「まだ、28年前の出来事です」阪神・淡路大震災 遺族のことば

1月17日朝、神戸市が主催して東遊園地で開いた「追悼のつどい」で、兵庫県佐用町の上野政志さん(75)が、追悼のことばを述べました。
上野さんは、長女で大学2年生だった志乃さん(当時20歳)を下宿先の神戸市内のアパートで亡くしました。

追悼のことば 全文

まだ、28年前の出来事です。6434人、多くの死がありました。しかし私たちの多くは、その内の何人の顔を思い浮かべることができるでしょうか。

娘、志乃は、20歳と8か月という若さで亡くなりました。『一歩一歩を大切に生きていきたい』と成人式に、その言葉を残していました。しかし、親に一言も言わないで、突然、一歩も歩まないで、遠くへ行ってしまいました。

1月17日の夜、意外と渋滞を気にせず、山麓バイパスから、灘区琵琶町のニュー六甲ビラのアパートに着き、現場は、瓦礫の山だったのですが、近くの避難所巡りをし、ラジオ関西の尋ね人報道に依頼をし、車中泊をしました。

18日6時40分頃、少し明るくなってきたので、瓦礫の山を除けていると、お友だちの頭を、その横に志乃の足を見つけました。ホーム炬燵に差し向かいで寝ていたようで、2階の梁がその真ん中に落ちてきており、挟まれた状態でした。目の前にいながら、助け出せないでいる自分の無力さを味わいました。昼から垂水の兄が来てくれて、壁を崩し、屋根瓦を落としたりして、夕方の5時頃に、少し梁が動いて、引き出すことができました。

王子スポーツセンターでの丸一日以上かかった検視、200人近くが収容されて、1000人近い人が、黙って検視を待ち続けた武道場、全く、寒さと静けさだけが、そこにありました。

葬儀を終えてからは、毎日のようにアパートに遺品探しに行きました。1か月ごとにビニール袋にくくられた新聞を見て、何でも丁寧にする性格だなということを見つけたり、今、学校や図書館などに寄贈している面白い発想の「空を泳ぎたかった魚の話」のパラパラ絵本などを持ち帰りました。

『陽子、志乃 ここに眠る』の新聞報道があって、以来、多くの記者たちと出会うことになりました。初めは、泣いてばかりいましたが、3、4人目ぐらいから、話し終わって、ふと、気持ちが軽くなることがありました。
平成8年の5月の誕生日に合わせて、娘が生きていた証にと『忘れないで』という記録本を作って、関係する人たちに配りました。その作成途中に、神戸大学の社会学の浅野慎一先生から、志乃が受講していた講座の小レポートを送っていただきました。その中に『私にとって、家族とは、絶対的な存在である。』と言い切っていました。それが縁で、4回ほど、社会学の講座で、お話をさせていただき、後には、全学部対象の震災講座で、コロナが流行する前年までの何年間か、『生きてこそ』というテーマで、お話をさせていただきました。

その受講生の中に『生と死は、両極にあるのではない。みんなの心から忘れ去られたときに本当の死が訪れる』という小レポートがありました。まさにその通りだと思いました。だから、時々ふと、志乃は生きているという思いになることがあります。なぜなら、私の話を聞いてくださる方がいて、どんどん、志乃を知ってもらえる人が増えているからです。

『生きてこそ』という題は、1972年、アンデス山中に墜落した飛行機事故で、72日間救助もなく、16名が生き抜いた記録で、映画化されたその題名『ALIVE(生きてこそ)』からとったものです。生への執着なくては生きられないこと、生きることの素晴らしさを伝えるために使っているものです。

娘、志乃の無念さ、将来の夢や思いを実現できないまま、志半ばで逝ってしまったこの逆縁の体験を通して、『生きることの意味』について伝えていきたいと思っています。今も、志乃の足に触れた時の氷より冷たかったという感触、助け出せないでいる情けない自分の存在を鮮明なまでに覚えています。二度とこういう体験は味わいたくありません。

そのために、東北の大震災で釜石市が行ったような事前の津波防災教育や多くの災害から学ぶ教訓を、今、生きている人間で生かしていく必要があると思います。この追悼の言葉も、その機会と捉え、何か一つでも伝えることができたら幸いと思って、引き受けたものです。言葉足らずの私の話を聞いてくださった皆さん、そして、こうして話す機会と場を用意してくださった関係者の皆さんに感謝します。ありがとうございました。