青春の禁じ手

青春の禁じ手
お金がなかった。

学ぶためにどうしても必要な本なのに、青年はそれを買うお金がなかった。

だから毎日、お目当ての古本屋に行っては、やってはいけない禁じ手を使った。

そして、ついに店主に声をかけられてしまう。

「おい、お前、名前は何ていうんだ!」

DX、効率化、費用対効果、年が明け新しい取り組みがどんどん進んでいく。

だけど、数字に表れない大切なものだってきっとある。

(ネットワーク報道部 松本裕樹)

もったいないじゃん

去年10月、日本には円安の嵐が吹いていた。

海外のモノが高くなり、その影響を取材しようと神保町の古本屋街に行った。

「海外の洋書を扱う店なら影響があるだろう」

それくらいの気持ちでたまたま電話をしてつながったのが、崇文荘書店という洋書の専門店だった。
神保町に着くと、近代的なビルの間に挟まれるように店があった。

4階建てのレンガ調の建物で、中に入ると店主の男性が2階で待っていた。
店主は阿部宣昭さんで、79歳、2代目だという。

「わざわざお店に来ていただいて、話すようなことはないですよ」
笑いながら話す。

店は哲学や歴史の専門書など3000冊余の洋書を取り扱っているそうで、何とも言えない、古い本の香りがする。

話を聞くと“海外からネットでの問い合わせは増えている、ただ円安でも今ある古書の値段は大きく変わっていない”ということだった。

取材の最後に阿部さんは気になることを話した。
阿部宣昭さん
「うちはねネットからでも在庫の本が買えます、でもね、全部の本をネットに載せてはいないんです。載せるのは多くて半分ほどですね」
なんで? 載せないと誰も気付かないのに?
もったいないじゃん? 載せれば誰でもアクセスできるのに?
商機、逃しているよ?

そう心で思ったことは言葉に出さずに、理由を聞いたら、

「書店を巡りながら、自分の好きな本を見つけてほしいんです(笑)」

などと言ってはぐらかされ、でもニュースを出すまでに時間がないので、店を出た。

そんな理由じゃ絶対にないと、取材した感覚で思った。

そこに全部入っています

ネットに売りたい本を載せない理由を聞きたいと、去年暮れ、再びしつこく店を訪ねてみた。

阿部さんは気さくだった。
阿部宣昭さん
「小説“チャリング・クロス街84番地”はご存じかな?映画化されたんだけどイギリスの古書街が舞台、そんな雰囲気に憧れてね…」
その小説は恥ずかしいが知らない。

店主になったいきさつなどを話してくれるが、商品を載せない理由を聞いても、

「全部載せてもそれじゃおもしろくないでしょ」

などと79歳の2代目店主は、再びいたずらっぽく笑うだけだった。
ただ、

「そこに全部入っています。もしよかったら見てください」

そう言って1枚のDVDをくれた。
表に「王様の古本屋 佐藤毅さんを偲んで」と書かれていた。

“佐藤毅”はすでに亡くなった初代店主で、阿部さんの義理の父親だ。

青春の禁じ手

職場に戻り「全部入っている」というDVDを再生してみる。

それは佐藤さんが亡くなった後、阿部さんと撮影業者が協力して、店の歴史や関係する人のインタビューをまとめたものだった。
それによると崇文荘書店の創業は昭和16年。

・戦争中は「敵国の本がある」と憲兵に目をつけられ「友好国のドイツやイタリアの本」などと言って本を守ったこと。

・東京大空襲では、向かってきた焼い弾の火が2、3軒手前で止まって本を燃やさずにすんだこと。

・戦争が終わると一転して、英語の専門書の注文が舞い込むようになったこと。

そんな話が写真や佐藤さんの妹のインタビューを交えて続く。

要は、店の歴史を伝えたいのか?などと思っていると、突然、男性が登場してインタビューに答え始めた。
男性
「昭和33年、私が大学院の1年生の時に崇文荘書店さんをおたずねしまして、入ると左側に私のお目当ての本が1冊置いてあるわけです」

「これがどうしてもですね、卒業論文に欠かすことができない、そういう名著なんですね。当時の3000円前後でございましたから、とても手に入らない」
男性は自分を貧乏学生だったと話す。

だから買いたいけど、手が出ない。でも卒業論文を書くためにどうしても必要、そんな一冊を棚に見つけたのだった。
「それで私もじっくり考えまして、セルロイドの板をB5ぐらいに切り出してですね、紙を何枚かクリップで留めまして自分のお目当てのところ(本のページ)を30分位の予定で横書きにメモしてまいります」

「かれこれ1週間半くらい通いました」
青年は本を買わずに、本屋の中で内容を書き写すという、禁じ手を打った。

毎日通っては禁じ手を使い、ついに、店主の佐藤さんから声をかけられてしまう。

「おいちょっと!あなた名前はなんていうの!」

それは怒りの声ではなかった。
「相当、貧乏学生らしいねと。ここまで見ていれば買いたいけれどお金がないということなんだろうと。ならばこれを君にあげると、うん。ただし出世払いだ。持っていきなさいと」
本を持って行けと言われ、怒られると思っていた当時の学生、いったんは断る。
「“私は貧乏学生なので、それをもらうことはできません”そう言うと『武士に二言はない』という風におっしゃってその本を渡してくれました」
DVDには、話している男性は「櫻井清さん」と書かれていた。

このあたりが理由なのか!と思い、私はあわてて阿部さんに電話をした。

櫻井さんの連絡先を教えてほしいと電話口で繰り返し、その番号に電話をかけると、櫻井さんが出てくれた。

いま88歳、この時は体調がよくなく会うことはかなわなかったが、当時のことを丁寧に教えてくれた。

申し訳ありません、申し訳ありません

そのころ櫻井さんは明治大学の大学院に通っていた。

修士論文を書くのにどうしても必要だった本はイギリスの経済学者、モーリス・ドッブの「資本主義発展の研究」。
値段は3300円ほどで、それは下宿先の家賃に近く、櫻井さんにはとても手が出なかった。

でも論文を書くには、その本の内容がどうしても必要だった。
櫻井清さん
「私は考えましてね、紙を切ってポケットに入れ、店に行って本を開くとその紙を出して内容を書き写したんです。本の場所も覚えています。店に入って左側の下から3段目の棚です」

「店主の佐藤さんが座っているところからよく見えてしまうんです。長く居ると叱られてしまうので30分なら30分と決めて、少しずつ写していったんです」

「申し訳ない、申し訳ない、お金がないから申し訳ない、そう思いながら、毎日住んでいた駿河台から神保町に通ってやっていました」
1週間ほど通い続けたある日のこと、店の前に佐藤さんが立っていた。

櫻井さんを見かけると声をかけてきた。
「おい、お前、名前は何て言うんだ。店の本を何に使うんだ」

まずいと思った櫻井さんは

「申し訳ありません、申し訳ありません」

と心に思っていた申し訳ないを言葉に出して、ひたすら頭を下げ謝り続けた。
櫻井清さん
「すると『わかった、貧乏学生なんだろ、これを持っていけ』と本を出されました。私はそれはできませんと断りました」

「でも『出世払いだ』『武士に二言はない』『持っていきなさい』と言うんです。住所や名前を書いて渡し、その本が私の手に入ったんです」
以降、店主との関係は長く続く。
「佐藤さんは私の出身地を聞き『新潟の長岡です』と答えると『私は新潟の柏崎だ、同郷だな』と答えられました。以後、書物の相談によくのっていただきました」

「しばらくして、私は大学の講師になることができました。店に行き、本代とお礼に5000円を差し出しました。でも佐藤さんは受け取らないんです。私は何かしらのお礼がしたかった、ずっとそう思い続けていました」
その思いがかなうのは「資本主義発展の研究」が櫻井さんの手にわたってから、18年後のことだった。
「昭和51年に崇文荘書店が今の場所に移転すると聞きました。私は、この時だと思って移転祝いにあるプレゼントを買って届けたんです。佐藤さんはやっと受け取ってくれました」

「それが何かは言えないのですが、社会人として認められた気がしてうれしかった」
櫻井さんは学術の道を歩み、イギリスの経済史や日米貿易摩擦についての本をまとめ、和光大学の経済学部長も務めた。

そして「もしあの時、あの本が手に入らなかったら、私の学術人生はなかった」と電話口で言った。

もしあの時、もしあの時、、、と人生にはたくさんの“もし”がある。

もしあの時、崇文荘書店に「資本主義発展の研究」がなかったら、もしあの時、禁じ手を店主が許さなかったら。

そして何より、もしあの時、本を店舗に並べずに当時で言えば目録だけで販売していたら、人と人の間でやりとりをしていなかったら、必要なものが必要な人に渡らず、若者の人生は動かなかったのかもしれない。

古書を並べるということ

櫻井さんが、本のお礼ができた昭和51年は、今の店主の阿部さんが医療機器の輸入会社をやめて、義理の父親である佐藤さんと一緒に店を切り盛りするようになった年だ。

古書をどうやって手に入れるかを知ると、1冊への思いがよくわかる。
海外旅行が珍しかった時代、2人は貴重な洋書が手に入ると聞けば、2週間から3週間かけて、海外の古書店を回り続けた。

効率のいい仕事ではない。

大学の教授から伊達政宗がヨーロッパに派遣した「慶長遣欧使節」の資料を探してほしいと依頼された時は、イギリスやフランスの古書店を片端しから探し回ったが、見つからなかった。

ようやくローマにあるとわかった時、その金額は大学教授でもとても払えるものではなく、泣く泣くあきらめたこともあった。

本の購入した後も大きな仕事が控えている。
それは価格の設定で、そのために本の保存状態を確認し、1ページ、1ページ抜けていないかもチェックしていく。

欠損が値段を左右するからだ。

全集モノになると、買ってから店の棚に置かれるまで数年かかるものもある。
阿部宣昭さん
「いいかげんな仕事で値段をつけると、分かる人には分かってしまう。時間も手間もかかるけど、こうしたことの積み重ねが、お客との信頼につながるんですね」
小さな古本屋に並べられているのは、いま売れている本でも、機械的に値段がつけられた本でもなかった。

店主と客の間で、商品を渡すというより、思いを渡し渡される。

そう感じたもうひとつの話がある。

売ってから30年の月日が過ぎた後、店に戻ってきた本の話だ。

30年後に戻ってきた本

2回目に会いに行った際、阿部さんが本棚から3冊の本を出した。
第一次世界大戦でドイツ兵が捕虜として日本に収容された際、みずからの暮らしぶりを描いたものだという。

厳しい環境を想像するが、本を開くと収容所でテニスをしたりお酒を飲んだりと自由度のある生活もあったことが、イラストなどでも紹介されていた。
阿部宣昭さん
「収容所内にいる仲間内で楽しむために作られたものもあれば、祖国で当時の様子を書き残すために書いたものもあります。いずれも、捕虜にどう接していたかを裏付ける貴重な資料で、いまはほとんど残っていません」
阿部さんが本を見つけたのは30年前。

古本市で古書の山の中から探し出した。

すると、関西の大学教授から連絡が入り、3冊ともその教授の手に渡った。

ところが去年暮れ、突然、店に連絡が入った。

「昔、この店で買った本を引き取ってほしい」

30年前、3冊の本を手にしたあの大学教授だった。
阿部宣昭さん
「『私ももう、86歳、いつまで本を手元に置けるかわからない、ならばこの本の価値を分かってくれる人にまた売ってほしい、次の世代の研究者に渡してほしい』そう、電話で伝えてくれました」
「なんで、急に連絡をくれたのかわかる?」と阿部さんが聞く。

「えっ?…わかりません」と私が答える。

「あなたたちが書いた記事だよ」と阿部さんが笑った。

私たちが円安の記事の中で崇文荘書店のことを書き、元教授は偶然それを読んで書店を思い出し、貴重な本の行先を店に託したいと連絡をとってきたのだった。
「私はバトンをつなぐことをお願いされたようなものです」
そう、阿部さんは言う。

本は3冊とも汚れがなく、きれいな状態で崇文荘書店に戻ってきたそうだ。

阿部さんは売る相手を、間違っていなかった。

“ただ”だけではつまらない

新しい年が始まった。

これからも世の中はすごいスピードで変化を続け、ネットやデータを駆使した社会に向かってどんどん進んでいく。世の流れだ。

でも、ただ効率がよければいい、ただたくさん知られればいい、ただ高く売れればいいというだけでは「つまらない、おもしろくない」と阿部さんは思ったのだと思う。

まだ教えてくれないが(というか、私が聞けていないが)、店にだけ置く本がたくさんあるのも、そうしたことがきっと関係していて、多少非効率でも、自分の思いが分かる人に本を直接届けたい面もきっとあるのだろう、人と人のつながりの中で生まれる何かを大切にしていきたい面もきっとあるのだろうと思った。

次の世代へと託された3冊の本、新しい時代にあの本を、阿部さんはどのように売るのだろうか。