亡き友へ 194回目の消火訓練

亡き友へ 194回目の消火訓練
「あの消火訓練、まだ続けてますよ。次は194回目。全部、自分たちだけでやってるんや。よかったら見に来て」
阪神・淡路大震災から28年がたった。
あの日、私は大きな被害が出た神戸市長田区に向かい、その後半年間、被災した人々に密着し取材を続けた。
冒頭のことばは、町作りの中心メンバーだった古市忠夫さん(82)から、去年、3年ぶりに会った時に聞いたものだ。
正直、とても驚いた。
住民自身による消火訓練を始めた、という話をずいぶん前に聞いたことがあった。
その訓練が、今も続いている、しかも194回目になるという。
どんな訓練をしているのか?なぜ続けることができるのか?神戸に取材に向かった。
(大阪放送局 チーフ・プロデユーサー 東條充敏)

緊張感のある消火訓練に驚く

訓練は月に1回、月末の日曜日、10時から1時間。

若松鷹取公園、通称「若鷹公園」で行われる。
秋晴れのこの日、参加者は12人。

男性が8人、女性が4人。

高齢の方が多い。

消防の関係者はいない。

住民だけの訓練だ。
訓練は、長く消防団員をしてきた古市さんがリーダーとなって進められる。

事故やけがにつながらないことを重視しているという。

訓練の前半は、まるまったホースを転がして伸ばし、ホースの先に、金属製の筒先をセットするまで。

スピーディ―さが求められるが、これが意外と難しい。
まるまった状態の時に、地面に接している1番下の層と2番目の層がずれていると、まっすぐにホースを転がすことができず、時間がかかってしまう。

また、筒先をきちんとホースにセットしないと、水が出る時に水圧で筒先が飛んでしまい、けがにつながるという。
後半は、公園の下にある防火水槽から動力ポンプを使って水をくみあげ、ホースにつないで、放水するまでを行う。

これも簡単ではない。

人の力で起動するポンプはエンジンがかからないこともあるし、水のくみ上げ方にもコツがある。

毎月訓練しているからこそ、住民自身で放水まで行うことが可能なのだと実感できた。

公園の反対側に2本のホースで放水。

放水が終わると撤収の掛け声とともに、ポンプとホースがしまわれ終了した。

この訓練を、住民だけで、毎月、20年以上続けている。
古市忠夫さん(82)
「親友の高橋修君が亡くなった。お前の分も復興に頑張ると、すばらしい町を作る、それを修君の前で私は誓いましたので、修君の分まで災害に強い町、すばらしい町を作りたい。天国から見てくれていると、自分で1人、そう思ってます。それが一番のエネルギーですね」

原点は親友 そして多くの命を奪った地震火災

住民自身による訓練、そこには、28年前のつらく悔しい思いがある。
古市さんが暮らす神戸市長田区の鷹取東地区、町の中心に商店街があり、古い木造住宅が並ぶ下町だった。

古市さんはここでカメラ店を経営していた。

1995年1月17日、5時46分に発生した震度7の地震は、町の姿を一変させた。
地震直後、1軒の家から出火。

消防車が来ない中、火をとめる術はなかった。

この地域で90人以上がなくなった。
商店街の友人で、ともに消防団でも活動していた高橋修さん。

店の下敷きとなり、火災に巻き込まれた。

商店街では、手間のかかることも嫌な顔一つせずやってくれる誠実で頼りになる人だった。

古市さんのショックは大きかった。

当時、NHKが撮影した映像には、高橋さんが亡くなった場所を訪れ、手を合わせる古市さんの姿が記録されている。
私は焼け跡にくる人たちに連日、インタビューを行っていた。

その中で、古市さんが毎朝、高橋さんにむかって語りかけている姿を見ていた。

あの時、何を語りかけていたのか、聞いた。
古市忠夫さん
「なんの手助けもでけへんかった、ごめんなという、そういう思いやね。彼と語り合ってるというか、助けられなかったことの無念さ。それをわびるのもあったけど、亡くなった人に応えられる、そういう町をこれから作っていくよという、そういうのを彼に誓いを立てたね」
「次に火が出た時には、自分たちで消し止める」

古市さんと地域の人たちは、町作りの際に防火水槽のある公園の設置を求めた。

2001年、町の区画整理が終わり、要望通りに若鷹公園ができた。

以来、初期消火の技術を高めようと、月1回の消火訓練を重ねてきた。

実は、古市さんは、震災のあと一念発起して、59歳でゴルフのプロ試験に合格。

プロゴルファーとなり、シニア・グランドシニア・ゴールドシニアの試合で通算11勝をあげている。

こうした活躍で注目を集めたが、どんなに忙しくても、月1回の訓練を優先して続けてきた。

訓練に影響を受け防災の専門家になった人も

古市さんから大きな影響を受けた人がいる。
総務省の消防研究センターで津波防災と地震火災を研究し、神戸大学の客員准教授も務める大津暢人さんだ。

大津さんは、かつて神戸市消防局の消防士だった。

2009年からの3年間、地元の消防署員としてほぼ毎回、訓練に足を運んだ。

初めて訓練に参加したのが、すでに震災から14年後。

風化が叫ばれる中、そのレベルの高さに驚いたという。
総務省消防研究センター主任研究官 大津暢人さん
「初め見た時はびっくりしました。もう準備も全部自分たちでしてらっしゃる。そして何もかも自分たちで完結してやってらっしゃる。住民の皆さんだけで初期消火を行えるようにしようという、そういう高い意識を感じました」
例えば、放水のとき、ポンプでただ水をくみ上げればいいということではない。

実は水をくみあげてから放水まで待ち時間がある。

この時、くみあげた水をポンプの外に出す「逃がし水」を続けないと、いざ放水という時に、水が出なくなってしまうという。

毎月の訓練があってこその技術だという。

訓練の後は、公園のベンチで1時間ほど古市さんから話を聞いた。

被災直後の様子から、もっと人を集めるにはどうしたらいいかなど訓練の話、さらに災害に強い町を作るにはどうしたらいいか。

今も大津さんの印象に残っている話がある。

それは、町のあちこちに火災報知機をつけられないか、という話だった。

誰かの家で火が出たら、いち早く、知らせることができる。

そうすれば、火が大きくなる前に、自分たちで消せると。

最初は夢のような話だと感じた大津さん、しかし、話をする中で、次の災害で絶対に犠牲者を出したくないという古市さんの真剣さが伝わってきたという。
古市さんと過ごした3年間は、大津さんに、新たな変化をもたらした。

災害で犠牲者を減らすにはどうしたらいいのか、深く考えるようになったのだ。

大津さんは消防官をしながら大学院に通い研究者となった。

今は津波防災や地震火災の専門家としてさまざまな提言を行い、市民や学生に備えの重要性を訴えている。
大津暢人さん
「古市さんとのここでの訓練の経験がなかったら、研究者の道には進んでいなかったと思います。次の災害に備えてどういう行動をとるべきか、どう備えるべきなのかということも見せてもらっている気がします」

高齢化には抗えない それでも信念は変わらない

一方で、活動の継続には大きな課題がある。

参加者の高齢化だ。

地域に建つマンションには、震災を知らない世代も増えている。

初回には40人集まったという参加者は、一時、5人ということもあった。
いつも夫婦で参加しているという女性に話を聞いた。

28年前のあの日、築6年の家は、全焼してしまったそうだ。
訓練に参加している女性
「震災でやっぱり多くの方が亡くなってますね、やはり生き埋めになった方、火の手で亡くなってる方もおられますのでね。身近なものですぐに消火できるんだったら、少しでも訓練してやっていけたらなと思います」
一方で課題も口にした。
訓練に参加している女性
「若い方にいろいろ出てきてほしいんですけど、なかなかね。日曜日で、みんな予定がありますのでね、難しいところはあるんですけど。それでも若い方も来て下さってます、時々」
2001年の第1回訓練から参加しているという男性は、自身の体力への不安を語った。
訓練に参加している男性
「古市さんがずっと頑張ってやってくれてはるんで、ついてきてはおりますけどね、だんだん年いってくると、いつまでやれるかわからへん。できるだけのこと、やりたいとは思いますけど」
参加者が減る中で古市さんは工夫を重ねてきた。

当初男性ばかりだった訓練、町作り協議会の女性防災委員に参加を呼びかけるなどして、女性も多く参加するようになった。

また、隣の町には動力ポンプはあるが、長年訓練が行われていなかった。

そこで、合同で訓練することを呼びかけた。
いま若鷹公園の訓練では、2台のポンプが稼働している。

1台は隣の町から運んできたものだ。

さらに、休憩時にはお茶を出すようにした。

自然と住民どうしの交流が進んだ。

いま、古市さんは地域の学校の先生にも声掛けを始めている。

先生が来て、生徒が来てくれれば、自然と親世代にも伝わる。

地域ぐるみの新たな防災の体制づくりが可能になると、夢みている。

すでに手応えはある。

小学校の先生が、時折、活動に参加してくれるようになった。

ただ、自発的でないと活動は続かない。

強制は絶対しないというのが古市さんのモットーだ。
古市忠夫さん
「声かけて1回だけ来てくれって言ったらできるでしょうけど、そういうものでは意味がないと思うんで、若い人が心の底から、愛する町は自分たちで守るんやという意識がどれだけ芽生えてくれるか。この28年を迎える17日、そういう意識がちょっとでも芽生えて大きく育って、こちらのほうに目が向いて参加していただける、それが本当の力になると、防災力になると思ってますね」
亡き友への誓いを胸に、震災から28年、訓練は続く。
古市忠夫さん(82)
「高橋修君と誓ったあの誓いを忘れずに僕はやってます。崩れそうになる時もあったんですけど、皆さんのおかげで195回目を迎えます。やっぱり時間はかかるでしょうが、やり遂げたいですね。若い人にたくさん来ていただく。災害に強い町を作る。亡くなられた人が必ず喜んでくれる。その信念は、僕はもう死ぬまで変わらんと思ってるんですけどね」

大地震と火災 いつ、どこで起きてもおかしくない

28年前、焼け野原となったこの町で、毎朝、亡き友に語りかけていた古市さん。

二度と犠牲者を出さない、その思いは20年以上にわたって地域の皆さんと共有され訓練が続いてきた。

大地震と火災、同じことはいつ、どこで起きてもおかしくない。

訓練の原点を、1人でも多くの方に知ってもらいたいと感じた。
大阪放送局
チーフプロデューサー
東條充敏
1992年入局
入局3年目、25歳の時に阪神・淡路大震災を経験
その後、ディレクター、プロデューサーとして震災関連の番組を多数制作