弥生時代は月で暦を理解?文字なき時代のカレンダーを探って

弥生時代は月で暦を理解?文字なき時代のカレンダーを探って
はるか昔の人は、空に浮かぶ月や太陽をどんな思いで眺めていたのか-。そんなことを考えたことはありませんか?約1800年前、人々が月をカレンダーのように使って、時を把握していた可能性があることが、新たな研究で分かってきました。先人たちのメッセージを遺跡から読み解きます。(佐賀放送局記者 藤岡信介)

遺跡から昇る満月を追って

2022年の暮れも近づいた去年12月。私は、弥生時代の大規模な集落跡が残る、佐賀県の吉野ヶ里遺跡を訪ねました。

その目的は、遺跡のはるか彼方に昇る、満月を撮影するためです。1か月にほぼ1度しか姿を現さない満月。空には雲が立ちこめていました。

果たしてきれいに撮影できるだろうか。
やきもきしつつ薄曇りの空をにらんでいた午後5時すぎ、北東の空に明かりが。雲の晴れ間から見えた満月は遺跡全体を照らしました。

寒さに耐えて待っていたからか、月の輝きを神々しく感じました。

弥生時代の人が暦を把握?

約1800年前の弥生時代、吉野ヶ里で人々が満月の昇る時期を把握し、暦として利用していたかもしれない。そうした可能性について教えてくれたのは、東海大学で考古学を専門としている北條芳隆教授です。
北條教授
「弥生時代の人は『あ、満月が出てきた』というようなことではなくて、しっかり見据え、『この日は満月だぞ』という知識を持っていたのではないでしょうか」
北條教授が注目したのは、吉野ヶ里遺跡の中の「北内郭」と呼ばれる場所です。

平成の始めに“邪馬台国のクニ”ブームを巻き起こした吉野ヶ里遺跡。約40ヘクタールもの広大な敷地から住居や倉庫、大規模な墓も出土し、復元された建造物が当時の暮らしぶりを今に伝えています。
「北内郭」はそうした遺跡のほぼ中央にあり、さまざまな儀式を行う主祭殿などが設けられていたと考えられています。

「北内郭」の構造物が指していたのは

北條教授が敷地内の構造物と満月が昇る方角を分析したところ、驚きの結果が得られたといいます。
北條教授
「今、私が立ってる場所が北内郭の『中心点』になります。この北内郭の中心点を通る『軸線』が、冬至の付近に訪れる満月の出にぴったりあっていることがわかってきたんですよ」
堀と壁に囲まれた北内郭は、上空からみるとアルファベットの「A」の形をしています。

左右対称の「A」の2つの辺のちょうど中心を通る「軸線」を、延ばしてみます。線は、北東の方角に向かいました。
この方角、ある時期の満月の出の位置と、ピタリと一致することが分かったのです。

弥生時代が栄え、吉野ヶ里で人々が暮らしていた年代と重なる、西暦216年と235年の冬の満月です。
月は、毎回同じ場所から昇るというわけではありません。

18.6年の周期で北と南の空の間をゆっくりと往復し、その高低も変わります。地球の軸が傾いているためで、少しずつ月の昇る軌道が変化するのです。

周期の中で最も高く昇る時期は「極大期」と呼ばれ、約1800年前の2つの年はこの時期を迎えていました。また、1年の中でも冬の満月は、ほかの時期に比べて高い位置まで昇ります。

216年と235年の冬の満月は、とりわけ高度が高い満月だったということになります。

太陽が昇る方角とはわずかなずれも

別の調査でも、月との関係性を伺わせる痕跡が見つかりました。北内郭にある3棟の「物見やぐら」などの建物の向きを調査したところ、やはり、冬の時期の満月の方角を向いていたことがわかったのです。

この3棟の建物は、それぞれが12月、1月、2月の満月が昇る方角に向けて建設されていました。
「北内郭」の構造物はこれまで、月ではなく太陽が昇る方角を指しているのではないかと考えられてきました。

ところが、精密に計測したところ、わずかにずれがあることが分かったといいます。このため月が、新たな仮説として浮上したのです。

月は、およそ1か月かけて満ち欠けを繰り返すため、太陽と比べても細かく暦を把握することが可能です。

北條教授は「高度が高い冬の満月」を神聖な存在としてあがめ、これを道しるべに、当時の人たちが稲作や祭りの時期を把握しようとしたのではないかと考えています。
北條教授
「稲作を行う際には暦が不可欠です。春分を過ぎてから、夏至、そして秋分になるまでの間はこまやかな手入れを水田に行っていく必要があり、どういうタイミングでどんな作業をするかを知ることが絶対に必要だからです。弥生時代のように『無文字社会』であっても高度な時間の管理が可能なようにする工夫が、吉野ヶ里遺跡では認められるのかなと考えています。当時の中国側の暦の計算法を基本にしてまねをしていた可能性も非常に高いので、具体的にはどうなんだろうかというところが今後の研究課題になります」

CGを使って“遺跡×天体”

北條教授は、遺跡調査の中に天文学を取り入れ新たな研究領域を切り開いてきました。遺跡と天体をつなぎ合わせたのがCGを使った新たな調査の手法です。
これは、4000年前の星空までさかのぼることができるシミュレーターの画像です。その眼下に、吉野ヶ里遺跡が広がっています。

遺跡と当時の空を組み合わせることで、弥生時代の人たちに見えていた景色を再現することが可能になりました。

CGの作成にはドローンが使われ、空と陸から得られたデータによって、方角や位置情報が精密に再現されました。

北條教授と共同で研究を進めてきた国立天文台の関口和寛教授は、天文学を取り入れることで、造られた構造物の一つ一つの意味が、解明できるかもしれないと考えています。
関口教授
「わざわざ大きな構造物を造る時やその方向を定める時には、身近な存在であった天体に影響されていたのではないかと考えています。そこから、古代の人がどのように考えていたかというのにつなげるには、実際に現地で計測することによって同じ眺めを体験できるよう、再現してみることが重要です」

海外の遺跡でも進む 天体との組み合わせ

こうした天体と遺跡を組み合わせた研究は海外でも、盛んに行われてきました。
メキシコを代表する古代遺跡テオティワカンの「月のピラミッド」と「太陽のピラミッド」。

その名のとおり、月や太陽の軌道にあわせて巨大な建物や道路が造られたとされ、天体が文明に与えた影響について研究が進められてきました。
また、イラクの古代都市ウルの「ジッグラト」は、世界最古の文明の1つ、メソポタミア文明が栄えた地域にある、ピラミッドのような構造物です。

当時の「くさび形文字」には、月などの天体の運行に影響されたとみられる記述が残っていたことが分かっています。
関口教授
「世界的に見ても、天体と遺跡の関係でよく言及されるのは中南米の遺跡のピラミッドとかヨーロッパではイギリスのストーンヘンジなどがあります。過去にさかのぼって空の景観と合わせて見てみると、影響を受けているのは月なのか太陽なのか、もしくはほかの天体なのか。何を考えて配置されたものかといったことをいろいろ試してみては検証できます。広い視点を持って、昔の人は遺跡をどのように捉えていたかというのを理解するのにシミュレーションを活用するのが非常によいと思います」

はるか昔の星空を追って

取材の終わりに私は、弥生時代の吉野ヶ里遺跡の上空を再現したプラネタリウムが上映されるというので、観てきました。

ドームの中では、遺跡の北内郭から見えたであろう空が投影されていました。
じっと眺めていると、先人たちが暦につながる規則性を求め、懸命に夜空を見ていたのはしごく自然なことだったのではないかという気がしてきました。

“遺跡×天体”の研究は、吉野ヶ里遺跡以外でも進められています。

北條教授は、弥生時代よりもさらに古い縄文時代の、青森県・三内丸山遺跡でも、遺跡と天体の関係を調べてきました。
北條教授
「吉野ヶ里遺跡ではかなり細かなことがわかってきたのですが、日本列島にある同じ時代の似たような多様な性格の遺跡はどうなのか。調査や分析は、まだまだ、これからになりますね」
街の明かりがなかった弥生時代には、美しい夜空が広がっていたはずです。

古代の人たちは、はるか遠くに浮かぶ天体から何を読み取ろうとしていたのか。見えてきた謎から目が離せません。
佐賀放送局記者
藤岡信介
2008年入局
青森局や科学文化部を経て2022年8月から現所属
佐賀平野の地平線と満月の組み合わせが好きです