実現しない物価目標 検証 政府・日銀「共同声明」めぐる攻防

政府・日銀が、デフレからの脱却と持続的な経済成長の実現に向けた「共同声明」を発表してから10年。過度な円高は是正され、日本経済はデフレでない状態になりました。しかし声明で掲げた「2%の物価目標」はいまだ実現できていません。政府が目指す「持続的な財政構造の確立」にもほど遠い状況です。共同声明は日本経済に何をもたらしたのか。そしてどこに限界があったのか。日銀検証シリーズ、1回目は「共同声明」が生まれた背景についてみていきます。(経済部記者 加藤ニール/西園興起)
「共同声明」誕生の背景
そもそもなぜ10年前に政府・日銀の「共同声明」が必要だったのか。
その背景にあったのが、日銀がデフレ脱却への責任を果たしていないという政治・社会からの厳しい批判です。
当時、日本経済は歴史的な円高など「6重苦」とも呼ばれるさまざまな課題に直面し、長引くデフレから抜け出すことができませんでした。
その背景にあったのが、日銀がデフレ脱却への責任を果たしていないという政治・社会からの厳しい批判です。
当時、日本経済は歴史的な円高など「6重苦」とも呼ばれるさまざまな課題に直面し、長引くデフレから抜け出すことができませんでした。

日銀は2010年10月に「包括緩和政策」という枠組みで新たに設置した「基金」のもとで長期国債やそれまで禁じ手とされたETFなどの買い入れを始めましたが、デフレ脱却の兆しは一向にみられず、批判の矛先は日銀に向かいました。
日銀に対して強く主張されたのは、高い物価目標を掲げ、その実現に向けて責任をもって金融政策を進めるべきだという考え方です。
日銀はそれまで「中長期的な物価安定の理解」の中で政策委員が物価が安定していると理解する状態を「消費者物価の前年比で2%以下のプラスの領域にあり、委員の大勢は1%程度を考えている」という考え方を示していました。
しかし2012年1月にアメリカのFRBが長期的なインフレ目標を公表したことで、日銀もインフレ目標を設けるべきだという声が高まります。
日銀は、2012年2月の金融政策決定会合で「中長期的な物価安定の目途(めど)」を導入。
日銀に対して強く主張されたのは、高い物価目標を掲げ、その実現に向けて責任をもって金融政策を進めるべきだという考え方です。
日銀はそれまで「中長期的な物価安定の理解」の中で政策委員が物価が安定していると理解する状態を「消費者物価の前年比で2%以下のプラスの領域にあり、委員の大勢は1%程度を考えている」という考え方を示していました。
しかし2012年1月にアメリカのFRBが長期的なインフレ目標を公表したことで、日銀もインフレ目標を設けるべきだという声が高まります。
日銀は、2012年2月の金融政策決定会合で「中長期的な物価安定の目途(めど)」を導入。

中長期的に持続可能な物価上昇の水準として「当面は1%を目途とする」という方針を示しました。
ここで物価安定の「理解」から「目途」へと表現を変えるにあたり、会合では活発な議論がなされました。
デフレ脱却に向けた日銀の意志を対外的に示し、政策の柔軟性を確保するために適切な表現は何か。
会合では漢和辞典なども参照しながら細心の注意を払って検討されました。
「目標」とすると機械的な政策運営を迫られるおそれもあり、避けるべきではないか。
「目処」と「目途」のどちらにすべきか。
「目途」の方がゴールに向かっている感じがする。
それでは「目途」の英語表記をどうするのか。
「Target」「Goal」「Aim」などという候補を1つ1つ議論。
結論は「Goal」に。
最後に「目途」をどう読むか。
「めど」か「もくと」か。
国民になじみがあるということで「めど」に落ち着きました。
当時の白川総裁は、「言葉は最後はだんだん一人歩きして我々の意図を離れていく可能性はある」と発言しています。
そしてこの年の10月には当時の民主党政権のもとで「デフレ脱却に向けた取組について」と題した文書が日銀総裁、経済閣僚が署名した形でとりまとめられます。
しかし、日銀に対しては、物価の「目途」ではなく、高い「目標」を掲げ、本気になってデフレ脱却に取り組むべきだという批判の声は高まる一方でした。
ここで物価安定の「理解」から「目途」へと表現を変えるにあたり、会合では活発な議論がなされました。
デフレ脱却に向けた日銀の意志を対外的に示し、政策の柔軟性を確保するために適切な表現は何か。
会合では漢和辞典なども参照しながら細心の注意を払って検討されました。
「目標」とすると機械的な政策運営を迫られるおそれもあり、避けるべきではないか。
「目処」と「目途」のどちらにすべきか。
「目途」の方がゴールに向かっている感じがする。
それでは「目途」の英語表記をどうするのか。
「Target」「Goal」「Aim」などという候補を1つ1つ議論。
結論は「Goal」に。
最後に「目途」をどう読むか。
「めど」か「もくと」か。
国民になじみがあるということで「めど」に落ち着きました。
当時の白川総裁は、「言葉は最後はだんだん一人歩きして我々の意図を離れていく可能性はある」と発言しています。
そしてこの年の10月には当時の民主党政権のもとで「デフレ脱却に向けた取組について」と題した文書が日銀総裁、経済閣僚が署名した形でとりまとめられます。
しかし、日銀に対しては、物価の「目途」ではなく、高い「目標」を掲げ、本気になってデフレ脱却に取り組むべきだという批判の声は高まる一方でした。

門間一夫 元日銀理事
「当時はデフレが日本経済最大の問題だという政治経済界の認識が強かった。そしてデフレであればそれは物価の問題で、中央銀行が金融政策で修正すべきであるという論調になっていった。インフレとデフレは最終的には貨幣的な現象だという当時の経済学会の認識からくる議論、それが結果として支配的な考え方になった」
「当時はデフレが日本経済最大の問題だという政治経済界の認識が強かった。そしてデフレであればそれは物価の問題で、中央銀行が金融政策で修正すべきであるという論調になっていった。インフレとデフレは最終的には貨幣的な現象だという当時の経済学会の認識からくる議論、それが結果として支配的な考え方になった」
「2%の物価目標」設定へ
そして転機となったのが、2012年12月16日の衆議院総選挙。
当時の安倍総裁が率いる自民党が圧勝し、選挙公約でもあった「大胆な金融緩和」「2%の物価目標」「政府・日銀の連携強化」そして「日銀法の改正」が現実に検討すべき政策メニューとして日銀に突きつけられた形となりました。
ここで日銀が最も危惧したのが日銀法の改正。
当時、安倍総裁らが「改正」まで訴えた意図は何だったのか。
第2次安倍政権で内閣官房参与を務め、ブレーンとしてアベノミクスの政策立案に携わった本田悦朗さんは次のように語ります。
当時の安倍総裁が率いる自民党が圧勝し、選挙公約でもあった「大胆な金融緩和」「2%の物価目標」「政府・日銀の連携強化」そして「日銀法の改正」が現実に検討すべき政策メニューとして日銀に突きつけられた形となりました。
ここで日銀が最も危惧したのが日銀法の改正。
当時、安倍総裁らが「改正」まで訴えた意図は何だったのか。
第2次安倍政権で内閣官房参与を務め、ブレーンとしてアベノミクスの政策立案に携わった本田悦朗さんは次のように語ります。

本田悦朗さん
「当時日銀は『物価上昇の目途』として1%を掲げてはいたが、『目標』とは異なる曖昧な表現で、実現に向けた責任、そして実現できなかった場合の説明責任も負っていなかった。また日銀法には、どの程度の物価レベルや物価上昇率を目指すかは条文化されておらず、物価安定の『理念』について抽象的に書いてあるだけだった。アベノミクスを進めるには金融政策の目的や責任などについて法的な根拠が必要で、目標値や手段、達成時期を明確化するべきだと考えた」
「当時日銀は『物価上昇の目途』として1%を掲げてはいたが、『目標』とは異なる曖昧な表現で、実現に向けた責任、そして実現できなかった場合の説明責任も負っていなかった。また日銀法には、どの程度の物価レベルや物価上昇率を目指すかは条文化されておらず、物価安定の『理念』について抽象的に書いてあるだけだった。アベノミクスを進めるには金融政策の目的や責任などについて法的な根拠が必要で、目標値や手段、達成時期を明確化するべきだと考えた」
日銀が最も避けたかったのは、この日銀法の改正でした。
1998年に施行された今の日銀法は、それまでの国家統制的な内容を改め、日銀の独立性を重視した形となっています。
一方でその第4条では、「政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と定められています。
総選挙の2日後に自民党本部の総裁室を訪れた白川総裁。
20分の会談の中で安倍総裁から、2%の物価目標の設定と政府・日銀の間で政策協定を結ぶことを求められました。
日銀は、日銀法の改正を避けるためにも、政府との政策連携を文書の形にすることはやむをえないと判断します。
それでは、政府・自民党はなぜ日銀法改正ではなく共同声明という形にしたのか。
本田悦朗さんに聞きました。
1998年に施行された今の日銀法は、それまでの国家統制的な内容を改め、日銀の独立性を重視した形となっています。
一方でその第4条では、「政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と定められています。
総選挙の2日後に自民党本部の総裁室を訪れた白川総裁。
20分の会談の中で安倍総裁から、2%の物価目標の設定と政府・日銀の間で政策協定を結ぶことを求められました。
日銀は、日銀法の改正を避けるためにも、政府との政策連携を文書の形にすることはやむをえないと判断します。
それでは、政府・自民党はなぜ日銀法改正ではなく共同声明という形にしたのか。
本田悦朗さんに聞きました。
本田悦朗さん
「デフレからの脱却は喫緊の課題だが、法改正の手続きには時間がかかる。共同声明という形で2%の物価安定目標と達成時期を明確に盛り込み、説明責任も求める形とすればよいと考えた。すでに長期に及ぶデフレで低迷した経済を成長軌道に戻すため、早期の取り組みが必要だった」
「デフレからの脱却は喫緊の課題だが、法改正の手続きには時間がかかる。共同声明という形で2%の物価安定目標と達成時期を明確に盛り込み、説明責任も求める形とすればよいと考えた。すでに長期に及ぶデフレで低迷した経済を成長軌道に戻すため、早期の取り組みが必要だった」
「共同声明」をめぐる政府と日銀の攻防
安倍新政権発足からおよそ1か月後の2013年1月22日。
政府・日銀の共同声明が発表されます。
「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携について」と題した共同声明。
政府・日銀の共同声明が発表されます。
「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携について」と題した共同声明。

本文はA4用紙1枚で文字数にするとわずか860字程度にすぎません。
しかしこの文言調整にあたり、政府と日銀は水面下で激しい攻防を繰り広げました。
最も激しくぶつかったのは「2%の物価目標」達成のタイミングです。
当初、政府は「2年」の期限にこだわりましたが、日銀が「2年での達成は約束できない。期限は示さず『中長期的』という表現にしてほしい」と要望。
しかし政府は、「ゆっくり取り組むような表現なのでだめだ」と一蹴します。
その後、日銀側が「早期、早く」という文言を入れてもいいが、あくまでもできる範囲内でというニュアンスを入れることが条件だと譲歩し、「できるだけ早期に実現することを目指す」という表現で決着しました。
しかしこの文言調整にあたり、政府と日銀は水面下で激しい攻防を繰り広げました。
最も激しくぶつかったのは「2%の物価目標」達成のタイミングです。
当初、政府は「2年」の期限にこだわりましたが、日銀が「2年での達成は約束できない。期限は示さず『中長期的』という表現にしてほしい」と要望。
しかし政府は、「ゆっくり取り組むような表現なのでだめだ」と一蹴します。
その後、日銀側が「早期、早く」という文言を入れてもいいが、あくまでもできる範囲内でというニュアンスを入れることが条件だと譲歩し、「できるだけ早期に実現することを目指す」という表現で決着しました。

また「日本経済の競争力と成長力の強化に向けた幅広い主体の取組の進展に伴い持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率が高まっていくと認識している」。
この文章をめぐっても激しいやり取りがありました。
当時理事として政府との調整にあたった門間一夫さんはこう証言します。
この文章をめぐっても激しいやり取りがありました。
当時理事として政府との調整にあたった門間一夫さんはこう証言します。

門間一夫 元日銀理事
「『競争力と成長力の強化に向けた取り組み』とは成長戦略のことでこれは政府がやること。これが成功すれば物価の安定の数値が上がってきますよということがここに書かれている。それを前提として2%の物価目標を設定するとしている。つまり前段の条件を満たされなければそもそも2%は達成できないよと言っているわけです。そこは大きなポイントで、2%を日銀だけで実現するのか、政府と日銀が協力しないとできないのかという論点なんです。声明に書かれてる文章は政府の協力がなければできませんと書いてある。ただ、あからさまな表現ではなく、あえて玉虫色の表現にしている。読んだだけではわからない。あえて難しい文章にするというのが落としどころなんです」
「『競争力と成長力の強化に向けた取り組み』とは成長戦略のことでこれは政府がやること。これが成功すれば物価の安定の数値が上がってきますよということがここに書かれている。それを前提として2%の物価目標を設定するとしている。つまり前段の条件を満たされなければそもそも2%は達成できないよと言っているわけです。そこは大きなポイントで、2%を日銀だけで実現するのか、政府と日銀が協力しないとできないのかという論点なんです。声明に書かれてる文章は政府の協力がなければできませんと書いてある。ただ、あからさまな表現ではなく、あえて玉虫色の表現にしている。読んだだけではわからない。あえて難しい文章にするというのが落としどころなんです」
もう1つ、「金融面での不均衡の蓄積を含めたリスク要因を点検し、経済の持続的な成長を確保する観点から、問題が生じていないかどうかを確認していく」。
この文言にもこだわったところがあったといいます。
この文言にもこだわったところがあったといいます。
門間一夫 元日銀理事
「ここは日銀が非常にこだわったところで、金融政策の柔軟性を保ちたいということなんです。無条件で2%の物価目標を目指すわけではありませんという意味で、もし問題が起きるんだったら2%はやめますよ。そもそも問題が起きるような目標追求のしかたはしない。無理な手段を使うとか、そういうことはしないという意味です。共同声明をめぐる論点について、日銀は実をとっているわけだが、そう書くと合意できないので、すべての論点を曖昧に書いている」
「ここは日銀が非常にこだわったところで、金融政策の柔軟性を保ちたいということなんです。無条件で2%の物価目標を目指すわけではありませんという意味で、もし問題が起きるんだったら2%はやめますよ。そもそも問題が起きるような目標追求のしかたはしない。無理な手段を使うとか、そういうことはしないという意味です。共同声明をめぐる論点について、日銀は実をとっているわけだが、そう書くと合意できないので、すべての論点を曖昧に書いている」
“2%”を追い求める中で…
共同声明の発表から2か月半後の4月4日、日銀は“黒田バズーカ”とも呼ばれた大規模な金融緩和策を打ち出しました。
そこで黒田総裁が2%の物価目標の達成期限として示したのは「2年程度」。
解釈の違いを調整して精緻に練り上げられた共同声明の文言を軽々と乗り越え、目標の達成に向けて短期決戦で臨む覚悟を示しました。
その後日本経済はデフレではない状態に戻りましたが、物価目標は2年どころか10年後の今に至ってもなお達成されていません。
いわば妥協の産物でもあった共同声明の中で、日本経済がひたすら追い求めてきた「2%の物価目標」。
その過程で見失ったものは何だったのか。
そして新たに浮かび上がってきた課題とは。
次回以降も「共同声明」を軸にこの10年を検証します。
そこで黒田総裁が2%の物価目標の達成期限として示したのは「2年程度」。
解釈の違いを調整して精緻に練り上げられた共同声明の文言を軽々と乗り越え、目標の達成に向けて短期決戦で臨む覚悟を示しました。
その後日本経済はデフレではない状態に戻りましたが、物価目標は2年どころか10年後の今に至ってもなお達成されていません。
いわば妥協の産物でもあった共同声明の中で、日本経済がひたすら追い求めてきた「2%の物価目標」。
その過程で見失ったものは何だったのか。
そして新たに浮かび上がってきた課題とは。
次回以降も「共同声明」を軸にこの10年を検証します。

経済部記者
加藤ニール
2010年入局
静岡局、大阪局を経て現所属
加藤ニール
2010年入局
静岡局、大阪局を経て現所属

経済部記者
西園 興起
2014年入局
大分局を経て現所属
西園 興起
2014年入局
大分局を経て現所属