“誰かがやらないと” 永田町通いの理由

“誰かがやらないと” 永田町通いの理由
12年前、1人は岩手のサラリーマン、1人は大阪の大学院生でした。そんな2人はいま永田町に通い政治家へのロビー活動を続けています。

「大災害から助かった人が、死にたいと感じてしまう社会はおかしい」
「誰かがやらないといけない。なら知ってしまった私がやればいい」

国の制度がおかしい、十分ではないと感じた時、そのままにしてしまうのではなく、2人は実際に行動を起こしました。目指すゴールとは。

(盛岡放送局記者 高橋広行)

取り残されている人たち

阿部知幸さん(48)。

9年前にみずから立ち上げた、盛岡市にオフィスを構える「フードバンク岩手」の事務局長です。
東日本大震災が起きた12年前の2011年当時は、中堅メーカーで働くサラリーマンで、4月からは別の会社に転職することが決まっていました。

しかし3月11日に東日本大震災が発生。

惨状をニュースで見て、転職先に断りの電話を入れ、3か月間、被災地でがれき撤去のボランティアを続けました。
阿部知幸さん
「目の前に困っている人がいる中で、いま普通の仕事についていいのか。いますべきことは何なのか…と言えばかっこいいかもしれませんが、当時30半ばなのに実家暮らしの『すねかじり』だったんです。少しくらい収入がなくても大丈夫だろうという思いもありました」
その後、阿部さんは盛岡市に避難してきた被災者を支援する団体から頼まれ、団体のスタッフに。

営業回りさながらに、市内に避難していた800世帯を1軒1軒回りました。

そこで、“取り残されている人たち”がいることを知ります。

“死にたいと言わせる社会でいい訳がない”

阿部さんが実際に直面した、あるシングルマザーのケースです。

掛け持ちしていたパート先がどちらも被災して収入を断たれましたが、自宅の賃貸アパートは無事だったため、支援金は一切得られませんでした。

女性は、仕事を求めて盛岡に移り住んだものの、ギリギリの生活が続いていました。
阿部知幸さん
「私は助けてもらえないんだと心底感じていて、声すらあげられずにいた」
ほかにも、震災をきっかけに介護やサポートが必要な家族の体調が悪化して、面倒をみるのに疲れ果て、本来得られるはずの支援まで申請できていないケースも少なくありませんでした。

忘れられない言葉があります。

「あのとき、死んでいればよかった」
阿部知幸さん
「家が壊れた人以外にも困っている人はたくさんいる。いままで真面目に一生懸命頑張ってきたとしても、どうしようもないことが起きる。これは、その人のせいなのかなと。あれだけの津波から助かった人に、死にたいと言わせる社会でいい訳がない。自分の命さえ助かれば、きちっと生活を取り戻せるのが本来の支援なのではないかと思うようになりました」
なぜこうした状況が生まれたのでしょうか。

答えは「り災証明書」にあります。
災害対策基本法では、自治体はすみやかに「り災証明書」を発行することを義務づけています。

被災者はこれに基づいて、国から支援金を受け取ったり、税金や公共料金の減免をしてもらったりすることができます。仮設住宅や災害公営住宅に入るのにも必要ですし、さまざまな義援金・寄付金を配布する際の基準にもなっています。

支援を受ける上で、欠かせないパスポートのようなものです。

ところが、り災証明書は、その人の細かい実情ではなく、あくまで「自宅の壊れ具合」を証明するものでしかありません。つまり、自宅に被害がなければ、法律上は助けが必要な被災者とはみなされず、それにひもづく多くの支援が得られないのです。

出会い

震災前は「生活に困っている人は『自己責任』」という思いもあったという阿部さん。しかし、その後全国で災害が起きるたびに、取り残される被災者がいることを知ります。

災害はある地域でたまにしか起きないから、ノウハウも問題意識もなかなか共有されない。どこでいつ災害が起きても、困っている人を支える側が見つけ出し、誰ひとり取り残されないしくみをつくれないかと考えるようになりました。

2013年、阿部さんは複数の団体と連携して、復興庁に災害時の支援体制の拡充を求める要望書を提出します。

しかし当時の担当者の返事は…。

「私たちが忙しくなるだけなので、こんなことは二度としないでください」

会う人、会う人に話をするものの、問題が多岐に及ぶため、なかなか理解してもらえないことが続きました。

活動を共に進めてくれる仲間が欲しい。翌年、知人を頼って知り合ったのが、当時、神戸市にある阪神・淡路大震災の伝承施設の研究員だった菅野拓さんでした。
大阪出身の菅野さんは、大学院を卒業したあと、民間の大手シンクタンクに就職。3年経験を積んだ後、再び大学院に戻り、全国にあるホームレス支援の団体を通じて、貧困問題に関わっていました。

都市設計の講義で公園を訪れた際、ホームレスの人たちを目の当たりにしたのがきっかけでした。

震災が起きたのは28歳のとき。

仙台を拠点に10以上の支援団体でつくるチームのとりまとめ役を担いました。そこでは支援物資はどこにどれだけありどう運ぶのか、スタッフはどれだけいるかを見極めて方針やルールを決めたり、マネジメントをしたりしました。
さらにその後は、ホームレス支援のノウハウを土台にしながら、被災者宅を訪ねる見守りや生活再建・就労のサポートにも取り組んできました。ただ、阿部さんと出会った時、菅野さんはまだ、災害法制の中身を細かく調べたことはありませんでした。

しかし、シンクタンク時代に、ある省庁の政策立案に関わったり、貸金業法の改正に関わった弁護士から何度も話を聞いたりしたことがあり「阿部さんが何を目指そうとしているのかピンときた」と言います。

そして、こんなやり取りがありました。

菅野「法律を変えるのは大変なこと。やっぱり自分が変えたと言いたいですか?」
阿部「それはどうでもいいです。実態が変われば本望です」

このひと言で、異色のコンビが誕生しました。

当時について阿部さんはー
「やっと理解してくれる人があらわれた!初めて会ったとは思えない!」

菅野さんはー
「阿部さんに失礼だったとは思いますが、これは時間がかかり、たくさんの人の協力が必要な話なので、『俺が俺が』という人だと絶対うまくいかないと反射的に感じました。だから、変な質問をしたんですが、そのひと言に阿部さんの覚悟と思いを感じました」

災害ケースマネジメント

他のNGOや弁護士とも議論を進める中、菅野さんは、自分たちが進めたい被災者支援の形を、アメリカのハリケーン・カトリーナの際の政策名を借り「災害ケースマネジメント」と名付けました。

災害ケースマネジメントは、被災者からの申請を待つことなく、支える側の方からアプローチしていくのが最大の特徴です。
被災者一人一人から丁寧にヒアリングを行い、何に困っていて、どの支援制度の対象になるのかを調べて申請段階からサポート。個別の再建計画をつくるという支援手法です。

行政はもちろん、弁護士やソーシャルワーカーなどともチームを組んで、複雑に絡み合った生活の課題にワンストップで対応していきます。

例えば、阿部さんが盛岡市で出会ったシングルマザーのケースなら、自宅の被災が条件とはならない住まいに関する給付金や無利子の貸付金の制度を活用したり、就労や育児の支援団体につなげることができます。生活保護を受けることもひとつで、本人の意向を丁寧に確認しながら、さまざまな窓口に一緒に出向きます。

災害ケースマネジメントが機能するようになれば、り災証明の有無にかかわらず、被災したひとりひとりの実情にあった支援を実現できる。これらは阿部さんや菅野さんが震災の現場で模索しながらたどりつき、実際に行っていたことでもありました。

仙台市では他の自治体よりも早く、震災から5年でプレハブの仮設住宅に住む人がゼロになり、こうした対応も功を奏したと評価されています。

2018年には鳥取県が災害ケースマネジメントを初めて制度化。

2人にとっては追い風となりますが、全国的には「意識の高い自治体だけが準備をしている」状況は変わらず、活動の輪を広げることはできませんでした。
阿部知幸さん
「被災した時に行政からどのような支援が得られるのか、すぐ答えられる人はほとんどいませんし、もし被災者が高齢者だったり、病気や障害があったりしたら、その申請自体ままならない。そして取り残されていくということは、容易に想像がつきますよね。それにコスト面で見ても、最初に徹底的にフォローして生活再建を早めた方が、実は行政の持ち出しは安く済みます。ところが、その自治体に被災経験がないと、なぜ必要なのか、なかなかわかってもらえない。これがもどかしかったですね」

何を求めていくか

2020年、2人に吉報がもたらされます。

それまで一連の取り組みはほぼ手弁当でしたが、東京を拠点とする日本NPOセンターから人的・資金的な協力が得られることになったのです。

2人は「災害ケースマネジメント」をどうすれば実現できるのか、改めて考えました。
▽ 災害のたびに現地で手法を説いていくのでは限界がある。

▽ 南海トラフ巨大地震が起これば、その被災者の数は東日本大震災をはるかに上回る。それでも、誰ひとり取り残されてはいけない。

▽ 全国で災害ケースマネジメントを導入していくには、経験に乏しい自治体職員の意識や運用に頼るのではなく、“強いよりどころ”が欲しい。
2人は、東北や関西を回り、震災当時、支援に関わった団体や専門家に、ヒアリングを実施し問題点を総ざらいしました。

災害ケースマネジメントの肝は「担い手」と「財源」ですが、現行の法制度では、どちらも、保証されていないのが実情です。いまの法律を変えることが、遠回りなようで、もっとも近道ではないか。

行き着いたのは「法改正」でした。
菅野さんは、どの法律をどう変えなければならないか、「災害対策基本法」「災害救助法」「被災者生活再建支援法」など、一連の災害法制について成立当時の議論にまでさかのぼって調べ、時には日本占領下のGHQの資料まで読み解きました。

そして、1年近くに及ぶ検討の末、改正したい内容をできるだけ合意形成が得られやすい、以下の点に絞り込みました。
▽目的1:災害ケースマネジメントの担い手の増員・強化
▽法改正の柱1:社会保障の関連法に災害対応を盛り込む
▽内容:日頃福祉(生活保護・障害福祉・介護など)を担っている支援者が、そのノウハウを生かして災害時に被災者支援にあたるようにする
▽目的2:財源確保と支援対象の拡大
▽法改正の柱2:災害救助法に“被災者宅への訪問”など福祉的な支援を位置づける
▽内容:支援活動の財源は国の持ち出しとし、支援対象も自宅の損壊状況だけではなく、納税の状況や障害の等級、要介護度なども加味する
そして、北海道、静岡、岡山、佐賀など、各地でこれをテーマにしたシンポジウムを開催。
災害時に被災者支援を担うであろう現地のNPOや省庁の担当者も招くなどして、機運を盛り上げていきます。

政治を味方にできるか

そして、いま精力的に足を運んでいるのが永田町です。

与野党あわせて30人以上の国会議員に直接会い、問題を訴えてきました。

政治の力で法改正につなげるためです。
そして2021年末。

国会でも災害ケースマネジメントが取り上げられ、岸田首相から「民間団体も含めた多様な主体が連携する『災害ケースマネジメント』の仕組みづくりを進めて参りたい」という答弁も引き出しました。

さらに菅野さんは、気付けば“災害法制と実務に詳しい有識者”として防災についての国の有識者検討会の委員を務めるまでに。発言力も増しました。

しかし、政治家の反応はいまも十人十色です。

昭和22年に成立した災害救助法をはじめ、災害法制は歴史が古く、いざ改正となれば、ドミノ式に他の多くの制度や運用にも手を加えなくてはならなりません。しかも、防災を所管する内閣府は、他の省庁からの出向者が多く、腰を据えた検討がしづらい環境だといいます。

まだ“災害法制を変える”という2人のゴールは見えません。それでも、多くの時間と労力を割き続ける原動力は何なのか、最後に聞いてみました。
阿部知幸さん
「“知った者の責任”ですかね。誰かがやらないといけない。なら知ってしまった私がやればいい。私って“溺れ上手”なんです。ただの元サラリーマンで、社会保障の専門家でもなければ、立派な肩書がある訳でもない。困った人のところに行って何をするかと言えば、私はその人と一緒に困るんですよ。その時、激しく困ることによって、学者や弁護士の人たちが仲間になってくれたり、他のNPOが一緒にやりましょうと言ってくれたりする。私が激しく溺れるのを見かねて助けてもらっている。それが実態です(笑)」
菅野拓さん
「なかなか理解してもらえないかもしれませんが、人や知恵をつなぎ合わせる、今のような活動が好きというのはあると思います。あとは『乗りかかった船』という表現が一番しっくりきますかね。もういろんな人を巻き込んでいるので、やめたくてもやめられなくなっているのも事実です(笑)」

取材後記

法改正の柱は3つ目もあります。

災害救助法に民間企業やNPOも位置づけ、自治体以外も避難所の運営や被災者支援に関われるようにするというものです。

東日本大震災での避難所の環境は、海外から「国際的な難民支援基準すら下回っている」という指摘も出ました。

物資の仕分け・管理は、流通企業の得意分野ですし、り災証明書を出すための事前調査は、損害保険会社の業務に近いものがあります。

災害対応は自治体が中心となって行うことになっていますが、これが自治体職員に負担が集中し、混乱の原因にもなっているという考えから、民間との協働を進めるのがねらいです。

3年前、沿岸のNPOをいくつも取材する中で「誰か会うべきと思う人がいたら教えてくれませんか」とたずね、多くの人から名前があがったのが、阿部さんでした。盛岡という近所にいたことに驚き、すぐに突撃。

阿部さんの言葉を借りれば、私も、溺れる阿部さんを見ていられなかった1人になっています。
盛岡放送局 記者
高橋広行
埼玉県川越市出身
2006年入局
広島局、社会部、成田支局を経て2019年から盛岡局
8歳と5歳の暴れん坊(甘えん坊)将軍の父親