「お母さんなんだから」“透明人間”だった私を写真にうつして

「お母さんなんだから」“透明人間”だった私を写真にうつして
「お母さん、お願いします」

毎日のように耳にすることば。

お母さん、熱があるので迎えに来てください。
お母さん、ごはんまだ?
お母さんなんだから、頑張らないと。

愛してやまない子どもを育てるかわりに“透明人間”にならざるを得なかった私の話を、どうか聞いてほしい。

“透明人間”になる前、私は

学校の教室の端っこでぽつんと座るのは、透明人間になった私、山本美里(42)だ。

透明人間になる前、思い返せば、私は強い母に育てられてきた。

「父兄欄」なんて文字を見ようものなら「うちには父も兄もいませんけど」って激しく怒るような人だった。

シングルマザーでフルタイムの会社勤めをしながら私を育てた母から、よくかけられてきたことばを思い出す。
「女でもちゃんと仕事をして、ずっと働くんだよ」
洋楽にハマったことをきっかけに、17歳のときアメリカに留学した。その次はイギリスにも。
裕福な家庭ではなかったから、奨学金を借りたり、バイトを3つ掛け持ちしたりしてお金を用意した。

日本で暮らしていた私の目に、欧米の女性たちはとても強く見えた。
帰国後も自分でお金をためて専門学校に入り、海外のNGO活動などを学んだ。

そして23歳のとき、輸入雑貨を扱う中小企業に就職。

仕入れを担当していたが、当時、ベトナムは雨が降ると電話線が切れて音信不通になったり、シンガポールでは商品を乗せた船が行方不明になったりした。
そのたびに営業担当から「いつ商品届く?」とじりじり詰め寄られる仕事は、キツかった。

でもそういう大変な時こそ、時間にルーズだった取り引き先の担当者が突然本気を出して一体感が生まれたりなんかして。
人種も住む場所も全く違う人たちとチームで助け合って、ピンチを乗り越えることにやりがいを感じていた。

少しして、同棲していた人との間に子どもができて、私は結婚した。
仕事と子育ての両立を支援する制度が整備され始めた時代で、会社で初めての産休を取得。
長男を産んで3か月を過ぎたころには仕事に復帰した。

その2年後、長女のときにも3か月で職場に戻ったし、我ながらよく働いていたなと思う。

「バリキャリ」とか「手に職」みたいな働き方ではないけれど、時折「女でも、ちゃんと仕事をしてずっと働くんだよ」という母からかけられてきたことばを思い出していた。

「生まれてきてくれてありがとう」って言えなくて

私が自分の輪郭を少しずつ失い始めたのは、27歳のとき。

愛してやまない3人目の子、瑞樹(みずき)がおなかにいることが分かってからだった。
「頭だけ、成長が止まってるね」
妊娠27週のとき、医師からそう告げられた。

「障害があります。ただ、生まれてくるまでどの程度の障害かは分かりません」と。

都内の大きな病院でたくさんの検査を受けて言われたのは、先天性サイトメガロウイルス感染症の疑い、ということ。

生まれてきた瑞樹は上の2人の子と同じように、とてもかわいかった。

でもそのとき「生まれてきてくれてありがとう」って素直に言えなかったことを、私は今でも後悔している。
翌日には酸素を送るチューブが鼻につけられていたけれど、当時の私は「医療的ケア児」ということばがあることすら知らなかった。

ただただ「生きてください」と願うしかなかったことを覚えている。

私の人生だけ、変わってない?

夫は、瑞樹が生まれて1か月間の休みをとったあと、仕事に復帰した。

一方、私は、およそ1年間の育休明けに仕事をやめることになった。

会社は引き止めてくれたけれど瑞樹はまだ入退院を繰り返している状況で、預け先もなく、先が見えなかったからだ。
…でも、なんかおかしい。
その思いが初めて爆発したのは、瑞樹が2歳になったばかりのある日のことだ。

瑞樹の体調が急に悪くなった。

救急外来に連れて行かなければいけないけれど、上の子どもたちもまだ小さくて家においてはいけないし、3人全員を病院に連れていくことは本当に大変だ。

夫と、近くに住む実母にほかの子どもたちを見てくれないかと助けを求めたけれど、どちらにも仕事や用事があったようで断られてしまった。

夫の帰りを待つしかなく、結果、夜遅くに病院に駆け込むことになった。

瑞樹は症状が悪化してしまい、入院を余儀なくされた。
翌日、義理の母に瑞樹が入院することになったと伝えると「ごめんね、そんな大変だって知らずに」と言われた。別の用事で出かけていたと知り、私は悲しくなってしまった。

そして、夫に大きな声で言った。
「瑞樹が生まれてから、あなたたちの人生は何一つ変わってないけど、全部私だけ仕事をやめて、家に入って、これっておかしくない?」

「お母さんは、なるべく気配を消してください」

瑞樹は重い障害がありながらも、小学生になった。
医療的ケア児にも対応する、特別支援学校。

そこで私は避けることができない「お母さん」としての役割に直面した。

学校への付き添いだ。
特別支援学校の入学にあたって条件として示されたのが、保護者が学校に付き添って下校時間まで校内で待機することだった。

学校とも話し合ったが、瑞樹に必要な一部の医療的ケアを学校の看護師が担うことができないというのが理由だった。

付き添う上で学校からは「お母さんは、なるべく気配を消してください」と求められた。

学校は教育の場で、親の姿が見えると子どもたちも気になってしまう。
子どもの自立のために、と言われた。

朝の9時から午後3時までおよそ6時間、教室の隅のほうでただただ時間が過ぎるのを待つ。

もちろん、夫は変わらずに働いているから付き添えるのは私だけだ。

言われたとおり、自分自身の気配を消して付き添いを続けた。

“透明人間”のようだった。
「付き添いをしている間、何をして過ごしているの?」と聞かれても、日中は何もすることができないのだ。

呼吸の状態の変化を知らせるアラームが鳴ると先生が不安そうな顔をするので、すぐに駆け寄っていかなきゃならない。

気休めに本なんかは持っていくのだが、集中して読めたためしがなかった。

当時、何百人といる保護者の中で私以外にも2人ほど付き添いをしている母親がいたが、学年の違う教室でそれぞれ言われたとおりに気配を消しているので、ずっと存在すら知らなかった。

子どもと離れることが許されず、自分の時間は全く持てない。

憤りや、孤独。
「付き添い、ありがとうございます」
先生たちにそう言われるたびに「帰りたいんですけど」「なんで私は帰っちゃいけないんですか」といつしか口に出していた。

ことばに悪気がなかったからこそ絶望したし、この気持ちをどこにぶつけていいかもわからなかった。
付き添いを余儀なくされ初めて迎えた冬、私は適応障害と診断された。

医者からは「ストレスを取り除くために付き添いをやめたほうがいい」と言われたが、それを伝えたときに夫や実母からかけられたことばは「付き添いかわるよ」ではなくて「じゃあ、瑞樹は学校には行かなくていいよ」だった。

「無理しないで」とも言ってくれたと思う。

でも違う、そうじゃないんだって。

“透明人間”になった私を写真にうつして

仕方なく瑞樹としばらく学校を休んだ。

目の下がけいれんし、気持ちが落ち込む日々が続く。

家のベッドで瑞樹が寝ている姿を見ると、「学校に行けないのは私のせいだ」とまた落ち込む。

そんな中で、少しだけ心が和らぐ瞬間があった。

SNSで投稿した写真にコメントをもらえるときだった。

瑞樹との日常の風景を撮影した写真。
それまで私は、プロの写真家が障害のあるお子さんと家族を撮影した写真を見るたびに「きれいすぎる」と感じていた。

美しい部屋で、笑顔で子どもをケアする写真を見ては「自分はなんでこんな風に子どもと接することができないんだろう」とプレッシャーにも感じていた。

だから自分の撮影した写真をすてきだと言われると、今のままの姿や、自分がいいと思ったものを受け入れられたようで、少し楽にもなれた。

数か月後、学校にはなんとかまた通うようにはなったが付き添いは変わらずあるし、しんどさは決して消えたわけではなかった。
そんなある日、いつも私のことを気にかけてくれている高校時代の友人からこんなことを言われた。
「子どものことも家のことも、何にも心配しなくていいなら…何がしたい?」
そう言われて思い浮かんだのが、写真だった。

正直そんなに深い理由はなくて、とにかく家や学校から離れたかった。

外に自分の身をおかないとダメになるんじゃないかという気持ちがあった。

一念発起して、37歳の時に通信制の大学で写真の勉強を始めた。
「付き添い中、何もすることがないんです。もし撮影許可を出してくれれば、私ももう『家に帰りたい』とか言いませんから」
学校にそう伝え、大学から出される課題の写真を付き添い中の控え室で撮影するための許可をもらった。
次第に、瑞樹たちのような医療的ケア児をテーマに撮影したいと考えるようになった。撮影の範囲を控え室から校内全体に広げるためには、校長の許可が必要だった。

私は、私が“透明人間”になったこの学校で、絶対に写真を撮りたかった。

校長室に自分が撮った写真をものすごい束で持っていって、気持ちを伝えた。
「この控え室が聖地巡礼の場所みたいになるくらい、いい写真を撮る」
「私はここで諦める人間じゃない」
「先生はここで撮影許可を出さなかったら一生後悔する」
内心ビクビクしながら大見得を切り、校長も最後は許可を出してくれた。

「あなたみたいな保護者には、出会ったことがありません」なんて、あとから言われたっけ。

そして撮ったのが、学校が映った水たまりの写真だ。
水たまりは、足を踏み込むと消えてしまうし、時間や日の当たり具合によっては学校は映し出されない。

私が付き添いをする学校を、現実だけど現実とは思いたくない場所として表現した。

少しずつ写真を撮りためていく中、大学で写真の指導をしてくれている教官からこんなことばをかけられた。
「あなたは障害のあるお子さんが生まれてきたことではなくて、今の自分の置かれた状況に不満を持っているように見える。そうであれば、被写体は子どもではなくて、あなた自身なのでは?」
これが、“透明人間”になった私自身を写真にうつすことになったきっかけだった。
校内待機することを「黒子に徹する」とかカッコよく言う人もいるけれど、私はここでの自分を「透明人間」と呼ぶことにしました。
入学したての頃、誰かさんに言われた言葉。

「学校は教育現場であり、子供たちの自立の場です。必要な時以外はお母さんはなるべく気配を消していてください。」
写真を撮り続ける中でより強く感じたのは、母親になったことで社会や自分以外の誰かに自分の人生を決められてしまっているのではないかということだ。

障害者の世界を見ていると圧倒的に母親が子どもの面倒を見ているし、私もそれに対して疑問を抱かなくなっていた。

でも、写真にうつる自分自身の姿を客観的に見つめる中で、それはおかしいことだと思ったり言ったりしていいのだと、気が付くことができた。

私も“透明人間”だ

私は、ありのままの自分の姿を、写していった。

決して、美化せず。
髪の毛を金髪にしたのはいつまでも若くいたいからとか、オシャレでいたいからとか、そんな素敵な理由ではありません。

この生活が始まってから劇的に増えた白髪を隠すためです。
伝えたいテーマをもとに構図を考え、カメラのタイマー機能を使って撮影する“自撮り”のスタイルだ。

時にユーモアを交えながら。
お母さんが倒れてしまったら一番困るのは瑞樹くんなのだから、無理して学校に行く必要はないよ。

学校に行けなくたって、瑞樹くんは怒らないよ。
大学を卒業するまでの間、いったい何枚の写真を撮ったのか、自分でも覚えていない。

学校で、写真を撮って、撮って、撮って。

撮りためたものを卒業制作として発表したら、学長賞をもらうことができた。

そのとき私には思いがあった。
この写真を、同じような立場のお母さんたちに見てほしいということだ。

外出もままならない彼女たちに届けるために、1冊の写真集としてまとめた。

タイトルとしてつけたのは「透明人間 Invisible mom」
すると早速、同じ学校で同じように付き添いをする保護者の方が「何か力になれることがないか」と声をかけてくれた。

彼女も、子どもの障害によって仕事を離れざるを得なかった1人だった。

これからも写真を撮り続けられるよう、彼女がクラウドファンディングで資金集めを呼びかけてくれた。

これがきっかけとなりSNSなどで評判が広がり、北海道や、静岡、大阪など全国各地で展示会を開くこともできて、大勢の人たちに写真を見てもらえた。

大学に通い、本格的に写真を撮り始めたことで外の世界ができて、気持ちが穏やかに過ごせる日が前よりも増えた。

学校側にも年月をかけて瑞樹の状態を知ってもらい、体調が安定していれば私も付き添いをしなくてもよくなっていた。
展示会を通じて、同じ立場の人たちから、たくさんの共感の声をもらった。
「私も、同じことを思っていた。これは私だ」
「すべてが重なり、涙が溢れてきた」
中には教育委員会などの関係機関に写真集を届けてくれた人もいて、とてもうれしかった。

声を寄せてくれたのは、医療的ケア児の母親だけにとどまらなかった。

2022年12月、東京の郊外で展示会を開いたときには、寒い中で直接、感想を伝えにきてくれた女性がいた。

小さな子どもの手をひいた彼女は、私にこう言った。
「こういう世界のことはよく分からないけれど、作品を見ながら泣いちゃいました」
40代の未婚の女性からは「私も結婚していないというだけで、自分は無価値な“透明人間”だって感じることがあった」という感想を伝えられた。

男の兄弟がいる中で、親の介護を一人で抱えている女性も感想を寄せてくれた。

こういうことだよ、私が言いたいことは

写真集を取材で取り上げてもらうことも増えた。

“透明人間“として輪郭を失いかけていた私だったけど、いまは一人の「山本美里」として紹介してもらえる。

こういうことだよ、私が言いたいことは。

瑞樹の兄弟についても保育園の保護者会に来るのは母親ばかりだったし、感染症がはやっている小児科の待合室を埋めているのも圧倒的に母親だった。

こんな状況が、なんでいつまでも繰り返されるんだろう。

私は、子どもがどんな風に生まれてきても、母親が自分たちの人生を諦めずに生きられる社会になってほしいと願っている。

同時に「でも、母親ひとりでこの問題を解決することは難しいし、そもそもひとりで背負うべき問題ではないですよね」とも思うのだ。

私の夫がそうだったように、父親たちも働き盛り。

社会的に「働くこと」を求められ、結果、家事や育児は母親が中心になるという現状はいまだにあると思う。

育休や子どもの病気での早退に社会から向けられる視線を、父親もヒリヒリとしたものだと感じているからなのかな。

だからこそ、もう「父親」「母親」という役割ではなくて、「親」という意識で一緒に変えていきませんか。
「子どもを産むことも、仕事をやめることも、結局はあなたが選んだことでしょ」
そんな声を恐れて、自分の気持ちをことばにするのにはすごく時間がかかったし、正直、今も怖い。

でもそれを恐れたまま“自己責任”って言われるくらいだったら…。

私たち自身もちゃんと声をあげていかないといけないと、今は思う。

写真を通じて、私はこれからも伝え続ける。
もしも、あなたに私の姿が見えるなら、
見て見ぬふりをするのはズルイよな。

私はここにいるよ。
【取材】ネットワーク報道部 記者 石川由季