生きるために治療をしたのに

生きるために治療をしたのに
乳がんがみつかった女性。手術は成功し、抗がん剤の治療も順調でした。
おさまらないどうきや息切れ…。異変を感じたのは4か月後でした。

命を守るための抗がん剤が、心臓に深刻なダメージを与えていたのです。それは、避けられていたはずのものでした。

(横浜放送局記者 古市悠)

がんの手術は成功したが…

山梨県北杜市に住む村本彩さん(48)です。

八ヶ岳のふもとに建てたログハウスで、地元のホテルで働く夫の真洋さん(43)と、愛犬のレイ君と暮らしています。
埼玉県出身の村本さんは、14年前(2009年)北杜市に移住しました。

観光施設で働きながら、休日にトレッキングに出かける生活を送り、同僚だった真洋さんと結婚しました。
結婚から2年後の2018年、市の検診で乳がんが見つかりました。「ステージ2」で、わきの下のリンパ節に転移がみられました。

手術は無事に成功し、再発防止のために始めた、抗がん剤治療の経過も順調でした。

手術から4か月がたち、治療も終わりにさしかかったころ、体に異変を感じるようになりました。
村本さん
「夜寝る前に脈が速いのは感じたんです。でも本当にその程度で、抗がん剤のよくある副作用だと思っていたので、あまり気にしてはいなかったんです。抗がん剤が終わればこれも落ち着くんだと思っていました」

心臓移植しかない

症状がおさまらなかったため、病院を受診。心臓の機能が大幅に低下していることが分かり、緊急入院しました。

重い心不全でした。
より高度な治療が受けられる病院に転院しましたが、状態は徐々に悪化。心臓の機能を助ける、補助人工心臓を埋め込む手術を受けました。

主治医からは「心臓移植が必要」と告げられました。
村本さん
「心不全は亡くなる方が直前になるというイメージしかなかったので、私は死んでしまうのかなと思いました。治るイメージもなかったので、泣き暮らしました」
補助人工心臓の助けで、愛犬の散歩や家事といった日常生活は送れるようになりました。

村本さんはいつもウエストポーチをつけています。
補助人工心臓のバッテリーなどが入っていて、重さは2キロ。

装置に不具合が生じた場合に備えて、原則24時間の付き添いが必要で、激しい運動や車の運転はできません。
村本さんの趣味はトレッキングです。

一緒に野山を歩きたいと、緊急入院直前のクリスマス、夫の真洋さんにスノーシューをプレゼントしました。

使われないまま、しまってあります。
村本さん
「車の運転は禁止、仕事に行きたくても行けない、近くのコンビニにも1人で行けない。お友達とごはんを食べに行くのも夫が一緒でないと行けない。要は私は何もできないんです。犬と一緒にキャンプに行ったり、山に登ったりとか、そういうのも楽しみにしていたところもあるので。八ヶ岳の生活をエンジョイできるようなそんな生活がしたかったですね」

原因は抗がん剤だった

村本さんの診断名は「薬剤性心筋症」。

抗がん剤の副作用が原因とみられています。
治療に使われたのは「アントラサイクリン系」と呼ばれる抗がん剤です。48年前から使われている古い薬ですが、治療効果が高く、乳がんや血液のがんなどで今も使われています。

がん患者の増加に伴い、売り上げは過去10年で2倍に増えています。

がん細胞を死滅させますが、同時に心臓の筋肉の細胞も攻撃してしまうのです。

乳がんは毎年10万人が新たに診断され、多くの場合この薬を使います。治療を受けた患者のおよそ10%で心臓の機能に障害が起き、一部で重い心筋症を発症するとされています。

治療は難しく、発症した場合5年後の生存率は50%しかありません。

防ぐことできたのに

この心筋症を防ぐための薬は、存在しています。「デクスラゾキサン」という薬で、アメリカでは28年も前から使われていて、ヨーロッパや中国、韓国などでも使われています。

しかし日本では、心筋症を防ぐための使用は認められていません。
背景にはがんを治療する医師と、心臓を治療する医師の連携不足があったと指摘されています。お互いの情報共有が少なく、副作用の問題が見過ごされてきたというのです。

2017年になって、日本でもがんと心臓の専門医が共同で、日本腫瘍循環器学会を設立しました。

去年になってようやく、厚生労働省に対し、心筋症を防ぐための薬を使えるよう、要望書を出しました。臨床試験が必要になる場合もあり、少なくとも数年はかかるとみられています。
村本さんはいま通院しながら、がんの手術から5年がたつのを待っています。5年間がんの再発がないことが、心臓移植を受ける条件だからです。

日本の心臓移植の待機者はおよそ900人で、移植件数は年間100件未満。主治医からは「移植まで最短でも6年はかかる」と言われています。
村本さん
「生きるために治療をしたのにこうなったのは本当に心底悔しいです。私たちは決して医師や病院を責める気持ちは全くないんです。だからどこにどうこの悔しさをぶつけていいのかわからない。心筋症を予防する薬が存在しているのであれば使ってみたかったですね。それを使っていたらもしかしたらこうなっていないかもしれないって、考えています」

「がんはすごく身近になっているし、治る病気になってきているじゃないですか。それはすごく良いことだと思うんです。だけどもう少し抗がん剤ってすごい薬を使っていることを重く見てもらって、ちょっとした症状でも見逃さないシステムが必要だと思います」

せめて早期発見、治療を

アントラサイクリン系抗がん剤の、心臓への重い副作用。

防ぐ薬を使うことはできなくても、早期に発見して、悪化を防ごうという取り組みが始まっています。
新潟市にある新潟県立がんセンター新潟病院では、アントラサイクリン系の抗がん剤を使った患者のうち、年間2人から3人が重い心不全で救急搬送されてきます。

心不全は気付きにくい病気で、循環器内科医でないと早期に発見するのは難しい上、息切れなどがあっても「がん治療を受けたのだから仕方がない」と患者が症状を放ってしまうケースが多いということです。

循環器内科医の大倉裕二医師は、心不全を早期に発見するには、年1回は検査を受けてほしいとしています。

しかし、2021年3月までの1年間にこの抗がん剤治療を受けた1000人余りのうち、検査を受けていたのは27.1%でした。
新潟県立がんセンター新潟病院 大倉裕二医師
「心不全の症状が悪化してから心臓の治療を始めても、心臓が元の状態に戻ることは到底ないし、退院できても日常生活に大きな制限がかかってしまう。早期に異常を見つけ心臓の保護を始めれば、ある程度の回復が見込める」

抗がん剤治療の患者を継続フォロー

大倉医師は2年前から、アントラサイクリン系抗がん剤の治療を受けた患者のデータベースを作成し、いつ検査を受けたのか把握するようにしました。

半年ごとに検査の実施状況を主治医に伝え、必要なら検査を促します。
また毎週欠かさず、臨床検査技師を集めて検討会を開くようにしています。

患者一人一人の超音波画像を全員で確認。複眼的にチェックすることで異常の見落としを防ぐのが目的です。
大倉医師
「がんの先生は大変忙しいので、副作用にまでなかなか目が行き届かない現状がある。特に心不全という病気は、症状が出たときには心臓の力がかなり落ちてることが多いので、症状が出るのを待っていてはいけない病気だ。血液検査とか心エコー検査を定期的に受けていただくことで、心機能が悪化する前に異常を見つけたい」

心不全直前で発見

新潟市の渡辺公子さん(70)は、こうした取り組みで心臓の異常が見つかりました。

3年前、乳がんの治療でアントラサイクリン系抗がん剤と、抗HER2薬という分子標的薬の治療を受けました。

いずれも心不全のリスクがあり、注意が必要な薬です。
おととし6月、大倉医師に促され、主治医が血液検査を行うと心不全の兆候がみられました。

渡辺さんには自覚症状は全くありませんでした。

心臓の状態を見ながら抗がん剤治療を続けましたが状態は良くならず、いったん抗がん剤の使用を中断。

心臓の治療を始めました。
渡辺公子さん
「数値がすごく悪くて先生から『もうあなたは今、池の崖のふちに立っていて、落ちる寸前ですよ』って、もう落ちますよって、私は落ちてから助けるのは嫌ですから、今のうちに助けたいですって言われました。でも自覚症状がないから、あまりピンとこなかったです」

登山も水泳も、諦めない

早期に治療を始めたことで、経過は良好。

春からは趣味の登山やスポーツも、再開できる見通しです。
渡辺公子さんインタ
「まだ完全には回復していないと言われるから、本当に気をつけて、ぽっくりってのは嫌だし、気をつけながらやっていきたいと思います。いまは卓球を一生懸命やりたいですね。汗をこうダラダラ出して、大会もあったら出たいです」
大倉医師はこの春からは、新潟市医師会の協力を得て、取り組みを地域のかかりつけ医に広げていくことにしています。

高まり続ける心臓へのリスク

心臓への副作用に注意が必要な抗がん剤は、年々増えています。

大倉医師によると、薬の添付文書の「重要な基本的注意事項」に心不全と記載さている抗がん剤は、おととしは25種類でしたが、先月(1月)の時点で33種類にまで増えました。

がんの治療を行いながら、心臓の状態に注意を払う必要性が増しているのです。
大倉医師
「これからもがんに有効な新薬がどんどん出る一方で残念ながら心臓に副作用を持つものも現れる。だからといって、がんの治療を諦めるということにはしたくない。心臓病の治療をしっかりやって同時にがん治療も継続していけるような仕組みをつくっていくことが大切だ」

取材を終えて

命を救うはずの抗がん剤が、心臓にダメージを与えてしまう。

このことが患者に知られていないのに加え、防ぐ薬があるのに使えない。救えたはずの患者は多いのではないかと感じました。

「抗がん剤による心不全はこれまで『運が悪かった』とか、『体質だから』と済まされてきた」という医師のことばが印象に残っています。

アントラサイクリン系の抗がん剤がよく使われる、乳がんや子宮頸がん、そして悪性リンパ腫や白血病は、比較的若い世代の発症が多いがんです。

若い世代でもひと事ではありません。

取材に応じてくださった村本さんも40代、働き盛りの時にがんが発症しました。

がんの5年後の生存率が6割を超えた今、がんの治療と心臓の保護をいかに両立していくかが、より大事になっています。

これまで医師個人の努力に任せられていた予防の取り組みを、組織的に行うと同時に、患者自身にも副作用の可能性を正確に伝え、体の状態により気を配ってもらうことも必要だと感じました。
横浜放送局 記者
古市悠
2010年入局
大阪局、科学文化部など経て現所属