「車いすだから偉いんじゃなくて」国枝慎吾さんもう1つの戦い

「車いすだから偉いんじゃなくて」国枝慎吾さんもう1つの戦い
9歳だった少年は脊髄のがんと診断され、両足に障がいが残りました。少年の世界を変えたのが、母親のすすめで出会った車いすテニスでした。

それから30年近く、世界のライバルと戦い、けがと戦い、そして「スポーツとして認めてほしい」と戦ってきました。

その旅を終えた今、口にした言葉は…「挑戦、楽しいですね」でした。
(聞き手 堀菜保子アナウンサー)

「オレは最強だ!」 吹き飛ばしてきた弱気の虫

世界の車いすテニス界をリードしてきた国枝慎吾さんは、いま38歳。

すべての四大大会とパラリンピックで優勝する「生涯ゴールデンスラム」という前人未踏の偉業を達成し、1月に引退しました。

引退会見から3日、NHKの生放送に出演して現役生活を振り返りました。
国枝さん
「パラリンピックに5大会連続で出場してきて、最初に出た2004年のアテネからずいぶん環境も注目度も変わってきたなっていうふうな印象がありますね」
競技生活を支えてきたラケットには、いつも座右の銘が記されていました。

国枝さんの代名詞ともいえる「オレは最強だ!」という言葉です。
国枝さん
「メンタルトレーニングをたくさんやって一番効果があったのは、この『オレは最強だ!』と断言するトレーニングなんです。『最強になりたい』じゃなくて『最強なんだ』って断言することで、自分自身をより強くする。2時間、3時間と続く試合だとどうしても弱気になってしまう場面が必ず出てきてしまうんですよね」
「でも弱気の場面でも強気でいないと、サーブも入らなくなってしまったりしてしまう。『オレは最強だ!』っていうフレーズで”弱気の虫“を飛ばしていった効果があったかなっていうふうに思いますね」

9歳で車いす生活に テニスが広げた希望

「オレは最強だ」と自身を奮い立たせてきたという国枝さん。

その陰には、病気やけがと向き合ってきた苦しい時間がありました。

脊髄腫瘍を発症し、車いすの生活になったのは9歳の時でした。
国枝さん
「脊髄のがんだったので、抗がん剤もやり、髪の毛も全部抜け、闘病生活が半年ぐらいありました。復学しても、今までできた階段の上り下りも友達や先生の手を貸してもらわないとできない。そこにもどかしさはもちろん感じました。周りの友達にすごく支えてもらったかなと思います」
「ただ友達に『支えてもらう』というよりも、一緒に楽しく毎日を過ごしたことが、自分自身の気持ちを明るくしたと思います。ちょうどバスケットボールがはやっていたのでみんなでやって、僕自身も体を動かすことが好きだなあって。周りの子たちと毎日遊ぶのがとにかく楽しいという日々で、思い返すといちばん楽しかった時期かなと思います」
国枝さんは健常者の友達とバスケットボールをすることで、「車いす操作」の技を自然と身につけていったといいます。

そして11歳の時、母親に連れられて行ったテニスコートで出会ったのが車いすテニスでした。

この出会いが、単に新しいスポーツを始めたという以上に国枝さんの世界を広げました。
国枝さん
「車いすテニスと出会えたことはもちろんなんですけれど、実際に車いすの人と出会うのが、その場所が初めてだったんです。車いすテニスをやることで、車いすの先輩方がどんなふうに生きているのかを知った。先輩方が一人暮らしをして、自分で車を運転して、自分自身のことを全部自分でやっている姿を見て『あ、車いすでも普通に生きていけるんだな』と思えたことが、小学生ながらにすごく希望を持てることでした」

もう1つの戦い「車いすテニスをスポーツとして認めさせたい」

国枝さんは高校に入ると頭角をあらわし、本格的に競技レベルへと進みました。

アテネパラリンピックではダブルスで金メダルを獲得。
2006年には初めて世界ランキング1位の座に就き、北京大会、ロンドン大会の男子シングルスでは、2大会連続で金メダルに輝きました。

ただその陰で、度重なる右ひじのけがに襲われます。

2016年のリオデジャネイロ大会では、準々決勝敗退に終わりました。
国枝さん
「リオデジャネイロ大会は、本当にキャリア最大の試練でした。痛みを抱えながら、『ボールが飛んでくるのが怖い』と思いながらプレーをして、ベスト8で散りました。けれども、あの挫折があったからこそ、自分自身のテクニックを最初から見直したり、よりテニスの深さ、真髄というものに迫れた。それがリオから東京までの道だったと思います」
このころ、国枝さんがもう1つ戦ってきたことが「車いすでテニスをやっているから偉い」と見られるのではなく、「スポーツとして社会的に認めさせたい」ということでした。
東京パラリンピックに向けたNHKの取材に対して、「『パラリンピックを盛り上げようぜ』みたいな盛り上がりが気持ち悪い」と語っていました。
国枝さん
「東京大会の直前は特に、『パラリンピックはみんなで盛り上げないと』みたいな雰囲気があると僕は思っていた。そうではなくて、見れば伝わらないとスポーツじゃない。そこがすごく重要なことだと思っていたんです。『パラリンピックをきっかけに共生社会を実現しよう』というのは僕自身も決して否定することではないけれども、じゃあ自分は今までそのためにやってきたかというとそうじゃない。車いすテニスというスポーツを皆さんに楽しんでもらいたい、興奮させたいという思いが何よりも強かった」
「東京大会の選手宣誓の時も『世界をより良い共生社会にするために』と言ったんですけれども、実はそこは僕の一番の本音ではなかった。”スポーツとして”皆さんにお届けしないと、それこそ共生社会に関しても実現できないんじゃないかなと、その信念は現役生活ずっと持ち続けながらやっていました」
そして迎えた、集大成の東京パラリンピック。

再び金メダルを勝ち取るとともに、大きな社会の変化も感じたといいます。
国枝さん
「東京パラリンピックは僕の中ではすごく“スポーツ”ということの手応えを感じました。今まで『国枝』『車いすテニス』『世界一』というのはまあまあ知られていたことかもしれませんが、どういうふうにプレーしているのか、どんなプレースタイルなのかに関しては、東京パラリンピックまで知らない人がほとんどだったんじゃないか。それが本当に真の意味で伝わったのが、東京パラリンピックの舞台だったなと思います」
スポーツとして、障害者と健常者の垣根を越えること、長年訴えてきた思いが結実したシーンがありました。

去年11月、元世界王者のロジャー・フェデラーさんが来日して開催されたイベントで、国枝さんとフェデラーさんがダブルスを組んだのです。
国枝さんのプレーを初めて見た観客からは「こんなに格好いいんだ、こんなにすごいんだ」という興奮の声が聞こえました。
国枝さん
「フェデラー選手は僕のあこがれの選手です。もともと車いすテニスも国際テニス連盟という団体が管轄していて、健常者との垣根が本当にないんですよね。だからグランドスラムの舞台で私たちも同時開催をしていますし、ロッカールームだって同じ場所を使っています。

そういう意味でパラリンピックのスポーツでおそらく最も垣根の低いスポーツじゃないかなと思いますし、逆にほかのパラリンピックのスポーツでも団体を統一することで一緒にやっていくことは全然可能なことなんじゃないかと思います」
この先も、車いすテニスをスポーツとして発展させたい。

引退会見では、バトンを後輩に引き継ぐ思いを口にしていました。
「昨年のジャパンオープンでは本当に満員のお客さんの前でプレーできて、車いすテニスをスポーツとして受け入れられた瞬間だと感じました。スポーツという舞台にようやく上がってきたなというところで、僕はもう40手前になっちゃっていた。ここからが楽しいぞというところかもしれませんが、でもそれを託せる人たちがもう既に日本にはいます」

バスケ、水泳、そして…「挑戦は楽しい」

競技の第一線を退いた今、車いすバスケに挑戦する様子もSNSには投稿しています。

今後はどんなことを考えているのでしょうか。
国枝さん
「引退後に何をしようかと現役の間もよく考えてはいたんですけれど、なかなか答えが出なくて。現役中はほかのスポーツをやってケガをするわけにはいかなかったので、今バスケをやってみたりしています。あと僕、泳げないんですよ。車いす生活になる前はバタフライまで泳いでいたんですけど、もう水の中入ったら溺れちゃったぐらいなので、泳ぐことにも挑戦してみたいですね。皆さんにリクエストいただければ、なんでもやりたいと思います。挑戦、楽しいですね、挑戦することが」