ミャンマー軍事クーデターから2年 ~元兵士が語る危機~

ミャンマー軍事クーデターから2年 ~元兵士が語る危機~
ミャンマーで軍事クーデターから2月1日で2年になりました。

実権を握っている軍と民主派勢力などとの戦闘は国境地帯などで激しくなっています。

軍の空爆や焼き打ちなどで家を追われた避難民は110万人を超えました。

隣国のタイやインドに逃れる避難民も増える一方です。

逃れてくる中には軍を離脱した元兵士もいます。

元兵士たちが、市民に対する武力弾圧の実態を語りました。
(ラジオセンター 西垣幸児)

国境地帯沿いの町は

多くのミャンマー人が避難しているタイとミャンマーとの国境地帯沿いにある町を1月半ばに訪れました。

タイ北西部にある町は、首都バンコクからバスで片道8時間ほど走った場所にあります。
国境は、モエイ川という狭い川で隔てられていて、川の向こうはすぐ、ミャンマーです。

レストランが見えましたが、人影はありませんでした。

国境と言っても物々しい検問所はありません。
私の訪れる直前の1月12日にはコロナ禍で閉鎖されていたタイとミャンマーを結ぶ「友好橋」が3年ぶりに開通し、タイ側から一般の人が徒歩でミャンマー側にゆく姿が見られました。
避難民の数は、支援団体によると、10万人にも上るとも言われています。

ミャンマー中部から避難してきたという18歳の高校生は、今も家族がミャンマーで過酷な避難生活をしていると言います。
18歳 高校生
「村では常に戦闘があり、親も森の中にいます。家族のため、ここで稼いで仕送りをします。ミャンマーでは1日3食は食べられませんでした。軍が侵入してきたら逃げ回らないといけない。学校に通えないのがすごく悲しい。辛いんです」

軍を離脱した元兵士を直撃

逃れてくるミャンマー人の中には、ミャンマー軍を離脱してきた元兵士もいます。

インタビューした場所や名前、所属していた部隊名などを明かさないことを条件に元兵士たちが取材に応じました。
元兵士たちは、市民に対する軍による武力弾圧について証言しました。

26歳の元兵士は、クーデター直後にミャンマーの最大都市、ヤンゴンで軍の工場がデモ隊に焼き払われたということで出動し集まっていた市民を制圧した時の様子を語りました。
26歳 元兵士
「隊長本人が撃ったんです。2、3人倒れた時点でみんな逃げました。遺体だらけで、私たちは、遺体を草むらに引っ張り込みました。死ぬ寸前で、まだ息がある人たちは、袋を頭からかぶせてひざを曲げて紐で結んでいました。そのまま川に流していました。私は、川に流す作業ではなく、遺体を車に乗せる作業をしていました。事後処理をするグループの仕事です。ひどいものです」
別の23歳の元兵士は、民主派勢力と連携している少数民族武装勢力との戦闘に出撃した時の様子を語りました。
23歳 元兵士
「到着すると、上官がいて、こう命令されました。『お前らは俺の言うとおりにすればいい。着いたら人間は、皆殺しにすること。全ての責任は俺が負う』」
「5時ごろ、少し夜が明けた時に村に入りました。残っていたのは、年寄りばかりでした。その年寄りたちに暴力を加え、拷問が行われました。村で人を見つけたら、その人を呼んで来なければ撃っていました。あたる人あたらない人いろいろいました。

私たちの仕事はそのように次から次へとやっていくしかないんです。そして、次の村に向かいます。次から次へと村を襲っていくんです」
離脱した中には女性の軍人もいます。

元軍医の45歳の女性は当時、軍は、市民を拷問して、亡くなると死因を偽っていたと証言しました。
45歳 元軍医
「軍が取り調べをする場所でひどい拷問を受けて亡くなった遺体は、軍の医療施設に送られてきます。軍は医師に内容を偽った死亡診断書を作らせていました。私の周りの軍医たちが診断書を作らされていて、すべて聞かされました」
元兵士たちは、本来国民を守るはずの軍隊が国民に銃を向けたり、拷問を加えたりしていることに精神的に耐えられなくなったと言います。

隙を見て、兵舎を離れて支援団体に連絡をして駆け込んでいました。

都市部で多くのZ世代が犠牲

軍を離脱した20代の女性は、クーデターの1か月後、ショックを受ける出来事が起きたと言います。

ミャンマー第二の都市のマンダレーで、抗議デモに参加していた当時19歳のチェー・シンさん、通称エンジェルが、後頭部を撃たれて亡くなったことでした。
エンジェルと同世代のこの女性は、SNSのニュースで彼女の死を知って軍にいることに耐えられなくなったと話しました。
20代 女性
「印象的だったのは、エンジェルが殺された事件です。本当にショックでした。自分と同じ年代の女の子が、こんなふうにして命を奪われたのですから」
都市部で抗議活動に参加していた多くは、10代、20代のいわゆるZ世代の若者たちでした。

クーデター後、若者たちは、ヤンゴンなど都市部で軍に対して平和的にデモを行っていました。

しかし、軍は、彼らに銃を向け、将来を担うはずだった多くの若者たちが、犠牲になりました。

武装化する民主派勢力

都市部では軍の弾圧が激しくなって、国境地帯に逃れる人も多かったと言います。

その国境地帯では、クーデターの前から軍と戦闘状態にある少数民族武装勢力が弾圧された市民たちと連携するようになりました。

クーデターから2か月後には、民主派勢力は、軍に対抗して「国民統一政府」という組織を発足させました。

そのもとで、少数民族武装勢力から軍事訓練を受けた市民たちが、「国民防衛隊」という武装組織を作り、国境地帯などで軍と戦っています。

ミャンマー北西部のザガイン管区では、軍と国民防衛隊との戦闘が特に激しく、軍が村の空爆や焼き打ちを繰り返しています。

この地域で教師をしていて、現在は、国民防衛隊のリーダーを務める男性が、オンラインで、ザガイン管区で起きていることを語りました。
国民防衛隊 リーダーの男性
「ミャンマー軍は、市民を殺害するとき、女性は暴行され、殺される。赤ん坊から70代、80代のお年寄りも残さない。武装していない市民まで皆殺しにしている」

なぜ非武装の市民を攻撃?

ジュネーブ条約など国際人道法では、武器を持たない市民を攻撃の対象にすることを禁じています。

しかし、軍はそれを承知で村を攻撃したり、焼き打ちをしたりしていると元兵士たちは、証言しました。
元兵士
「ジュネーブ条約をわれわれも上官も知っています。しかし、ミャンマー軍は、空爆するしかないんです」
元兵士たちは、そこには、ミャンマー軍の狙いがあるといます。
元兵士
「怖がらせて統治をすると言うことです。空襲するもう一つの理由は、国民防衛隊が戦闘を仕掛けてくるからです。戦闘が終わると、国民防衛隊のメンバーは姿を消します。

しかし、国民防衛隊のメンバーの住まいや彼らの家族や親戚が住んでいる村はわかります。その村を空襲するんです。要するに軍は、住民を人質にして住民が被害を受けるのは国民防衛隊のせいだとけん制しているんです」
元兵士によると、ザガイン管区の村では、地上での戦闘では、国民防衛隊が情報戦で勝るために、軍に負けていないと証言しました。
元兵士
「住民はみんな敵なので軍は地上で孤立しています。だから、地上では、国民防衛隊に勝てないんです。軍は、地上で情報が得られません。一方で、国民防衛隊は、軍の動きを全て把握しています」
軍は、国民防衛隊への支援を断つため、村への空爆や焼き打ちをしていると元兵士たちは、証言しました。

元兵士たちによると、軍は、戦闘が2年間にも及ぶことは予想外だったと言います。

当初、軍は、短期間で抵抗する市民を抑え込むことが出来ると考えていたと証言しています。

軍を離脱した元兵士たちは、戦争犯罪などを調査している国連人権理事会の調査にも協力して、聞き取りに応じていると言うことです。

元兵士たちを支援している団体では、元兵士たちの証言などによって軍の戦争犯罪を告発していきたいと話しています。

避難民支援

国境地帯でミャンマーからの避難民の子どもたちを受け入れている“学校”があると聞いて訪れました。
この“学校”には、現在、8歳から19歳まで600人以上の生徒がいます。

クーデター以降、250人を受け入れたといいます。
“学校”の校長は、逃がれてきた子どもたちの中には深刻なトラウマを抱えた子どももいると話していました。
校長
「ある生徒は、精神を病んでいます。無反応でぼーっとしているんです。目の前で親が暴力を振るわれていたり、殺されたりした生徒はトラウマに苦しんでいます」
この“学校”の授業料は月2000円ほど、ただ生活していくだけで精一杯の家庭が多く、授業料が払えない子どもも、多いということです。

避難してくる子どもは増える一方なのに、海外からの支援金は、減ってきているため、これまで給食は、無料で提供してきましたが、それも出来なくなっているといいます。

避難キャンプも支援不足

この“学校”を含めて、避難民の支援のニーズを把握するため、在日ミャンマー人を中心とした支援団体が、去年の暮れに国境地帯を訪れました。
避難民の子どもたちに服を寄付し、それにあわせて、生活実態などを調査しました。
1年前に出来た避難キャンプではおよそ200世帯が、生活していますが、屋根は、シートで覆うだけで、壁は葉っぱで作られているということです。

あと1年持つか心配されているということです。
避難民の女性
「雨期を乗り越えられるか心配です。雨漏りしています」
避難民の男性
「乾燥地帯なので火事があったら一瞬で燃え広がります。キャンプは全焼してしまいます」
また、避難キャンプの医師は、医療器具などが足りていないと支援を求めています。
避難キャンプの医師
「私は外科の専門医なんですが、手術に必要な薬や呼吸器も一つもありません。外科の治療が必要な人が運ばれてきても何もしてあげられないのが医師として本当に悔しいんです」
支援団体「ミャンマーの平和を創る会」の在日ミャンマー人のスーさんは、わたしたちに支援を求めています。
ミャンマーの平和を創る会 スーさん
「一番、日本の皆さんにお願いしたいことは、まず、食糧不足、医療不足、教育不足。この3点がいまだにミャンマーの状況としては足りていない状況です。今一番戦闘が激しい地域に対して、いただいた支援金をスピード感を持って現地に届けますので、お力添えをお願いしたいと思っています」

取材後記

軍がクーデターを起こしたことでアウン・サン・スー・チー政権のもとで民主主義を謳歌していた若者たちの命が奪われ、将来も奪われています。

さらに、住む家を追われて、あすをも見通せない避難生活を強いられる人たちがいます。

子どもたちの衣食住、そして、教育が必要な中で、ウクライナ情勢が緊迫化する中ミャンマーに対する国際社会の関心は低下して、支援は先細りしています。

今回の取材で、ミャンマーの人たちが置かれているこうした厳しい現実を目の当たりにしました。

日本政府は、ミャンマーの人道危機とどう向き合っているのでしょうか。

ミャンマー軍に対して、暴力の即時停止、拘束されている人たちの解放、そして、民主的な政治体制の早期回復を今も求めているとしていますが、軍が応じる気配はありません。

そうした中で日本政府が力を入れているのは、人道支援だといいます。

クーデター以降、国際機関などを通じて、食料や医療など、あわせて56億円にのぼる支援をしてきました。

しかし、ミャンマー軍が間に入るため、必ずしも、必要な人に支援が届いていないということです。

このため、今、民間が行っているタイの国境地帯から支援を届けるいわゆるクロスボーダーの支援が出来ないか、検討しているということです。

人道危機が、一層深刻になる中で、必要な人に一刻も早く届く人道支援が必要です。
ラジオセンター
西垣幸児
1984年入局
社会部警視庁担当、マニラ支局、国際放送局を経て現在は、ラジオセンターニュースデスク