ロシア軍が包囲する街で命を失った母 私は息子と日本で生きる

ロシア軍が包囲する街で命を失った母 私は息子と日本で生きる
「私のことは心配しないで。私は年老いているのでここに残るけれど、あなたたちは逃げて。絶対に生きていて」

それが母との最期の会話になるなんて、信じられませんでした。

軍事侵攻が始まった翌日、ロシア軍の戦車に囲まれた街で、母は命を落としました。

この戦争は、私の家族、仕事、故郷、大切にしていた日常の全てを壊し続けています。

私、シェウチェンコ・オレナは息子とふたり、避難先の日本で生きていくことを決めました。

(社会部記者 堀結花)

突然、戦争が始まった

それは2022年2月24日早朝のことでした。

首都キーウにある自宅の近くで突然、大きな爆発音が聞こえました。

最初は地震かと思いました。

でも、5分おきに続く激しい砲撃の音、そして友人から相次ぐ“逃げて”というメッセージで、ロシア軍による侵攻が始まったのだとわかりました。
パニック状態になりながら、寝ていた13歳の息子を起こし、スーツケース1つに必要な荷物を詰め込みました。

友人家族と一緒に車に乗り、ガソリンスタンドに向かいましたが燃料はもうありません。

スーパーにも、わずかな水と缶詰しか残っていませんでした。
私たちが目指したのは、多くの避難者が向かったウクライナ西部ではなく、私と友人の大切な家族が住むウクライナ北部の街・スーミ。

首都キーウからはおよそ360キロ離れていますが、それでもキーウから避難する車でとても渋滞していました。

「どうか無事でいてほしい」

祈るような気持ちで向かっていると、「スーミはロシア軍が包囲した」と連絡が入りました。

ロシア軍が包囲する街で、母は

ロシア軍による包囲は、もうスーミには入ることができないことを意味していました。

頭上では、ミサイルのようなものが光りながら通り過ぎ、強い恐怖に押しつぶされそうになりながら息子を抱きしめました。

そして、スーミで1人で暮らす76歳の母のことをずっと考えていました。
母はもともと心臓が弱く、私はいつも心配をかけまいとしてきたので、突然始まった“戦争”のストレスに耐えられるか、不安で何度も電話をしました。

実際、母の体調は急激に悪化しているようでした。

翌日(25日)の朝、母は心臓発作を起こし、電話の向こうで「胸が苦しい」と繰り返し訴えました。

私は考えられる限りのところに連絡をして助けを求めましたが、街の医師たちは全員避難し、救急車も出動できないと断られました。

必死で息をしながら、母はこう言いました。
「私のことは心配しないで。私はもう年老いているので、このままここに残るわ。あなたたちは自分たちのことを第一に考えて。どうか逃げて。絶対に生きていて」
これが母と交わした最期の会話となりました。

想像もしたくなかった、最悪の結果でした。

後日、近所の人が、父の眠る墓の隣に母を埋葬し、写真を送ってくれました。
亡くなった母の手を握ることも、抱きしめることも、叶いませんでした。

現実のことだと受けとめることができず、私はもう気が狂ってしまいそうでした。

私は息子を連れて安全な場所を探し続けましたが、状況は悪化する一方でした。

街は壊され、大きな道路に出てみても、確認できるのは燃えた戦車と車だけ。

電気やガスなどのライフラインは途絶え、携帯電話も繋がらなくなっていました。

「ウクライナから逃げることだけはしたくない」

本当はそう思っていましたが、大切な母を失ったいま、さらに息子まで失うようなことは絶対にしたくないと考え、息子と2人、姉の暮らす日本へ避難することを決意しました。

日本で始まった避難生活

去年3月末、東京都内に避難した、シェウチェンコ・オレナさん(44)。
ウクライナから避難した人たちの実情を知ってほしいと今回、取材に応じてくれました。

オレナさんはシングルマザーで、一緒に避難した息子のナザルくんは14歳になりました。

オレナさんは、戦争前はキーウにある外資系銀行の支店で働いていました。
日本に避難してからは、都内の公営住宅に住みながら、1日も早く生計を立てたいと仕事を探しました。

日本で生きていくには日本語が必要とわかっていたので、到着したその日から日本語の単語カードをつくるなどして勉強を始めました。

しかしすぐに話せるようにはならず、なかなか働き口も見つかりません。

5月、ようやく見つけたのが清掃のアルバイトでした。

しかし、来る日も来る日も夜遅くまで重いゴミ袋を運び続けて体を痛め、2か月ほどで働けなくなりました。
シェウチェンコ・オレナさん
「言葉が通じない日本では、選択肢は多くありませんでした。私はウクライナの大学で経済学を学び、銀行員としてキャリアを重ねました。頑張って昇進し、マネージャーとして300人のクライアントを任されていました。努力して築いたキャリアが生かせないのはとても悔しいことでしたが、自分のキャリアより安全を選びました。希望する仕事に就くには、1日も早く日本語を習得しなければと痛感し、必死で勉強を続けました」

日本の中学校に通い始めたものの…

6月、息子のナザルくんも、都内の公立中学校に通い始めました。

新しい教材や、学校の制服など、必要なものはなんとか買いそろえました。
しかし、日本語が話せないなか、授業についていくことも、友達をつくることもとても難しく、1か月ほどで退学せざるを得なくなりました。

しばらくは毎日、日本語学校に通い、再び日本の中学校に通えるほどになるまで日本語を頑張ることに決めました。
そんなナザルくんが、心の支えにしている時間があります。

キーウで通っていた学校の先生が配信する、“オンライン授業”です。7時間の時差があるため、日本時間の午後3時に始まる授業は深夜まで続きますが、各地に避難したクラスメイトと顔を合わせることができる大切な時間です。

ロシア軍の大規模なミサイル攻撃などで停電が起きるたびに授業は中止されますが、電気が復旧すると、たとえわずかな時間であっても、授業は再開されます。

取材に訪れた日、予定されていた授業は停電で中止となったため、ナザルくんはビデオ教材をみて勉強していました。
オレナさん
「時間になっても先生がいらっしゃらなかったら、きょうは“停電”ということです。
授業は大規模攻撃のために2か月ほど中止が続き、つい最近再開されたのですが、また休みになってしまいました。こういうときはビデオ教材を見て各自勉強しますが、本当は、毎日学校に行って勉強できるのが一番だと思っています。このままでは、ちゃんとした教育を受けられないのではないか、とても心配です。
オンライン授業に参加する友達はみんな小さいときから一緒に勉強してきた仲間で、息子にとって、とても大事な時間です。家庭の事情でいまもキーウに残る子や、ドイツやイギリス、カザフスタンなどに避難した子もいます。
息子はよく私に『もう彼らに会うことはないの?』と聞いてくるので、私はいつも、『絶対また会えるわ。みんないつか必ずウクライナで会えるわ』と答えています」

新たな出発、避難者たちの力に

ナザルくんと2人で、日本語の猛勉強を続けたオレナさん。
去年11月には、東京・丸の内にある人材派遣会社に正社員として採用されました。

この会社は、ウクライナからの避難者を支援する事業も始めていました。

オレナさんは、英語が堪能な社員からサポートを受けながら、日本にいるほかの避難者たちが希望する仕事に就けるよう相談にのる仕事をしています。
避難者の多くは、精神状態がとても不安定になっているということで、オレナさんはいま何に困っているかと丁寧に質問を重ねながら、必要な支援先につなぐことも大切にしています。
オレナさん
「私も日本に来たばかりの頃、全く同じ状況だったので、日本に避難してきているみなさんの気持ちは、とてもよくわかります。
戦争によって、大切なものを突然に奪われ、日本にやってきた避難者の人たちは、心の中に深い悲しみや、苦しみを抱えています。
先日も、両親がロシア軍に殺され家も破壊され、日本に逃れてきた若い女性が2人いました。彼女たちは簡単な質問をしようとするだけで、涙があふれてきてしまいます。そうしたなかで、日本で新しい生活基盤を整えたり、日本語を覚えて、さらに仕事を見つけたりしていくのは本当に大変なことです。
避難した方たちが、これから日本社会で生きていけるよう、なるべく早くできる限りのことをして助けてあげたいと思っています。みんな幸せになってほしいです」
ウクライナから避難した女性
「オレナさんがいてくださることは、とても心強いです。強い責任感で細かいところまで気をつかいながら、私たちを助けようとしてくださいます。オレナさんを見ていると、日本で頑張って就職し新しい生活を始められるのではないかと前向きな気持ちになれます。私たち避難者にとって、オレナさんは“希望の星”です」

オレナさんの思いは各地へ

オレナさんは仕事のかたわら、ウクライナで起きていることを日本の多くの人たちに知ってもらおうと、講演も行っています。

2月には都内の大学で学生たちに日本語で語りかけました。
オレナさん
「戦争が始まる前のキーウ。平和で美しい街でした。
私はここで銀行員の仕事をしていました。写真を見ると懐かしい。このとき私は本当に幸せでした。
私の人生、1日で変わっちゃった。
難民というのは、当たり前が奪われてしまった人のことです。ロシア軍からの砲撃で、今も毎日多くの人々の命が失われています。そのことを、みなさんどうか忘れないでほしいです。
私は、今から新しい人生を日本で。だんだん、だんだん、幸せになります」

大切な母への思いは今も…

日本での新たな生活を着実に進め、前向きに歩みを進めているオレナさん。

しかし、ウクライナのことを忘れる日は1日もないといいます。

オレナさんの毎日は、朝起きてすぐに、ウクライナで起きていることをニュースでチェックすることから始まります。
オレナさん
「ウクライナで戦争が長期化していることは非常に悲しいです。もう1年もの間、毎日毎日、ロシア軍によってウクライナの人々の命を奪われ、街が破壊され続けています。私は、ロシアを憎んでいます。この戦争によって、私は一番大切な人を失いました。多くの人々も大切な家族を失っています。そして、この世界にとって、ウクライナで戦争が続いているということが、もう当たり前のことになっているということも、とても悲しいことです」
2月25日で、オレナさんの母のアナスタシアさんが亡くなって1年が経ちます。

戦争による心の痛みが癒えぬなか、オレナさんが支えにしているのは、2年前の母の誕生日を祝ったときの動画です。

親族みんなで集まり声をそろえて、“ハッピーバースデー”を歌いました。
ケーキの前には、うれしそうな笑顔を見せるアナスタシアさんの姿があります。

みんなで過ごした幸せな時間を思い出すと、どうしても涙がこぼれてしまいます。

オレナさんがいま強く願っているのは、1日でも早く戦争が終わることです。
オレナさん
「この戦争さえなければ、母がこのようなかたちで命を失うこともなかったと思うと、言葉では言い表せないほど、とても悲しいです。あのとき私に、もっと何かできることがあったのではないか、林の中を駆けていけば母のいる街にたどり着くことができたのではないかと、今もずっと罪悪感でいっぱいです。
母が亡くなったことは頭では理解していますが、まだどこかで生きているような気がして、もし戦争が終わりウクライナに帰ることができたなら、いつもと同じように母が迎えてくれるような気がしています。でも実際は誰も迎えにはきてくれません。
私はこれまで何か困ったことがあったら、いつも母に連絡していました。でも今、携帯を手にとっても、電話をかけられる母はもういないと思うと、とてもつらいです。ウクライナの多くの人の尊い命が、もうこれ以上奪われてほしくない。戦争が1日も早く終わるということは、私たちウクライナ人の一番の夢です」

取材後記

「ウクライナではね、おうちにお客さんを招く時には、必ずこうやってお迎えするのよ」

今回、話しを聞かせてくれたオレナさんは、自宅を取材に訪れた私たちのことを思って、ボルシチなどたくさんの家庭料理を準備して明るく迎えてくれました。

一方で、別の日に行った取材の最後、とても不安そうな表情を浮かべて「2月24日がくることが怖いです。また何か恐ろしいことが起きてしまわないか。うまく説明できないのですが、最近は、携帯を見ることもニュースをみることも怖くなっています」と語りました。

ウクライナから日本に避難している人は2000人あまり。戦争によって日常を奪われ、大切な存在を失う人たちは、いまこうしている間にも増え続けています。

「戦争は、映画のようにテレビで観るものではありません。全て現実のことです。世界中の人が力をあわせてくれれば、絶対に止めることができます」

オレナさんの願いが届くことを、私も強く望みます。
社会部記者
堀結花
2010年入局
警視庁、司法担当を経て
現在は難民、被害者救済などの問題を取材