先生、いつまで原因不明なんですか…診断がつかない不安の中で

先生、いつまで原因不明なんですか…診断がつかない不安の中で
生まれて1年、1年半と過ぎて、次第にあらわれてきた発達の遅れ。

病気によるものなのか、障害なのか。
診断がつかないまま、何度も「様子を見ましょう」と言われて、時が流れました。

「先生、いつまで“原因不明”なんですか」。

診断名がわかったのは、さらに1年と3か月後のことでした。
(ディレクター 田村夢夏・社会部記者 宮崎良太)

元気な産声

2017年の年の瀬。

元気な産声をあげて誕生した、たいちくんです。

体重は2848グラム。お母さんのことばに反応してよく笑う子でした。
1か月たつとおめかしして初めての外出、春にはお花見も。

このまま元気に育っていってほしい。両親はそう願っていました。

まだ歩けないよね でも大丈夫だよ

ただ、1歳をすぎたころ、1人で座れず、つかまり立ちができなかったりと、同じくらいの年齢のほかの子より、発達の遅れがみられるようになりました。
それでも健診では「個人差もあるので、様子を見ましょう」と言われました。

ことばを声として出す「発話」もみられず、公園に行ってもほかの子のように遊ぶことができず、ベビーカーにいるだけになってしまう。

「うちの子まだ歩けないよね」
「でも大丈夫だよ」

父親の健太さんは妻と2人で、不安を感じては打ち消し合う、そんなやりとりが続きました。

そして1歳半健診の時、自宅から車で片道1時間近くかかる療育施設を紹介され、通い始めます。

「俺、何しに来たんだろう」

施設には症状の重い病気や障害がある子どもたちも多く通っていました。

どんな病気なのかがわかっている保護者たちの中で、依然として診断がつかないままでいることに、父親の健太さんはもどかしさが募りました。
一方のたいちくん、慣れない施設で体を動かす訓練を受けるたびに泣いていました。訓練の時間の45分間ずっと泣き続けて、健太さんがずっとあやしていたことも。
そのまま終了時間を迎えて自宅への帰り道、ハンドルを握りながら、ふと涙が出ました。

「俺、何しに来たんだろう」

原因がわからないまま時が過ぎ、職場やまわりの人たちに自分たちの状況を説明することもできない日々。

妻と2人、孤独を深め、殻に閉じこもるような生活が続きました。
健太さん
「『たいちゃんごめんね、やりたくない訓練連れて行ってね』なんて言って、泣きわめいて2人で泣いて帰るっていう。つらかったです。それがしばらく続いて」

ようやく検査入院

そうして1年以上、週2回、施設に通い続けたある日。健太さんは施設の医師に言いました。

日々の苦しさから、つい口調が強くなってしまいました。

「いつまで原因不明なんですか。いろんな検査していて、そんなにわからないものなんですか」

医師からは「わからないこともあります」との答え。

ただ、東京・世田谷区にある国立成育医療研究センターでの検査を紹介されました。

「ぜひお願いします」と依頼すると、予約をして半年待つことに。

半年後にようやく検査入院することになり、遺伝子検査など詳しい検査をして、結果が出るのを待ちました。

「全国に7人」だけ

1か月後、結果が出ました。

「異常なし」。

いや、そんなはずはない。これからどうしたらいいのか。

もうやれることはないのか…。なんとも言えない複雑な思いで、さらに半年以上を過ごしました。

そして、去年6月。再びセンターから連絡があり、結果が出るのに時間がかかった項目があったためもう1度検査結果が出るとのことで、聞きにいくと。

「希少難病です」と告げられました。

診断は「ポトキ・ルプスキー症候群」。初めて聞く病名でした。

染色体の一部の重複が原因となって、さまざまな発達障害が起きるとされている希少難病の一つです。

診断の時点で国内に7つしか症例がない、つまり7人しか患者がいない。その8人目の患者とわかったのです。

たいちくんが、4歳半の時のことでした。

まだやれることがある

病名はわかりましたが、治すための治療法がまだない「難病」で、今の医学では打つ手がありません。

でも、やれることはまだ何かあるはず。

健太さんがインターネットで検索すると、この病気について詳しい論文を執筆している医師がみつかりました。

よし、ダメ元でダイレクトメールを送ってみよう。妻には驚かれました。

「そんなことしても返事なんか来ないんじゃない?」

そう言われても、諦められない。
しばらくすると、返事が来ました。そして、メールした医師が、より詳しい別の医師を紹介してくれることになったのです。

さらには「患者の家族会をつくってみませんか」との提案も受けます。

それをきっかけに健太さんは患者会に参加。同じ病気の子を持つ親どうし、情報を交換したり、悩みを打ち明けあって共有したりできるようになりました。

病気の診断が出てから、状況が劇的に変わり始めたのです。
健太さん
「診断がついて、人にしゃべれるようになったのが大きかったですね。病名がわかるとアプローチのしかたが変わるし、僕もこうやって自分で行動すれば道が開けるんじゃないか、直球勝負で行けるんじゃないかって思ったんです」

10年かけてたどりついた診断

長くわからなかった病名がわかり、将来へ向けて動き出した希少難病の患者や家族はほかにもいます。
高校2年生の渡部耕平さん(17)です。

先天性筋ジストロフィーの一つ「ウルリッヒ病」を患っていますが、診断がついたのは10歳になってからでした。

「ウルリッヒ病」は根本的な治療法がない国の指定難病の一つで、報告されている症例はわずか300人ほどの希少難病です。

耕平さんは生まれた時から筋力が弱く、転んでも手をつくことができずによく顔や頭を打ってけがをしていました。

成長するとともにまわりの子ができるようになっていくことが同じようにできないことが増え、今は車いすを利用して学校に通っています。

診断後、耕平さんのために母親が患者会に参加し、活動を始めます。

「俺がやった方がいいんじゃない?」

診断当時は小学生で、実感がわかなかったという耕平さん。母親が患者会に参加していることも、当時はわかっていなかったと言います。

その後、中学3年生になった時、患者会のホームページを更新する作業などに四苦八苦している母の様子を見ていて、ふと感じたことがありました。

「家族がいろいろと大変そうなことをやっているのに、当事者である自分は何もしていない」

そう気付くと、ある思いが口をついて出ました。

「それ、俺がやったほうがいいんじゃない?」

前に立って分かった 当事者の力

そのことばを受け止めた母の後押しもあって、2021年、高校1年生にして耕平さんは患者会の代表を務めることになりました。

代表として、定期的に開く集会や、研究者を招いた講演会、勉強会などの運営に携わる日々。自分がどんな病気なのか、より深く知ると同時に、当事者みずからが発信することの大切さに気付きました。

情報発信を続ける中で、将来は医学の道に進んでウルリッヒ病を研究したい、病気の周知と根治を目指したい、という思いも芽生えたといいます。
耕平さん
「難病である以上どうしても、何かおもりをつけて歩いているようなものなので、やっぱり劣等感とかそういうものを感じてしまうことがあると思うんですよね」

「僕がこういうふうに活動して、それをちょっとでも目にして耳にして、勇気づけられる人がいたらいいし。僕みたいにぐいぐい行く人が少しでも増えれば、普通の人でも難病に目を向けてくれる人は増える。自分が先頭に立って示していけたら、後に続いてくれる人が増えるかなって」

なぜ診断に長期間? 専門医は

診断までにどうしてこんなに長い時間がかかるのか。希少難病に詳しい藤田医科大学がん医療研究センター長の佐谷秀行医師に聞きました。

佐谷医師は「希少難病というのはその名のとおり、患者の数が多くないので、必ずしもかかりつけ医がその疾患を知っているとは限らない」と指摘しています。

患者の数が非常に少ない病気の場合、医師はその病気にこれまで1度も出会ったことがない可能性もあり、その場合はどうしても専門医へのアクセスが遅れ、家族にとっては長い間経済的・精神的なストレスが続いてしまうのだということです。

ではどうすればいいのか。

佐谷医師は、かかりつけ医が希少難病の専門医に早くアクセスできる環境作りが大事だと言います。
佐谷秀行医師
「患者は地域のかかりつけ医に診てもらったうえで、定期的に専門医にも診てもらうのが望ましく、かかりつけ医と専門医が一緒に患者を診る、という連携が重要です。そのためにもかかりつけ医が専門医にアクセスできるようにすることが極めて重要だと考えています」

動き出した支援

その「連携」に向けた支援の動きも始まっています。

希少難病の家族を支援する一般財団法人「健やか親子支援協会」の専務理事、川口耕一さんです。
各地の医師から『初めて診た病気でどこで検査していいのかわからない』という相談が多く寄せられ、情報を共有する仕組みが必要だと感じていました。

去年6月、地域のかかりつけ医向けに希少難病の専門医や検査機関などを紹介するサイトを開設。

現在は約50の難病の情報が載っていて、医師が他の医療機関に異動しても情報が更新されるようになっています。
小児の希少難病は学会がない病気もあり、社会や行政の認知がなかなか進まないため患者や家族は声をあげにくく、誤解や偏見の中で暮らさざるをえないことも少なくないということです。

川口さんは今後、紹介する難病の種類を増やしてサイトを充実させていくとともに、患者や家族を経済的にも支えていくための基金の設立や就労支援など、支援の仕組みを増やしていきたいと考えています。
川口耕一さん
「長い間、病名が確定しないことで重症化してしまうとともに、患者や家族は経済的にも精神的にも追い詰められてしまいます。このサイトは一度作って終わりではなく、病名がわからずに困っている多くの人に役立つものにしていくため、認知度を高めるなど工夫を重ねていきたいです」

息子がくれた 新たな夢

この記事の冒頭で紹介した健太さんとたいちくん家族は、新たな一歩を踏み出そうとしています。
たいちくんは、5歳になりました。発達の遅れはありましたが、その後歩けるようになりました。ことばを話すことはないものの、毎日元気に走り回って遊んでいます。

健太さんは今、障害のある子どもたちが放課後や休みの日に通える「放課後デイサービス」を設立しようとしています。

もうすぐ小学生になるたいちくんの将来を考えて、居場所をつくるためです。
20年以上、飲食業一筋だった健太さんにとって、新たにできた夢だといいます。現在、開業に向けた費用をクラウドファンディングで募っています。
健太さん
「『将来のことを考えたときに、たいちに何を残してあげられるんだろう』と考えて、今の仕事をしていたら多少のお金は残せるかもしれない。でも、こういう事業に関わることによって医療関係者とか保育士さんとか、たいちを助けてくれる専門家をいっぱいたいちのまわりに残せるんじゃないかと。いざ10年、20年後、僕が死んじゃったあとでも」
たいちくんの診断がついてから、人生が大きく動き出した健太さん。

取材の終わりに、ふと話してくれたことがあります。
「難病の子を抱えてる親ってやっぱり大変とか、かわいそうとか思いますよね、いや、僕もそうだったんです」
そして、こう続けました。
「でも意外と楽しいし、またもし時間が戻せたとしても、今のたいちゃんでいてほしいよねってやっぱり思います。元気にことばをしゃべってっていうたいちも見てみたいとも思うけど、でもそしたら今みたいな考え方には至っていないし。たいちがたいちでよかったなって本当に夫婦で思っているので、あんまりかわいそうとか思ってもらいたくないっていうのもある」

「たいちは本当にことばを出さないだけで、ちょっかいも出してくるし、いたずらもするし。そのへんの子と変わらないんですよね。かわいいんですよ。この笑顔がね。それが一番の救いだし、支えです」
ディレクター
田村夢夏
2022年から「おはよう日本」担当
教育や福祉に関するテーマを取材
社会部記者
宮崎良太
2012年入局
山形局を経て現所属
厚生労働省などを取材
暮らしや病気など、身の回りの課題について取材を深めていきたいです