銃社会に殺された息子のために~銃規制を訴え続けた両親の30年

銃社会に殺された息子のために~銃規制を訴え続けた両親の30年
異文化を体験して視野を広げたいとアメリカに留学した好奇心旺盛な息子。

突然の別れはわずか2か月半後に訪れました。

銃による事件で息子を失った両親は、この30年、アメリカでの銃規制強化を求めて声を上げ続けてきました。

後を絶たない銃の被害にいま、どのような思いを抱いているのでしょうか。
(国際部記者 大石真由)

アメリカに憧れた高校生の死

2022年10月、アメリカ・ルイジアナ州のバトンルージュで、日本人の追悼礼拝が行われました。
名古屋市出身の服部剛丈さん。

30年前の1992年10月17日。

仮装してハロウィーンパーティーに行く途中、訪ねる家を間違え、不審者だと勘違いした住民に銃で撃たれて亡くなりました。

当時16歳でした。

「何かしてほしい」と届いた思い

アメリカに憧れ、「第2の故郷にしたい」と言って渡米した剛丈さん。

それから、わずか2か月半。

父親の政一さんと母親の美恵子さんのもとに届いたのは決して受け入れることのできない知らせでした。
政一さん
「日曜の昼くらいでした。『息子さんが射殺されました』と連絡を受けました。射殺ということがどういう意味なのか、理解できませんでした」
元気だった息子に一体、何があったのか。

すぐに名古屋市の自宅からアメリカに渡りました。

そこで対面した、変わり果てた息子の姿。

深い喪失感を抱え、眠れずにいた美恵子さんには、剛丈さんの思いが聞こえたと言います。
美恵子さん
「主人も寝てましたし、本当に不思議な時間だったんですけど、『何かしてほしい』という息子のメッセージが聞こえたんです」
息子の死をむだにしないために、アメリカ社会から銃をなくしたい。

美恵子さんは日本に帰国する飛行機の中で、大統領への請願書を書き、同意してくれる人の署名を集めることを決めました。
美恵子さん
「本当に直感としか言いようがないですけど、大統領に訴えかけたら少しでも社会を変えられるかもしれないと思いました」

ホストファミリーと二人三脚の活動

2人はまず、剛丈さんのホームステイ先だったホリー・ヘイメーカーさんに協力を求めました。
剛丈さんのホストマザーだったヘイメーカーさん。

事件現場には自身の息子も居合わせていました。

剛丈さんを守れなかったという自責の念に駆られるなか、美恵子さんにかけられた言葉が今でも忘れられないと言います。
ヘイメーカーさん
「空港で政一さんと美恵子さんに会ったとき、美恵子さんは、私たちを責めるのではなくまず最初に『息子さんは大丈夫ですか』と声をかけてくれたんです。これまで会った中で最も思いやりのある人たちだと感じました」
2人の気遣いに心を打たれたヘイメーカーさん。

署名活動に協力することを決めました。

日本とアメリカの2つの家族が一丸となった活動は、両国で草の根で広がり、あわせて182万人分の署名が集まりました。

そして、ヘイメーカーさんや銃規制団体の働きかけで当時のクリントン大統領との面会が実現しました。
政一さんと美恵子さんは、大切な我が子を失った悲しみや行き場のない悔しさを伝え、「銃がある社会を変えてほしい」と強く訴えました。

その直後の1993年11月、ふたりの声も後押しとなり、拳銃の購入を規制する法律が制定されました。
政一さん
「ヘイメーカーさんがいなければ、大統領に会うなんてことは実現しませんでした。家族のような存在です」
美恵子さん
「大統領にお会いして、署名をしてくださった182万人の人たちの思いに対する責任が果たせると思いました」

なくならない銃による被害

政一さんと美恵子さんはその後も現地のデモや集会に参加し、さらなる規制強化に向けて訴えを続けました。
しかしアメリカでは、銃による被害はいまも後を絶ちません。

犠牲者はこの数年増加傾向で、2021年は2万人を超えました。
美恵子さん
「銃をなくすために活動を続けてきましたが、銃を持つことが当たり前のようになっているアメリカの状況を知れば知るほど、それは夢物語だと思うようになりました」
それでも、息子のように銃の犠牲になる人たちをなくしたい。
政一さん
「銃を持つ権利を主張する人たちに対して、安全に銃を使うにはどうしたらいいのか教育してもらいたいと思います。銃を持つことの責任の重さを認識してほしいです」

「銃のない社会を知ってほしい」

2人は事件の翌年から剛丈さんの名前をつけた「YOSHI基金」を立ち上げ、日本に留学するアメリカの高校生を支援しています。

銃が日常的にない日本の社会を知ってほしいという思いからです。
これまでに支援した高校生は30人以上。

留学生に言われた印象的なことばがあります。
「日本人が自分の身を銃で守ろうという考えを持っていないことにとても驚いた」
美恵子さん
「私たちの思いが伝わっていると感じてうれしかったです。やっていてよかったと思いました。交流を深めることでお互いの理解を深める、本当に小さな活動ですけど、できる限り続けていきたいと思っています」

思いに触れたアメリカ人は

2人の思いは、アメリカにいる人たちにも届いています。

事件から30年となった2022年夏、1人の女性からメールが届きました。

2000年に行われた銃規制を訴えるデモの際に美恵子さんがスピーチをしている写真が添付されていました。
メールの送り主はルイジアナ州に住むドナ・ディーズさん。

デモを主催した1人です。
「美恵子さんが悲しみや思いやりや共感の中にある母親としての力強さを活力にしていることに感動しました」
美恵子さんのスピーチを改めて振り返ったディーズさん。

デモに参加してくれたことを光栄に感じると伝えた上で、2人の30年間の活動をたたえました。

親戚を銃で亡くしたディーズさんはいま、地元の高校で、映画制作を通じて銃による暴力が日常だと感じている若者の認識を変えようとしています。
時には、剛丈さんの事件や悲しみから立ち上がって活動している政一さんと美恵子さんに触れ、銃の危険性を生徒に伝えています。

生徒たちは1本のドキュメンタリーを制作しました。

タイトルは「In Loving Memory(愛する人をしのんで)」
銃で家族や友人を亡くした人たちの証言をもとに、銃を持つことの問題を伝えています。
「もっと多くの人がこの問題を解決するために動くべきだと思い制作しました」

若い世代に託したい 両親が抱く希望

19歳以下の死因で最も多いのが銃によるものだというアメリカ。

政一さんと美恵子さんは、若い世代が社会を変えてくれることに希望を抱いています。

いま、若い世代を中心に銃規制強化を求める声が上がっていて、2022年6月には全米の数百か所で大勢の若者が参加したデモが行われました。
美恵子さん
「若い人が動き始めたというのは30年前にはなかったと思います。銃規制ということを考えるとまだまだこれからですが、何事も変化には時間かかるので、活動を若い人たちに託したいと思います」
銃規制を訴える人や我が子を失い悲しみから立ち上がった人、日本やアメリカで多くの人と出会い、協力して活動を行ってきました。
政一さん
「30年間、皆さんに助けられてここまで来ました。何かやるごとに、こうしたらいいのではないかというアドバイスも受けて、逆にこちらが動かされたという面もありました」
剛丈さんが留学していた家の近くの教会には、事件を語り継ごうと記念碑が設けられています。
事件から30年。

ルイジアナ州の教会で行われた追悼礼拝で、政一さんと美恵子さんはこの言葉を送りました。
「ルイジアナの人たちのおかげで、アメリカを第2の故郷にするという息子の夢がかないました。世界には解決すべき課題がたくさんありますが、希望と勇気と喜びとともに一緒に闘いましょう」
国際部記者
大石真由
2017年入局 富山局 名古屋局を経て現所属
名古屋局勤務時に服部夫妻と出会い、継続取材