ロシア語でも訴える「はだしのゲン」 今こそ耳を傾けてほしい

ロシア語でも訴える「はだしのゲン」 今こそ耳を傾けてほしい
広島で被爆した少年がたくましく生き抜く姿を描いた漫画「はだしのゲン」。

これまでに世界の24の言語に翻訳され、ゲンは、愚かな戦争と核兵器をなくすために世界を闊歩している。

はじめて全巻が翻訳されたのは、実は「ロシア語版」だった。

ロシアがウクライナに侵攻し、核戦力もちらつかせる中、ロシア語への翻訳を手がけた女性は、いま改めて、世界中の人に、ゲンのことばに耳を傾けてほしいと話す。

(広島放送局 記者 石川拳太朗)

父、姉、弟、妹を亡くし、描いた「はだしのゲン」

6歳のとき、広島に投下された原爆によって被爆した漫画家、中沢啓治さん。

父、姉、弟、そして8月6日当日に生まれた妹を亡くした自身の体験をもとに描いた作品が「はだしのゲン」だ。

原爆のことを世界の人に知ってもらいたい

金沢市の浅妻南海江さん(80)は、学生のころから学んでいたロシア語を生かし、1994年から7年かけて「はだしのゲン」全10巻をロシア語に翻訳した。

きっかけは、原爆についての朗読劇を訳す作業に携わったことだった。
ロシア語版の翻訳者 浅妻南海江さん
「一緒に翻訳にあたっていたロシアの人から、原爆は実際どんなふうに落ちてきたんだろうと言われた。原爆に関するデータや記録はあるし、ヒロシマ・ナガサキはカタカナで書かれるほどよく知られていることだと思うんですけど、案外その実態というのは知られてないなと」
海外の人にも原爆のことを知ってもらいたい。

そのために、「はだしのゲン」を読んでもらうのが一番だと思ったという。

作者の中沢さんに手紙を書くと快諾の返事がもらえた。

ロシア語版が完成 ウクライナやロシアから感想届く

地域に住むロシアからの留学生たちと一緒に翻訳作業に取り組み、完成した漫画を海外の学校や図書館などへ寄贈する活動も行ってきた。

すると、海外の読者からも感想文が届いた。
ウクライナからの感想
「いま私たちがしなければならないことは、この悲劇の記憶を世代から世代に伝えていくことです。絵にショックを受け、本を読みながら泣いてしまいます。心の中に深い傷跡が残り、記憶の中に深く刻まれます。しかしこれによって人々の心に戦争への嫌悪の念を育てることができます」
核大国であるロシアの人たちも、この漫画を通して、核兵器による被害を自分事として受け止めているようだった。
ロシアからの感想
「主人公たちの苦しみを絵で感じながら読んだ。この本に描かれている出来事は距離的にも時間的にもそれほど遠いようには見えませんでした」

ロシアからの感想
「広島と長崎に投下された原子爆弾の恐ろしさがより理解できるようになりました。ゲンと彼の家族に代表される一般市民が最も被害を受けました。悲劇から何年もたったが、この作品は当時の恐怖を新たな世代に伝えている」
自分が翻訳した漫画を通して、海外の人たちが原爆による悲劇を知り、同じことを二度と繰り返してはいけないと感じてもらえた。

浅妻さんは、寄せられた感想文を読み返しながら、平和の種まきをしていることを実感していた。

平和の種まきをしても… そのロシアが軍事侵攻

しかし、浅妻さんが翻訳をし、作品を広めようとしていた国、ロシアは去年2月、ウクライナへ軍事侵攻を始めた。

浅妻さんは複雑な思いを抱いている。
浅妻南海江さん
「自分が勉強してきたロシア語という言葉で、平和を伝えることができてすごくうれしかったのに、いまは戦争を起こす言葉に使われてしまったなと本当に落胆した。草の根運動でゲンを広めていっても、国際政治の前ではなんと無力なんだろうと感じた」

漫画で戦った中沢さん

「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんは1961年、漫画家になることを夢見て上京した。東京に住んでからは、被爆者に対して差別や偏見を持つ人たちからの冷たい視線がいやになり、原爆のことは二度と話さないと決心していた。

その中沢さんが、戦争や平和をテーマに数々の作品を残すことになったきっかけは、被爆後の生活を支えてくれた母、キミヨさんの死だった。

中沢さんはかつて、NHKのインタビューでこのように語っていた。
中沢啓治さん(2005年放送)
「葬儀のあとお袋を火葬にしたときに骨がないんです。驚いたね。いくらかきまわしてもこんな小さな骨しかないんです。こんなばかなことがあるかと。お袋の骨がないというのはどういうことだと、ものすごいショックを受けてね。原爆の放射能が骨の髄までとっていきやがったと。こりゃあもう許せんぞと、初めてそこで原爆をテーマにしようと思った」
妻のミサヨさんによると、葬儀のあと、広島から東京に帰る列車の中で、中沢さんはひと言も話さずじっと考え込んでいたという。
火葬したあとの母の遺骨はもろく、頭蓋骨すら残らなかったことに強いショックを受けた中沢さんは、原爆と真正面から向き合うことを決意した。

2012年12月に亡くなるまで生涯にわたって戦争や原爆を題材とした数々の作品を残した。

“草の根で翻訳広がる” 国境を越えたメッセージ

中沢さんの覚悟、戦争への怒り、平和への願いが詰まったこの漫画を読んでもらいたいと、浅妻さんはロシア語版を完成させた。
すると、ほかの言語にも翻訳したいという問い合わせが数多く寄せられた。
浅妻さんは、ロシア語版のために苦労して独自に制作したセリフ部分が空白のデータを提供するなど活動を後押しした。
浅妻南海江さん
「私が広げたというよりも、草の根で翻訳が広がっていったんです。この本の持つ意味をみなさんわかっていらっしゃるから、訳したいと強く思われるんだと思います」
「はだしのゲン」が次々と外国語に翻訳され、世界に広がって行くことを、中沢さんはとても喜んでいたという。
浅妻南海江さん
「新しい翻訳が出るたびに、中沢さんは本を机に並べてニコニコ喜んでいたというお話を聞いています。本当に世界に広がっていくということを実感され喜んでいただきました」
浅妻さんは、仲間とともに「はだしのゲン」を広げるためのNPO法人を立ち上げた。

その初めての総会に合わせ、中沢さんから手紙が届いた。

亡くなる20日ほど前、病床から妻の代筆で送られてきたものだった。
中沢さんからの手紙
「ゲンがはだしで世界を闊歩しています。ゲンは何百何千、地球上をはだしでかけめぐり愚かな戦争と核兵器をなくすためにガンバル決心でございます。皆さんゲンに力を貸してやって下さい。ゲンはたくましく生きぬいていくでしょう。お互いに力を合わせて頑張りましょう」

色あせないゲンの言葉 今こそ世界の多くの人に

連載が始まってことしで50年となる「はだしのゲン」。
これまでに24の言語に翻訳され、国境を越えて戦争や核兵器がどんなことをもたらすのかを伝え続けてきた。

しかし、中沢さんの願いはかなうことなく、いまも戦争や核兵器はなくなっていない。

浅妻さんは、いまも色あせないゲンの力強い言葉、そこに込められた中沢さんの思いを、今こそ多くの人に知ってほしいと話す。
ロシア語版の翻訳者 浅妻南海江さん
「戦争への流れができてしまったら止めることはできないからこそ、戦争になりそうな芽を摘むということが非常に大事だと思う。まずは、思うこと、知ること、感じること。そして行動することですね。平和のために行動できる人間がたくさん集まれば何か変えることができるのかなと思う。ゲンを広げて平和のことを考える人たちが多くなってくれればいいなと思いますし、ゲンがそのために働いてくれることを願っています」
広島放送局 記者
石川拳太朗
2018年入局
戦争や被爆者の取材を担当
核兵器禁止条約の締約国会議では開催地ウィーンで取材