「ムレンツィ」は家族の希望

「ムレンツィ」は家族の希望
“侵攻でバラバラになった家族。不安な異国での生活。そんなとき、私たちを結びつけてくれた食べ物があったことを思い出しました。それは「ムレンツィ」。キッチンカーで運ぶ私たち家族の希望です。”

滋賀で“祖国の味”販売するキッチンカー

ことし2月初め、彼女の姿は滋賀県彦根市の国宝 彦根城の近くにありました。

イリーナ・ヤボルスカさん(51)。

キッチンカーで祖国ウクライナの郷土料理を販売しています。
狭いキッチンでてきぱきと動き、慣れた手つきで料理を包んで、お客さんに手渡しています。

去年3月に日本に来て、少しずつ日本語も覚えています。

買ってくれたお客さんに日本語で「ありがと、じゃあね」と声をかけて見送っています。

その優しい笑顔が印象的です。

クレープのような「ムレンツィ」

イリーナさんが提供しているのは「ムレンツィ」。ウクライナの家庭で愛される、クレープのような食べ物です。

厚めでもちもちした生地に、チーズやサーモン、鶏肉など、中に入れるものによって、さまざまな味を楽しめます。
おやつとしても軽食としても手軽に食べられます。

イリーナさんは、1枚1枚、手作りで焼いています。

多い日で500個くらい売れる日もあるそうです。

寒さが厳しくなってきた去年11月ごろからは、ウクライナで親しまれる、ビーツを使ったスープのボルシチや、スイーツも販売しています。

生活を一変させた ロシアの侵攻

ウクライナ東部のハルキウ。そこで1年前までイリーナさんは夫のローマンさんと母親のギャリーナさんとともに3人で暮らしていました。

しかし、去年2月、ロシアによる軍事侵攻が始まりました。
ミサイルによる攻撃は、イリーナさんが働いていた製薬会社にも。

さらに、イリーナさんたちの自宅の隣の建物も被害を受けました。

衝撃で自宅の窓ガラスも割れ、ついに避難する決意をしました。

「すまない。しばらく妻たちも頼む」

ただ、夫のローマンさんは避難できません。ウクライナの防衛体制の強化のため、成人男性は原則、国外への渡航は認められていないからです。

イリーナさんは80歳の母親のギャリーナさんの手をひいて、住み慣れた街を後にしました。

避難者で混雑した列車に乗って、西部のリビウに移動。さらに隣国のポーランドへ避難しました。

しかし、物価は高く、長期滞在のめども立たず、途方に暮れました。

そんな2人を遠く離れた日本に呼び寄せようとしたのが、イリーナさんの娘、カテリーナさんでした。

日本人の夫、菊地崇さんと2018年に結婚し、滋賀県彦根市に住んでいました。

日本政府がウクライナからの避難民を受け入れていることを知り、崇さんたちは手続きに奔走。当時のことをこう振り返ります。
菊地崇さん
「ローマンさんからは電話で『たかしくん、すまない。しばらく妻たちも頼む』と言われました。ローマンさんはもう家族と二度と会えないかもしれないという決断のもと、イリーナさんとギャリーナさんを送り出したのだと思うと、目頭が熱くなりました」

びわ湖に癒やされる

去年3月下旬、イリーナさんとギャリーナさんは無事、彦根市に到着しました。

日本に来るのは2人とも初めてです。

ハルキウの自宅を出てからは2週間以上がたっていました。

侵攻を受けていたウクライナでは満足に睡眠がとれなくなっていたイリーナさん。

日本に着いてからは少し落ち着いて寝られるようになりました。

びわ湖のほとりを散歩すると、ストレスが和らぐようになったといいます。
イリーナさん
「最初はウクライナでの攻撃による強いストレスを感じていましたが、だいぶ落ち着きました。安心して寝られるようになって、本当にうれしいです」

「何か恩返しできないか」

日本での生活に少しずつ慣れ始めた2人。

住む場所は、滋賀県が県の国際交流施設の宿泊スペースを提供してくれました。

日本の人たちから寄せられる励ましや支援に、イリーナさんは「何か恩返しできないか」と考えるようになりました。

しかし、日本語ができないイリーナさんには、できる仕事は限られています。

「日本の人たちからの支援は本当にありがたいけど、してもらうばっかりでは申し訳ない」イリーナさんはこう考えるようになりました。

懸け橋になってくれた「ムレンツィ」

そんなとき、家族で話し合って思いついたのが、イリーナさんの得意料理「ムレンツィ」でした。

結婚する前、崇さんはカテリーナさんのウクライナの実家を訪れたことがありました。

日本語のできないイリーナさんと、ウクライナ語やロシア語のできない崇さん。

実は、その2人の距離を縮め、打ち解けるきっかけになったのが、イリーナさんが作った「ムレンツィ」だったのです。
崇さん
「お母さん(イリーナさん)とは言葉では通じ合えなかったなかで、ムレンツィを食べさせてもらったとき、『ああ、とても優しい人なんだな』と愛を感じることができました。ムレンツィが、言葉以外のコミュニケーションの懸け橋みたいな形になったんです」
ムレンツィの販売にはキッチンカーを使うことを決めました。

日本の人たちに感謝の思いを伝えながら、心を通わせて日本の生活に溶け込みたいという思いからでした。

菊地さんたちの手助けもあって、クラウドファンディングでキッチンカーを買う費用の寄付を募りました。

すると、わずか1か月の間に500万円を超える金額が集まりました。

こうして去年7月、オープンを迎えることができたのです。
ちなみに、当時は「ムレンツィ」ではなく「ブリンチキ」と呼んでいました。

「ムレンツィ」はウクライナ語、「ブリンチキ」はロシア語の呼び方だそう。

ウクライナ東部のロシアとの国境に近いところに住んでいたイリーナさんは、ロシア語もウクライナ語も両方話すことができます。

家族の中では「ブリンチキ」と呼んでいたそうです。

一方で、販売を始めたあと、日本に住むウクライナ人から「ロシア語ではなく、ウクライナ語の呼び方のほうがいいのではないか」という指摘があったそうです。

家族で相談し、今は「ムレンツィ」として販売しています。

同じ境遇のウクライナ避難者を支援したい

家族の希望を載せて始めたキッチンカー。

ウクライナ情勢への関心もあって、評判はすぐに広がりました。

最初は彦根市だけの販売でしたが、関西各地のイベントなどからも声がかかるようになりました。

イリーナさんたちは次の目標を掲げます。

それは日本に避難しているほかのウクライナ人を支援することでした。
去年8月には東京にキッチンカーの2号店をオープン。避難者の多い都市部で、自分と同じような境遇の避難者にも働く機会や交流の場を提供しようという考えでした。

一緒に働く避難者は、カテリーナさんがSNSを通じて知り合いました。

去年8月、初めて働き出した2人の従業員は、日本に家族や親戚はおらず、仕事探しに苦労していたといいます。
2人の従業員
「仕事はありましたが、工場で荷物を運ぶ仕事や、日本語を必要としないものでした。でも、ウクライナ料理に関する仕事を勧められて、この仕事を選びました」
「これから日本の人と交流を深めて、ウクライナ料理を広めていきたいです」
イリーナさんは、このキッチンカーが、ほかの避難者たちが少しでも前向きになれるきっかけになってほしいと考えていました。
イリーナさん
「ウクライナ料理を多くの人に気に入ってもらい、将来的には、もっと多くのウクライナ人の避難者を雇えるようにしたいです」

キッチンカーのトラブルとウクライナの夫のこと 不安が募る

キッチンカーが軌道に乗ったかに見えたやさき、トラブルが。
去年10月、崇さんが東京から滋賀県に向かっていた高速道路で、キッチンカーが横転する事故が起きました。幸い、崇さんにけがはありませんでしたが、このあと、東京のキッチンカーは休業しなければならなくなりました。

関西のキッチンカーも、冬場は売り上げが落ち込みました。夏と比べて人が多く集まるイベントも少なく、訪れる人が大きく減ってしまったからです。
キッチンカーでは笑顔を絶やすことのないイリーナさんも、心の内では不安を募らせていました。

片ときも頭から離れないのは、ウクライナにとどまるローマンさんのことです。
ローマンさんが1人で暮らすウクライナ東部では、去年の年末にもロシア軍による発電所などを狙った攻撃が激しさを増したといいます。

通信環境が悪くなり、ローマンさんとの連絡が取りづらくなったイリーナさんは、精神的に不安定になっていました。

ビデオ通話の画面に映るローマンさんの顔は、以前と比べ緊張感があり、しわが目立つようになっていました。
イリーナさん
「ずっと不安を感じています。ウクライナのひどい出来事を知ると、心が痛みます。いつ戦争が終わるかわからないけど、終わってほしい」

ある「計画」が家族の希望に

侵攻から1年がたとうとするなかでも、先が見えないウクライナ情勢。

それでもイリーナさんたち家族は、前を向くことをあきらめません。

心のよりどころにしている、ある「計画」があるからだといいます。

それは、ローマンさんを呼び寄せて、家族みんなで日本で生活すること。

今は成人男性の国外への渡航が制限されていますが、戦闘が終わるなどして認められるようになれば、彦根市でウクライナ料理店を開きたいと考えているのです。
ことし2月3日、1か月以上ぶりにローマンさんとビデオ通話できることになりました。

家族そろって話し合ったのは、新しい料理店のイメージです。

若い頃、大型貨物船の料理人をしていたローマンさんは、「ウクライナ料理と日本料理をミックスしたものを提供したい」と意欲的に語りました。

キッチンカーは「私の人生の大きな一部」

人生を一変させた侵攻。

滋賀県に避難して、まもなく1年。

イリーナさんたち家族は、こう振り返ります。
崇さん
「実際にキッチンカーを始めてみて、お母さん(イリーナさん)とお客さんがコミュニケーションを自由にとれて、そこからいろんな笑顔とかやりがいとかが生まれてきました。これが、やっぱり言葉が通じなくても、“食”というものを通じて、お互いの気持ちを伝えられる一個の形なんだなと思います。正直なかなかつらいことも多いですが、それ以上にやりがいというか、価値のあることをやっているなと、誇りを持って取り組んでいます」
イリーナさん
「私が彦根市に来てから、多くの人がサポートしてくれ、多くのお客さんが優しい言葉をかけてくれました。最初は少し心配だったキッチンカーも、今では私の人生にとって大きな一部となりました。店舗を構えることで、多くの種類のウクライナ料理を彦根市で提供していきたい。平和な状態で、家族そろってみんなで仕事を始めたいです」

約1年の取材を通じて

およそ1年にわたりイリーナさんを取材していて、印象に残っているのは、いつも私たち取材クルーを明るく笑顔で迎えてくれることです。

愛する家族が日常的に攻撃にさらされながら、遠い異国で暮らすことの不安や苦労は、私には想像するしかありません。

でも、そのなかでも前向きに生きようとするイリーナさんたち家族の姿は、「この状況で自分たちがこの戦争に対してできる抵抗だ」という決意が込められているように感じます。
イリーナさん家族は、ローマンさんを呼び寄せて彦根市に料理店をつくる計画を進めるため、クラウドファンディングで寄付を募っています。

イリーナさんが作る「ムレンツィ」は、クレープより少し厚めでもちもちした食感がして、ほのかな甘味が特徴です。

イリーナさんたち家族がそろって一緒に暮らせる日が一刻も早く訪れてほしい。そして、夫のローマンさんが彦根市の料理店で作るウクライナ料理が多くの人に愛される日がくることを願っています。
大津放送局 記者
竹中侑毅
2009年入局
水戸局、佐賀局、スポーツニュース部を経て、2020年から大津局