちづくりを進め、ようやくここまで再生したということを、亡くなった皆さんに報告したいと思います」と話していました。
09:00 岩手 釜石 寺で13回忌の法要

岩手県釜石市の中心部にある石應禅寺では、午前9時から東日本大震災で犠牲になった人たちの13回忌の法要が営まれ、地元の人たちなどおよそ20人が集まり、お経をあげたあと焼香をして手を合わせ、犠牲者を悼んでいました。
会社を経営していた夫と、息子を亡くしたという釜石市の70代の女性は「これまでの12年間、会社を再起させるために悲しむ暇もなく無我夢中で頑張ってきました。命をかけて会社を守ってくれた夫や息子に感謝しながら、これからも生きていきたいです。『津波の時はとにかく逃げるんだ』ということを孫や社員にも伝え続けたいです」と話していました。
会社を経営していた夫と、息子を亡くしたという釜石市の70代の女性は「これまでの12年間、会社を再起させるために悲しむ暇もなく無我夢中で頑張ってきました。命をかけて会社を守ってくれた夫や息子に感謝しながら、これからも生きていきたいです。『津波の時はとにかく逃げるんだ』ということを孫や社員にも伝え続けたいです」と話していました。
09:00~ 岩手 大船渡警察署 身元不明者の情報を提供

岩手県で、震災で見つかった、いまも身元がわかっていない47人の遺体について、特徴などの情報を提供する警察の相談会が岩手県大船渡市の大船渡警察署で開かれました。47人のうち17人の情報を提供するもので、生前の顔を描いた絵や、身につけていた衣服、それに所持品の写真などを公開しました。
いまも家族の行方がわかっていない人たちが訪れ、このうち大船渡市に住む小松紀久代さん(82)は、避難中にはぐれて行方が分からなくなっている夫の久晃さんの情報を求めて訪れたということで、当時の状況などについて警察官に伝えていました。
小松さんは「夫は優しくておおらかで、1度もけんかをしたことがありませんでした。12年たちますが、手を合わせるたびにまだ見つかっていないことがさみしくて悔しいです」と話していました。
いまも家族の行方がわかっていない人たちが訪れ、このうち大船渡市に住む小松紀久代さん(82)は、避難中にはぐれて行方が分からなくなっている夫の久晃さんの情報を求めて訪れたということで、当時の状況などについて警察官に伝えていました。
小松さんは「夫は優しくておおらかで、1度もけんかをしたことがありませんでした。12年たちますが、手を合わせるたびにまだ見つかっていないことがさみしくて悔しいです」と話していました。
⇒「震災の身元不明者 情報提供する警察の相談会」詳細記事
09:00ごろ 福島 相馬 風評被害再燃への不安抱える漁業者は
福島県の沿岸北部にある相馬市の漁業者、四栗久光さん(71)は12年前の大津波で自宅が流されました。さらに原発事故の直後、福島県沖でとれた一部の魚介類から国の基準を超える放射性物質が検出されて漁が全面的に自粛され、生活が一変しました。
四栗さんは、事故から4年後にようやく漁を再開しましたが、風評被害で魚の価格は下がってしまいました。沿岸漁業は水揚げ量、水揚げ金額とも事故前の水準には戻っていません。
四栗さんは「以前は常磐ものとして高い評価を得ていた魚が事故によって買い控えられたり価格が低迷したりと大変な状況だった」と振り返り、東京電力福島第一原子力発電所にたまる「処理水」の放出計画については「漁業者が求めているのは安全でおいしい魚をとって売りたいということだけだ。放出されたら事故直後のような風評被害が起きるかもしれない。若い漁業者が多いのでそういう人たちが胸を張れる福島の漁業であってほしい」と話していました。
四栗さんは、事故から4年後にようやく漁を再開しましたが、風評被害で魚の価格は下がってしまいました。沿岸漁業は水揚げ量、水揚げ金額とも事故前の水準には戻っていません。
四栗さんは「以前は常磐ものとして高い評価を得ていた魚が事故によって買い控えられたり価格が低迷したりと大変な状況だった」と振り返り、東京電力福島第一原子力発電所にたまる「処理水」の放出計画については「漁業者が求めているのは安全でおいしい魚をとって売りたいということだけだ。放出されたら事故直後のような風評被害が起きるかもしれない。若い漁業者が多いのでそういう人たちが胸を張れる福島の漁業であってほしい」と話していました。
09:00ごろ 岩手 大船渡 防潮堤をタイルで彩るイベント

岩手県大船渡市では、子どもたちが震災に向き合うきっかけにしてもらおうと、先月、市の中心部に完成した高さ7.5メートル、長さ1.2キロほどの防潮堤をタイルで彩るイベントが開かれました。地元の小学生などおよそ40人が参加して、長さ630メートル余りをタイルで彩りました。子どもたちは手のひらサイズほどのタイルを1枚1枚、丁寧に防潮堤に貼り付けていました。
企画した前川十之朗さんは「タイルを貼ることを通じて、震災を経験していない子どもたちに、まずは震災のことを知ってもらいたいです。そして、防潮堤を過信せず、避難することの大切さも伝えていきたいです」と話していました。
企画した前川十之朗さんは「タイルを貼ることを通じて、震災を経験していない子どもたちに、まずは震災のことを知ってもらいたいです。そして、防潮堤を過信せず、避難することの大切さも伝えていきたいです」と話していました。
08:30ごろ 宮城 女川町 黄色いハンカチ900枚 駅前の広場に

震災で800人以上が犠牲になった宮城県女川町では、復興へのメッセージなどが書かれた黄色いハンカチが、朝からJR女川駅前の広場に掲げられました。震災の記憶の風化を防ごうと女川町の有志が映画「幸福の黄色いハンカチ」にちなんで5年前から行っているもので、ハンカチには亡くなった人の冥福を祈るメッセージのほか「自慢できる女川を一緒に作っていこう」「女川町にたくさんの幸せが訪れますように」などと、復興へのメッセージが地元の人や町を訪れた人によって書き込まれています。
黄色いハンカチはこの1年間で200枚ほど増え、これまでのものと合わせておよそ900枚になったということで、発起人の加納純一郎さん(72)は「亡くなられた方に私たちが元気で暮らしていることが届けばいいなと思います」と話していました。
黄色いハンカチはこの1年間で200枚ほど増え、これまでのものと合わせておよそ900枚になったということで、発起人の加納純一郎さん(72)は「亡くなられた方に私たちが元気で暮らしていることが届けばいいなと思います」と話していました。
07:30ごろ 岩手 野田村 漁師の男性「決して忘れない」

東日本大震災の津波で37人が犠牲になった岩手県野田村の港では11日朝、漁師の山形正和さん(72)が漁具の手入れをしていました。山形さんは震災が起きたとき、海沿いの自宅に妻のほか子ども夫婦や孫と一緒にいたということです。
消防団のメンバーだった山形さんは、すぐに自宅を飛び出して近くの水門を閉じたあと、町内を回って避難を呼びかけたということです。妻や子ども夫婦たちは高台に避難して無事でしたが、海沿いで民宿を営んでいた姉や親類が犠牲になったということです。
山形さんは「あの日のことは決して忘れません。大きな被害を受けましたが、全国の皆さんから支援を受けたおかげで頑張ってこられました。毎年、この日は感謝の気持ちで迎えています」と話していました。
消防団のメンバーだった山形さんは、すぐに自宅を飛び出して近くの水門を閉じたあと、町内を回って避難を呼びかけたということです。妻や子ども夫婦たちは高台に避難して無事でしたが、海沿いで民宿を営んでいた姉や親類が犠牲になったということです。
山形さんは「あの日のことは決して忘れません。大きな被害を受けましたが、全国の皆さんから支援を受けたおかげで頑張ってこられました。毎年、この日は感謝の気持ちで迎えています」と話していました。
07:00ごろ 岩手 宮古 田老地区“震災の教訓伝える”道の駅

12年前の東日本大震災の津波は、岩手県宮古市の田老地区にあった巨大な防潮堤を乗り越えて住宅などを押し流し、多くの犠牲者が出ました。その後再建された防潮堤のそばに作られた道の駅は、震災の教訓を伝える拠点にもなっています。訪れた人たちは備えの大切さを改めて語っていました。
自宅が全壊し、いまは災害公営住宅に住んでいるという川戸弘秋さん(69)は「田老には津波が数十年おきにやってきます。これからも避難の方法などを頭に入れて生活しなければならないと思います」と話していました。
津波で兄を失ったという地元に住む梶山美喜子さん(78)は「震災発生当時のことを時折思い出すことがあります。最近は昔の田老と比べて、1人暮らしの人が多くなったような気がします」と話していました。
自宅が全壊し、いまは災害公営住宅に住んでいるという川戸弘秋さん(69)は「田老には津波が数十年おきにやってきます。これからも避難の方法などを頭に入れて生活しなければならないと思います」と話していました。
津波で兄を失ったという地元に住む梶山美喜子さん(78)は「震災発生当時のことを時折思い出すことがあります。最近は昔の田老と比べて、1人暮らしの人が多くなったような気がします」と話していました。
06:50ごろ 岩手 大槌町 海に向かい祈り

岩手県大槌町吉里吉里地区では、地元の人たちが海に向かって手を合わせていました。この地区に住む山崎テミ子さん(80)は自宅が高台にあって無事でしたが、津波で同級生の行方が今もわかっていないといいます。毎朝、海沿いの散歩が日課で、11日朝は近所の子どもと一緒に海まで歩き海に向かって手を合わせていました。
山崎さんは「海を見ると今でも悲しい気持ちになります。それでも、これからも津波は来ると自覚して、思い出して子どもたちに伝えていかなくてはいけないと思います」と話していました。
山崎さんは「海を見ると今でも悲しい気持ちになります。それでも、これからも津波は来ると自覚して、思い出して子どもたちに伝えていかなくてはいけないと思います」と話していました。
06:00 福島 ふるさとに戻れない遺骨を供養

原発事故の影響で帰還困難区域となっている福島県浪江町津島地区にある長安寺が、避難指示を受けて9年前に「別院」として設けた福島市の寺には、東京電力福島第一原子力発電所の事故で避難を強いられ、ふるさとへ戻ることがかなわずに亡くなった人たちの遺骨が預けられていて、今はおよそ100人の遺骨を預かっています。横山周豊 住職(82)は11日も午前6時からお経を読み上げ、原発事故で避難を強いられ遺骨になっても戻ることができない人たちを供養していました。
長安寺は、先行して避難指示の解除を目指す「特定復興再生拠点区域」の中にあり、避難指示は今月31日に解除される見通しですが、現地で寺を再開する見通しはたっていないということです。横山住職は「浪江町津島に戻る雰囲気は出ていますが、遺骨を含めて、まだ帰ることができません。まだまだこれからだと思います」と話していました。
長安寺は、先行して避難指示の解除を目指す「特定復興再生拠点区域」の中にあり、避難指示は今月31日に解除される見通しですが、現地で寺を再開する見通しはたっていないということです。横山住職は「浪江町津島に戻る雰囲気は出ていますが、遺骨を含めて、まだ帰ることができません。まだまだこれからだと思います」と話していました。
06:00ごろ 千葉 旭 早朝から海岸に足を運ぶ人の姿
最大で7.6メートルの津波が押し寄せた千葉県旭市では震災関連死を含めて14人が亡くなり、2人が行方不明となっています。市内でも特に被害が大きかった飯岡地区では、日の出の時間から海岸に足を運び、海を見つめて思いをはせる人の姿が見られました。
近くに住む菱木姓子さんは「近所の人と一緒に小学校に避難して、津波が襲ってくる様子を屋上から見ていました。底冷えする日で、一晩避難所で過ごし、悪い夢でも見ているのかと思いました。その後、引っ越した家も多く、まちが寂れてしまったように感じています」と話していました。
近くに住む菱木姓子さんは「近所の人と一緒に小学校に避難して、津波が襲ってくる様子を屋上から見ていました。底冷えする日で、一晩避難所で過ごし、悪い夢でも見ているのかと思いました。その後、引っ越した家も多く、まちが寂れてしまったように感じています」と話していました。
06:00ごろ 福島 浪江町 朝日に照らし出される慰霊碑

津波で多くの人が犠牲になった福島県浪江町の請戸地区では午前6時ごろに海から朝日が昇りました。海岸から西におよそ1.5キロメートル離れた高台にある町営の共同墓地「大平山霊園」には犠牲になった185人の名前が刻まれた慰霊碑があり、朝日に照らし出されていました。
06:00ごろ 宮城 名取 閖上地区 海に向かい祈りをささげる

多くの人が犠牲となった宮城県名取市の閖上地区では、海や地区を見渡せる高台の「日和山」に朝早くから訪れた人たちが、海に向かって祈りをささげたり、犠牲になった人に線香を手向けたりしていました。
震災が起きる前に石巻市に住んでいて、今は名取市に住む40代の男性は「石巻にある別の日和山を思い出しながら日の出を見ていました。『生かされている自分が、亡くなった人の分もできることをしていきたい』という思いになりました」と話していました。
また、閖上地区で出会った夫と訪れた仙台市の50代の女性は「震災当時は家がぐちゃぐちゃになり、思い出すとつらい気持ちになります。でも、『忘れたくないし、忘れてはいけない』という思いで、手を合わせに来ました」と話していました。
震災が起きる前に石巻市に住んでいて、今は名取市に住む40代の男性は「石巻にある別の日和山を思い出しながら日の出を見ていました。『生かされている自分が、亡くなった人の分もできることをしていきたい』という思いになりました」と話していました。
また、閖上地区で出会った夫と訪れた仙台市の50代の女性は「震災当時は家がぐちゃぐちゃになり、思い出すとつらい気持ちになります。でも、『忘れたくないし、忘れてはいけない』という思いで、手を合わせに来ました」と話していました。
06:00ごろ 岩手 宮古 田老地区 地震と津波想定の避難訓練

岩手県宮古市の田老地区では、午前6時から北海道日高沖の日本海溝付近を震源とする震度6強の地震が発生し、太平洋沿岸で大津波警報が発表されたという想定で避難訓練が行われました。大津波警報を伝える防災無線が放送されると、自宅を出た人たちが近くの高台へと避難を始めました。ことしは港からの車による訓練も実施され、田老地区の漁業関係者などが車に乗って高台に向かって避難していました。
訓練に参加した83歳の女性は「年々、年を取って高台に避難するのが苦労していますが、命を守るためにもがんばって参加していきたい」と話していました。
訓練に参加した83歳の女性は「年々、年を取って高台に避難するのが苦労していますが、命を守るためにもがんばって参加していきたい」と話していました。
⇒【動画】岩手 宮古 地震と津波想定の避難訓練
06:00ごろ 岩手 陸前高田「高田松原津波復興祈念公園」

岩手県陸前高田市では午前6時ごろ、海からゆっくりと朝日が昇り、震災の津波で流されたあと海沿いに植えられた松や防潮堤を照らしました。

震災の犠牲者を追悼する「高田松原津波復興祈念公園」を訪れていた茨城県常陸大宮市の橋本義昭さん(71)は昇る朝日とともに震災の津波を耐え抜いた「奇跡の一本松」を写真におさめていました。
橋本さんは震災直後から陸前高田市などで炊き出しなどのボランティアを行い「奇跡の一本松」の保存事業にも携わったということです。橋本さんは「地元の人たちと奇跡の一本松を守ってきたので3月11日は思い入れがあり、毎年訪れています」と話していました。
また、千葉県の今関友太さん(31)は「震災当時、消防士だった私に命と向き合うきっかけを教えてくれたところなのできょう訪れました。ことしから看護師として働くので、命に寄り添いながら仕事をしたい」と話していました。
橋本さんは震災直後から陸前高田市などで炊き出しなどのボランティアを行い「奇跡の一本松」の保存事業にも携わったということです。橋本さんは「地元の人たちと奇跡の一本松を守ってきたので3月11日は思い入れがあり、毎年訪れています」と話していました。
また、千葉県の今関友太さん(31)は「震災当時、消防士だった私に命と向き合うきっかけを教えてくれたところなのできょう訪れました。ことしから看護師として働くので、命に寄り添いながら仕事をしたい」と話していました。
06:00ごろ 福島 相馬「語り部」の祈り

12年前の巨大地震による津波で64人が犠牲になった福島県相馬市の尾浜地区で家族で民宿を営んでいた五十嵐ひで子さん(75)は、12年前の津波で夫の利雄さん(当時67)と同居していた叔父の2人を亡くしました。五十嵐さんは11日早朝、自宅の跡を訪れて、海の方向に手を合わせて目を閉じ祈りをささげました。

海岸近くにあった自宅を兼ねた民宿は津波の直撃を受け、地震があったあと、避難せずに残っていた3人がのまれ、五十嵐さんだけが助かりました。このため五十嵐さんは、津波の恐ろしさや避難の大切さを伝えようと、語り部として活動しています。
五十嵐さんは、津波で自宅を失ったあと市内で自宅を再建しましたが、おととし2月と去年3月のいずれも市内で震度6強の揺れを観測した2回の地震で大きく壊れ、別の住まいへの転居を余儀なくされました。
五十嵐さんは「あの日を忘れることなんてできませんが、12年がたってようやく少し受け入れられたような気がします。この経験をしっかり伝えていかなければいけないという気持ちが強くなっています。そのために私は生き残ったのかなと。これからも語り継ぎたいです」と話していました。
五十嵐さんは、津波で自宅を失ったあと市内で自宅を再建しましたが、おととし2月と去年3月のいずれも市内で震度6強の揺れを観測した2回の地震で大きく壊れ、別の住まいへの転居を余儀なくされました。
五十嵐さんは「あの日を忘れることなんてできませんが、12年がたってようやく少し受け入れられたような気がします。この経験をしっかり伝えていかなければいけないという気持ちが強くなっています。そのために私は生き残ったのかなと。これからも語り継ぎたいです」と話していました。
⇒【動画】福島 相馬「語り部」の祈り
05:30ごろ 宮城 気仙沼「気仙沼市復興祈念公園」銘板の前で祈り

宮城県気仙沼市は震災の津波で大きな被害を受け、1万5000棟を超える住宅が被災し、市によりますと関連死を含めて1219人が亡くなり、214人の行方がいまも分かっていません。海や中心部の町並みを見渡せる高台に作られた「気仙沼市復興祈念公園」には朝早くから多くの人たちが訪れ、日の出を写真におさめたり、海の方向を見つめたりしていました。
公園に設置された銘板には、震災で犠牲になった人のうち家族の同意が得られた1128人の名前が地区ごとに刻まれていて、訪れた人たちは銘板の前で深々と頭を下げるなどして犠牲者に祈りをささげていました。
震災で妻を亡くした気仙沼市の50代の男性は「ことしは13回忌の区切りということで、また気持ちを新たにしてこれから家族全員で頑張っていきたいと思います」と話していました。
公園に設置された銘板には、震災で犠牲になった人のうち家族の同意が得られた1128人の名前が地区ごとに刻まれていて、訪れた人たちは銘板の前で深々と頭を下げるなどして犠牲者に祈りをささげていました。
震災で妻を亡くした気仙沼市の50代の男性は「ことしは13回忌の区切りということで、また気持ちを新たにしてこれから家族全員で頑張っていきたいと思います」と話していました。
05:30ごろ 宮城 南三陸町「震災復興祈念公園」

800人以上が犠牲となった宮城県南三陸町の「震災復興祈念公園」には朝早くから祈りをささげる姿が見られ、43人が犠牲になった旧防災対策庁舎の前で手をあわせたり、お経を唱えたりして祈りをささげていました。

旧防災対策庁舎で多くの同僚を亡くしたという40代の町職員は「親しくさせていただいた諸先輩方をこの庁舎で亡くしたので祈りに来ました。天国で皆さんが見守ってくださったおかげできょうこの日がありますという思いを込めました」と話していました。
東京から父親とともに訪れた11歳の小学生は「ひとつの地震で起きた津波でこんなに大きな被害になったと知って悲しい気持ちになりました」と話していました。
東京から父親とともに訪れた11歳の小学生は「ひとつの地震で起きた津波でこんなに大きな被害になったと知って悲しい気持ちになりました」と話していました。
05:30ごろ 仙台 祈りをささげる遺族

津波でおよそ200人が犠牲になった宮城県仙台市若林区の荒浜地区で生まれ育った大学敏彦さん(68)は、震災発生の当日、仕事で地区を離れていて無事でしたが、津波で自宅と実家を流され妻と両親、兄とおい、合わせて5人を亡くしました。
震災前、地区にはおよそ800世帯、2200人が住んでいましたが、津波でおよそ200人が犠牲となり、地区の海沿いは災害危険区域となったため住宅の建築が制限されています。
大学さんは毎月11日の月命日に欠かさず家族との思い出がつまったこの地区に戻り、祈りをささげてきました。11日も大学さんは海から朝日が昇る時間帯に訪れ亡き妻の名前が刻まれた慰霊碑に線香を手向けたあと、鐘を鳴らして亡くなった家族を思い手を合わせていました。
震災前、地区にはおよそ800世帯、2200人が住んでいましたが、津波でおよそ200人が犠牲となり、地区の海沿いは災害危険区域となったため住宅の建築が制限されています。
大学さんは毎月11日の月命日に欠かさず家族との思い出がつまったこの地区に戻り、祈りをささげてきました。11日も大学さんは海から朝日が昇る時間帯に訪れ亡き妻の名前が刻まれた慰霊碑に線香を手向けたあと、鐘を鳴らして亡くなった家族を思い手を合わせていました。

現在は災害公営住宅に1人で暮らす大学さんは「生まれ育ったふるさとなので、毎年、毎月、来るようにしています。妻には『ありがとう』ということばに尽きるので、これからも見守ってほしいと思って、きょうは手を合わせました。大切な家族を失わないために、地震が起きたら津波がくるものだと思って、とにかく逃げる意識を持ってほしい」と話していました。
⇒【動画】仙台 祈りをささげる遺族
震災12年 沿岸部の人口減少深刻 にぎわいの回復課題に

2011年3月11日の午後2時46分ごろ、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北の沿岸を高さ10メートルを超える津波が襲ったほか、関東などにも大津波が押し寄せました。福島第一原発では巨大地震と津波の影響で電源が喪失し、3基の原子炉で核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」が発生、大量の放射性物質が放出されました。
⇒「東日本大震災 “M9.0巨大地震”の衝撃」詳細記事
被害の大きかった岩手・宮城・福島の3県では、この12年で道路や住宅といったハード面の復興が進む一方、沿岸部などでは人口が減少しています。総務省によりますと、東日本大震災前の2010年から去年の間の人口の減少率は、全国では1%だったのに対し、岩手県と福島県では10%、宮城県では3%と厳しい状況になっています。
こうした中、NHKが岩手・宮城・福島の被災地の1000人にWEB上で行ったアンケートでは将来にわたって今の街に住み続けたいと答えた人が8割近くにのぼった一方、「若い世代が住み続けられる街にするために足りないと思うもの」を複数回答でたずねたところ、「仕事や産業」と答えた人が61%と最も多くなりました。
若い世代の定着をはかり人口減少を食い止めるには新たな雇用を生み出し、地域経済を回復させることが求められていて、地域のにぎわいをどう取り戻すかが大きな課題となっています。
こうした中、NHKが岩手・宮城・福島の被災地の1000人にWEB上で行ったアンケートでは将来にわたって今の街に住み続けたいと答えた人が8割近くにのぼった一方、「若い世代が住み続けられる街にするために足りないと思うもの」を複数回答でたずねたところ、「仕事や産業」と答えた人が61%と最も多くなりました。
若い世代の定着をはかり人口減少を食い止めるには新たな雇用を生み出し、地域経済を回復させることが求められていて、地域のにぎわいをどう取り戻すかが大きな課題となっています。
関連死含む死者と行方不明者 2万2215人
警察庁によりますと、地震や津波の被害などで亡くなった人は1万5900人、行方不明者は2523人となっています。また多くの人が長期間の避難生活を余儀なくされ体調が悪化して死亡するいわゆる「震災関連死」に認定された人は、復興庁と各都県によりますと3792人となり、この1年で福島県と宮城県であわせて6人増えました。
「震災関連死」を含めた東日本大震災による死者と行方不明者は2万2215人にのぼります。
「震災関連死」を含めた東日本大震災による死者と行方不明者は2万2215人にのぼります。
⇒「関連死含む死者と行方不明者 2万2215人」詳細記事
依然3万884人がふるさと離れ生活
復興庁のまとめによりますと、震災直後およそ47万人に達した避難者は「災害公営住宅」がすべて完成するなど住まいの環境整備が進んだこともあり、減少する傾向が続いています。
復興庁によりますと、2月1日現在、避難しているのは3万884人で、避難先での定住を決めたり、所在が分からなくなったりした場合は集計から外したこともあって去年の同じ時期と比べ7255人減りましたが、依然として多くの人がふるさとから離れた場所で生活しています。
内訳は
▽親戚や知人の家などで暮らしている人が1万9131人、
▽いわゆる「みなし仮設」などで暮らしている人が1万1615人、
▽病院などで過ごしている人が138人です。
また、避難した人が暮らす自治体は47都道府県の871の市区町村となっています。
福島県では住民の帰還の見通しが立っていない地域もあることから避難している人が最も多く、全体のおよそ89%にあたる2万7394人に達し、このうち県外で避難生活している人は2万1101人となっています。
このほか、県外で避難している人は
▽宮城県からが1221人、
▽岩手県からが578人などとなっています。
復興庁によりますと、2月1日現在、避難しているのは3万884人で、避難先での定住を決めたり、所在が分からなくなったりした場合は集計から外したこともあって去年の同じ時期と比べ7255人減りましたが、依然として多くの人がふるさとから離れた場所で生活しています。
内訳は
▽親戚や知人の家などで暮らしている人が1万9131人、
▽いわゆる「みなし仮設」などで暮らしている人が1万1615人、
▽病院などで過ごしている人が138人です。
また、避難した人が暮らす自治体は47都道府県の871の市区町村となっています。
福島県では住民の帰還の見通しが立っていない地域もあることから避難している人が最も多く、全体のおよそ89%にあたる2万7394人に達し、このうち県外で避難生活している人は2万1101人となっています。
このほか、県外で避難している人は
▽宮城県からが1221人、
▽岩手県からが578人などとなっています。