病気と闘った母に、僕が最期まで言えなかったこと

病気と闘った母に、僕が最期まで言えなかったこと
23歳で僕を産んだ母の写真です。

僕が高校生の頃に少しずつ体が動かせなくなる病気になって、去年亡くなりました。

そんな母に、どうしても伝えられなかったことがあります。

それが正解だったのかはわかりません。でも僕も今、毎日を全力で生きています。

最後まで頑張った母を、悲しませないためにも。

僕の母と病気のこと

母は「脊髄小脳変性症」という病気を患っていました。

歩く時のふらつきや手の震えなどの症状が出て、体が思うように動かせなくなっていく難病です。

現在、全国に少なくとも2万7000人の患者がいると言われていますが、今も治療法は見つかっておらず、治す薬もまだありません。
母はこの病気で40歳ごろから体調を崩し、闘病が始まりました。

当時は母も、高校生だった僕も、この病気の深刻さがまだわかっていませんでした。

けれど、めまいがきつくなり体がふらついて洗濯物が干せなくなったりと、家事ができなくなっていく。次第に歩けなくなって車いすに乗るようになり、車いすから落ちると1人では戻れない。

できないことが増えるにつれて母は精神的に落ち込み、ふさぎ込むようになりました。そんな姿を見るのがつらくて、社会人になった僕は平日は遅くまで仕事をしたり飲み歩いたりして、家から遠ざかるようになりました。

でも、土日には僕が車を運転して母が行きたいと言った近所の高台に、桜を見にいったこともあります。

少しでも幸せに生きてほしい。車いすを押しながら、心から思っていました。

きれいだった最後の姿

その後、療養型の施設に移った母のところに何度か面会に行きました。

面会に行くたびに頼まれたのは、スプーンが握れなくなった自分にご飯を食べさせることでした。でも飲み込む力が弱くなっていて、むせてしまうんです。その姿が悲しかった。
その後、誤嚥性肺炎になるおそれがあると医師から言われて、おなかに穴を開けて胃に管で栄養を流し込む「胃ろう」に切り替えるか聞かれました。でも母は、最後まで自分の口から食べたい、と希望しました。

僕たち家族も母の意思を尊重しました。

食べられる量は徐々に減り、最後の食事は1日1個あめ玉をなめるだけでした。

息を引き取ったと聞いて駆けつけた時の母の顔は、すごくきれいでした。

少し前はふさぎ込んで老いて見えた姿はそこにはなくて、化粧も施されて、僕の記憶の中にある若くてきれいな姿でした。62歳でした。
悲しい気持ちはあるけれど、それ以上に最後までこの病気と闘って頑張ったんだなと。そう思っています。

そんな母に、最期まで言わずにいたことがありました。

それは、「僕が母と同じ病気になったこと」です。
難病関連の法改正の取材でお邪魔させていただいた私(記者)にこの話をしてくれたのは、東京・八王子市に住む岩崎恵介さん(41)です。

岩崎さんは、人材紹介の会社で働く営業マンでした。

友達と飲みに行くのが好きで、趣味も登山やスキー、フットサルと、活動的な20代、30代を過ごしていました。

付き合っていた彼女にプロポーズし、将来を約束。順風満帆、そう思っていたと言います。

この記事は、岩崎さんが私に話してくれたことを、岩崎さん=「僕」が話すことばとしてつづらせていただきました。

母に言えなかったこと

母の病気には遺伝性のものと、遺伝性ではないものがあります。それでも父親から「心配するな」と言われていたこともあり、あまり気にせず過ごしていました。

30代になった頃、電車に乗っている時のちょっとした揺れで、倒れてしまったことがありました。不安に思ってMRIを撮ったけれど、異常が無いと言われたので、気のせいかと思いました。

でも34歳の時、得意だったサッカーのリフティングをしていて、片足でボールを弾ませようとしたらできなかった。何かおかしいと思って、父親に相談して一緒に病院に行きました。

診断の結果は、母と同じ「脊髄小脳変性症」でした。

それでも、最初のうちはまだ普通に生活ができていました。36歳だった2017年には、10年間エントリーし続けていた東京マラソンに出場できて、6時間半かかりましたが完走できたんです。
でも、病気の影響は徐々に目に見えて表れるようになりました。

外を普通に歩くのがきつくなってきて、外回りの仕事ができなくなった。

趣味のスキーや登山、サッカーもだんだんできなくなった。

会話する時に声が出にくくなってきた。

そして、愛していた婚約者を失った。

それでも、母には最後まで同じ病気になったとは言いませんでした。
正直「言いたい」と思ったことは何度もありました。

当事者にしかわからないつらさ、苦しさを分かち合って「こんなにきついとは思わなかった」「つらかったね、ごめんね」。そう言ってあげたかった。

でも、それを伝えれば「息子を同じ病気にしてしまった」と母が苦しむとわかっていた。

面会の時にも、僕は体の不調を絶対に気づかれないように母の後ろにまわって車いすを押すようにしていました。さとられないようにするために、面会の回数も減りました。

これが正解だったのかどうかはわからないです。けれど母を悲しませたくないから、最後まで貫きました。

なんで僕が 僕だけが

病気はここ数年、進行が早まりつつあります。

脚の付け根の痛みは前にも増して、立ち上がるたびにつらくなる。

せきをすることが増えて、声はどんどん出なくなっていく。

ことし8月には、1人暮らしをしていたマンションを離れて実家に帰ることにしました。

オンラインでできていた人材紹介の仕事も辞めることになりました。
日中は普通に振る舞っていても、夜になると1人でたまらなくなる時がある。

この病気には治療法はない。

なんで僕が。なんで僕だけが、こんなつらい思いをしなくてはならないのか。
病気はなぜ僕を選んだ。僕には大事にしないといけない仕事のつき合いも、養っていく大事な家族もない。

もしかしたら3か月後には歩けなくなっているかもしれない。

もし車いすに乗ることになったら、外出する時に実家の階段をどうやって上り下りするんだろうか。いつかもし施設に入ったらこの実家すら懐かしく思う時が来るんだろうか。

この病気には、絶望しかない。

今の支えは

僕には毎日、目標にしていることがあります。

それは1日8000歩、歩くこと。
筋力を落とさないように雨が降らない限りはつえを突きながら、自宅の周りの小道などを欠かさず歩くようにしています。

重い足を引きずりながら歩き終えると「僕はまだやれる」と思えるから。
毎週、言語聴覚士や理学療法士の人にも自宅に来てもらって、発声の練習やリハビリを続けています。

できなくなったことを考えると絶望しかない。

でも、できることに目を向ければ、僕はまだやれる。
仕事を辞め、登山やフットサルを離れた今も、時折「飲みに行こうぜ」「忘年会やろうよ」と声をかけてくれる昔からの仲間たち。

変わらぬ顔ぶれと過ごしていると、この瞬間がずっと続けばと思います。時間が止まり、進行も止まればと。

この病気の患者会では役員もつとめています。

この病気になって出会った人たちの存在も今の僕の支えのひとつです。

「薬だけが解決策」

今月。国会で「改正難病法」が成立しました。僕は患者の1人としてNHKのテレビ取材に答えました。
法律には、難病患者のデータベースを整備し一定の条件で製薬会社などが利用できるようにすることが、治療法の研究や治療薬の開発につながると期待される施策として盛り込まれています。

僕は「患者は薬だけが解決策なので、一刻も早く治療薬を届けてほしい」とインタビューに答えました。法律や制度が整っても、製薬会社や研究機関が積極的に取り組まなければ薬の開発は進みません。

法律が施行されるのは来年10月以降。その間にも徐々に、でも確実に僕の体調は変化していきます。

きょう1日を全力で

今の僕には、2つのポリシーがあります。

『きょう1日を大事に生きること』と『全力で生きること』。
病気とともに生きる僕は、きょうできたことがあすはできないかもしれない。

でも、リハビリのウォーキングでも、きょう1日10000歩が歩けたら、急にあした1000歩になることはない。9500歩は歩けるはずなんです。

きょうという1日を全力で生きることで、あすも前に進み続けられる。

母のつらい姿をたくさん見てきたので、僕はやっぱりこの先なるべく前向きな姿を見てもらいたい。まだ生きてるんだよ、頑張っているんだよという姿でいたい。

そして、僕が病気に対して闘っている姿を見せられているのは、同じ病と闘った母がいたから。

だから母の分まで病気と闘い続けたい。そう思っています。
社会部記者
小泉知世
平成23年入局
青森局、仙台局、政治部を経て
社会部で社会保障を取材
取材を通して生きる強さを教わりました