世田谷一家殺害事件 遺族の思い

世田谷一家殺害事件 遺族の思い
“悲しみは乗り越えなければいけないものなのか?”

そんな問いかけに出会ったのは初夏のこと。私は昨年、パートナーを病気で亡くしました。まだ若く、もっと生きたいと願っていた彼女の最期を記事にしました。

その中で私はグリーフケア(身近な人の死の悲しみなどを和らげるケアのこと)の専門家に話を聞き、“悲しみとともに生きていく”と覚悟を書きました。

ただそれは実際には簡単なことではありませんでした。自分でも予期していなかったのは、死別から1年経った頃から以前にも増して、パートナーの不在の悲しみを感じるようになったことです。

“いつまでもくよくよしている私は、後ろ向きの弱い人間なのだろうか?”

日々揺れ動く感情に戸惑っていた時に手にした本に、先の問いかけがありました。著者の入江杏さん(65)は、世田谷一家殺害事件のご遺族の一人です。

事件から20年以上という長い時間、入江さんは悲しみとともにどう生きてきたのか?お話を伺ってみたいと思いました。
(おはよう日本ディレクター 越智望)

入江杏さん おおらかで包容力のある人

2000年の年末に起きた世田谷一家殺害事件。

大みそかに東京・世田谷区で会社員の宮沢みきおさん(当時44)、妻の泰子さん(当時41)、長女で小学2年生だったにいなちゃん(当時8歳)、長男の礼くん(当時6)の一家4人が殺害されているのが見つかりました。
未解決のまま、2022年12月で22年になります。

泰子さんの2つ年上の姉が入江杏さんです。

入江さんは、事件の解決を訴える一方で、現在はグリーフケアについての講演や執筆活動などを通じて、悲しみに向き合い生きていくことの意味について語っています。
過酷な経験をされているので、初めて会う前には不用意なことを言って気分を害してはいけないと緊張していましたが、実際に会うと入江さんは、おおらかで包容力を感じる方でした。

私の記事を読んでいてくれたらしく、私の精神状態をさりげなく気遣ってくれたのが印象に残りました。

その後、講演会にも足を運ぶようになると、入江さんが必ず伝えるメッセージがあることを知りました。

それは、「自由に、あなたらしく、十分に悲しんでいい」、それに「悲しみから目を背けようとする社会というのは、実は生きることを大切にしていない社会なのではないか」というもの。

これらの言葉は入江さんの経験からの言葉です。

入江さんは事件から6年間、世田谷一家殺害事件の遺族だと言うことができませんでした。

優しく思いやりのある妹家族との日々

事件当時、入江さんは夫と息子、それに入江さんの母親の4人暮らし。

宮沢さんの家族が住む家の隣りで暮らしていました。

宮沢泰子さんとは互いに「やっちゃん」、「おねえちゃま」と呼び合う仲の良い姉妹。

入江さんにとって、泰子さんはなんでも話せる親友のような存在でした。

泰子さんの2人の子どもも入江さんに懐いていました。

姪のにいなちゃんを小学校まで送るのは入江さんの役目でした。

にいなちゃんは、他人の気持ちが分かる子だったといいます。

リウマチを患い、その痛みに苦しんでいた入江さんの母親と出かける時には、「おばあちゃん、私の肩につかまっていいよ」と声をかける優しい女の子。
対して、甥の礼くんは、おおらかで天真爛漫。

取材の時に入江さんは、泰子さん家族の写真を見せてくれました。

誕生日に礼くんがうれしそうにケーキのろうそくを吹き消す様子をみんなで優しく見守る写真からは、仲の良い家族であったこと。

それに毎日を大切に楽しく暮らしていた様子が伝わりました。

ある日突然、“犯罪被害者の遺族”に

しかし、優しかった泰子さん家族との日々は突然の事件で奪われてしまいました。

2000年の大みそか。

普段の朝ならにいなちゃんと礼くんのにぎやかな声が聞こえてきます。

しかし、その日は午前10時を過ぎても、誰も起きてきません。

入江さんの母親が泰子さんの家へ様子を見に行き、事件が明らかになりました。

それから入江さん家族の生活は一変します。

事件現場となった自宅には連日マスコミが押し寄せ、事件は大きく報じられました。
心ない言葉が入江さん家族に向けられたこともあったと言います。
入江杏さん
「“あの家は見るのも嫌で気持ち悪い”とか、“もうつきあいをやめる”と言われたこともありました。腹立たしいと思ったわけではなかったけれど、母は、事件に巻き込まれて“普通でなくなってしまった”と、とても気にしていました」
犯罪に巻き込まれる人は自分たちとは関係ない人たち。

見えないバリアを張られているようでした。

かけがえのない泰子さん家族の命を殺人事件で奪われた上、事件について報道されればされるだけ、泰子さんたちは入江さんの知る姿からかけ離れていくようでした。

入江さん自身も世間がみる“犯罪被害者の遺族”という枠の中に自分を押し込めたところもあったのかもしれません。

第一発見者である母親の心情や家族への影響も考えて、入江さんは悲しみを人に話すことはしなくなりました。

心が凍りついたようになり、悲しみに蓋をしてしまったのです。

きっかけは1枚の絵

そんな入江さんを変えるきっかけの一つになったのは、姪のにいなちゃんが残した1枚の絵でした。

印象に残った本の一場面を書くという小学校の授業の課題で、亡くなる一月前に描いたものでした。
にいなちゃんが選んだのはモンゴルの民話『スーホの白い馬』。

羊飼いの少年スーホと白馬がつむぐ絆と悲しい別れの物語です。

ある日、入江さんは、絵の中に物語には登場しない女の子が描かれていることに気づきました。

頭に黄色いバンダナを巻きスーホと白馬を優しく見つめる少女。

その姿に入江さんは見覚えがありました。

バンダナを巻いた姿は、12月30日、事件の直前に入江さんが最後に見たにいなちゃんの姿と同じでした。
お正月を迎えるために家族4人で家の玄関を掃き清めて、松飾りを付けようとしていたとき、入江さんに気づき笑顔を見せたにいなちゃんに重なりました。
「絵の中の少女がほほえんでいました。私が最後に見た時のバンダナを巻いたにいなちゃんの姿そのものだったと気づいた時に、いつも明るかったにいなちゃんの姿を思い出しました」
この絵を見て入江さんは、にいなちゃんの最後の笑顔、泰子さん家族の笑顔がまぶたに浮かんできたといいます。

そして、にいなちゃんや泰子さん家族が生きることを一生懸命楽しんでいたことを思い出すことができました。
「最後の亡くなり方だけで妹家族が記憶されてしまうことに、反発したい気持ちがありました。私の心の中で生きているやっちゃん(妹の泰子さん)たちの姿はそれじゃなかった。あの子たちにとっても大切で豊かな人生があったということを伝えたいと思いました」

亡き人たちとの“出逢い直し”

入江さんは、この出来事をきっかけに泰子さん家族と“出逢い直し”たのだと表現します。

亡き人とは、生きていた頃のように会話をすることはできません。

しかし、過去の思い出を振り返る中で当時は気づかなかった相手の思いに気づいたり、日々の生活の中でその人ならどう言うだろうと想像することで自分と相手の関係が更新されたり、新たな関係ができると言うのです。

たとえば、にいなちゃんの絵を見たことは、入江さんの心にある変化をもたらしました。

入江さんは事件の時、隣の家にいながら気づかず、助けてあげられなかったことで自分を責めていました。

しかし、最期の時だけが泰子さん家族のすべてではないと思い出したことで、入江さんは優しく明るかった妹たちが事件のことで自分を責めることはないだろうと思えるようになったといいます。

事件によって心が凍りつき、入江さん自身も当初は妹家族の人生全体ではなく、最期の時だけに囚われてしまったのではないか。生前の姿を思い出すことで自分を責める気持ちが和らぎ、心が軽くなったのかもしれない。
もう会えない人との関係が固定したものではなく、変化していくことを”出逢い直し”という言葉で表したのではないかと私は思いました。
私もパートナーに対して、たくさんの後悔があります。

治療中、大好きなアイドルグループのコンサートツアーにたくさん行きたがったのに、1か所だけにしか行かなかったこと。

治療の辛さの愚痴を言いたかっただけの彼女に、いつも治療方針についての意見を言ってしまっていたこと。

些細なことから大きなことまでいろいろあります。

自分を責める理由はいくらでも思い当たり、「私はパートナーの支えになれていなかったのだ」と心に蓋をしようとしていた時に、“出逢い直し”という考え方に触れました。

そして、改めて、パートナーのことを考えました。

私が仕事で悩んでいた時、病床から「私がついているから大丈夫」とメッセージをくれたパートナー。

おおらかだった彼女が、私を責めるようなことを言うとは思えませんでした。

もしかしたら、彼女は私といたことに少しでも安心を感じてくれていたかもしれないと思えるようになりました。

私には、にいなちゃんの絵のように何か具体的にパートナーが残してくれたものはありません。

入江さんは、「その人のことを思うだけでいいんじゃないかな」と私に教えてくれました。

若い人たちからも反響が

その後、入江さんは、自分の言葉で泰子さん家族のことを語り始めるようになりました。

事件から6年が経っていました。

喪失体験は限りなく個人的なものです。

だからこそ「“犯罪被害者の遺族”という他人に押し付けられる物語ではなく、自分の文脈で悲しみを語ること」が当時の自分にとっては大事だったと入江さんは振り返ります。

入江さんは、グリーフケアの学びを深め、上智大学グリーフケア研究所などで講師を務めるほか、自分がどうして悲しみを語れなくなったのか、悲しみを語ることや悲しみに向き合うことにどんな意味があるのか考え、その気づきを著書や講演で発信しています。
そうした活動の中で思いがけない反応がありました。

死別の経験に限らず、家庭や学校などの人間関係で生きづらさや悲しみを感じているという人たちなどから“他人に悲しみを語れない”、”悲しみとどう向き合っていいのか分からない”という声が入江さんに寄せられるようになったのです。

12月に開催された事件の追悼イベントの会場にも、私と同じように入江さんの本を読み、話を聞きたくて訪れたという若い人たちがいました。

入江さんの話を聞いて「悲しみというものが語りづらくなっている社会であるということに共感した」、「他人の悲しみに共感するのは難しいと感じている。もっと人に優しくなりたいと思う」と感想を聞かせてくれました。

悲しみは乗り越えないといけないのか?

冒頭の問いかけ。

“どうやって悲しみを克服したのか?”

入江さんはメディアなどからしばしばこうした問いを投げかけられるといいます。

しかし、入江さんは、「悲しみは乗り越えるべきものではなく、変化していくもの、深まっていくもの」ととらえています。
「死別体験だけに限らず、人が生きる上で本来、悲しみは伴うもの。誰の心にも“悲しみ”はあり、それは忌むべきものでもなく、悲しみのただなかにいる人は弱い人でもありません。悲しみを知っているからこそ、人に優しくできることもあると思います」
悲しみと向き合うことは怖いし、辛いです。

ただ悲しみに蓋をすることでパートナーとの思い出も封印することになるなら、そのことの方が私は辛いです。

彼女の残してくれた言葉や笑顔、それに頑張っていた姿を思い出し、励まされることがあるからです。

亡き人と“出逢い直す”ことは、過去に囚われることではなく、今を生きる力にもなるのだと感じています。

今日、立ち直ったと思っても、明日、また辛い気持ちに心が囚われてしまうかもしれない。

でも、それが“悲しみに向き合う”ということであり、“悲しみとともに生きていく”ということなのだと入江さんの取材を通じて私は思いました。
「悲しみというものは本当に壊れ物のような、それぞれの人にとって大切なもの。悲しみの声を聞くことが生きる力にもなるし、もしかしたら悲しみの中にいる時間こそ、亡くなった人たちと深く結びついている豊かな時間かもしれません。私は私の思い出を大切にして、私らしく悼んでいきたい。亡くなった人たちとの心のつながりを大切にしていきたいと思います」
おはよう日本 ディレクター
越智望
自身の喪失体験をもとにグリーフケアなど取材