自分の名前も誕生日も知らぬまま

自分の名前も誕生日も知らぬまま
自分が生まれた正確な日にち、両親がつけてくれた名前。

76歳になった今も、私には分かりません。

生まれてすぐに中国人の夫婦に預けられ、50歳で“帰国”。

記憶にはない生みの親を探し続けましたが、手がかりもつかめないまま四半世紀が過ぎました。

女性を支えているのは、日本で出会った「ちぎり絵」です。

(広島放送局記者 亀山真央)

中国人の家族のもとで

広島市内のアパートの一室。中国残留孤児だった岩井梅子さん(76)が住んでいます。

アトリエを兼ねた部屋の片隅から取り出して見せてくれたのは、1枚の白黒写真でした。
写っていたのは、養父母と岩井さん、そしてきょうだいたち。岩井さんが育てられた、中国人家族の写真です。

岩井さんは、中国の大連で生まれ、すぐあとにこの養父母に預けられました。

実の父親は岩井さんが生まれる前に亡くなり、母親は岩井さんを預けたあと、行方不明になったと、あとで聞かされました。

岩井さんは小さい頃から、両親やきょうだいたちとは似ていないのではないかと感じていました。近所の子どもに、「日本人だ」と言われたこともありました。

小学生のとき、押し入れの中に養母が箱を隠すのを見かけ、目を盗んで開けたことがありました。見つけたのは、分厚いアルバム。中に入っていたのは、軍人の格好をした男性の写真でした。日本人の父親かもしれない。すぐに、そう感じたと言います。
岩井梅子さん
「大きくなったら、日本に帰りたいという気持ちは小さい頃からあったんです。母親はどんな人間だろう、どんな顔だろう。大きくなったらどうしても自分の母親のところに帰りたい。でも、育ててくれた養父母を思うと、誰にも言えませんでした。自分の心の中だけ」
当時の思いを振り返って、岩井さんが制作した絵です。

日本がある方角の海に向かって、心の声を叫んでいる様子を表しました。
しかし、中国で文化大革命が起き、日本人を育てていることが明らかになることを恐れた養父母が処分したのか、ある日を境に父親の写真が入った箱は見当たらなくなりました。

日本への帰国 後押しした養母

1972年。岩井さんが26歳の時に、日中の国交が正常化しました。
岩井さんは、漢方の薬剤師として働きながら、結婚して幸せな生活を送っていました。
それでも、断ち切れずにいたのが、日本への思いでした。

国交が正常化してから、次第に残留孤児が日本に帰る動きも本格化しました。岩井さんは、仕事を終えてから夜間に開かれている日本語教室に通って、いつか日本に帰ることができる時に備えました。

それでも、年を重ねた養母のことを思うと、岩井さんは日本に帰りたいとは言い出せませんでした。
養父は早くに亡くなってしまい、残された養母は、子どもたちの家を転々としながら生活していました。

厳しく、優しく育ててくれた養母の面倒を最後までみたい。そんな思いも強くありました。
岩井梅子さん
「育ててくれた恩を返さなくてはいけないという気持ちでいっぱいでした。どうしても養母を最後までそばで見守りたい。自分が日本に帰るのは、あとでもいいという思いがありました」
しかし、国交正常化から20年ほどたった時、養母の方から日本に帰るように言われました。

「まだ、日本人のお母さんが生きてるかもしれない」

養母はそう言いました。泣きながら抱き合い、養母の後押しを胸に日本への帰国を決意しました。

念願の帰国も手がかりはなく

帰国を決めた岩井さん。

親族につながる情報を求め、同じような残留孤児を集めたNHKのテレビ番組にも出演。震える声で呼びかけました。

「お母さん、お会いしたいのです。連絡をお待ちしております」
岩井さんは、日本での身元引受人が住んでいた山口県岩国市に身を寄せました。

生まれてすぐに中国人夫妻に預けられ、写真なども残されていない岩井さんは、自分の正確な誕生日も、生みの親がつけてくれた名前も分かりません。

岩井さんの中国での名前は「劉金梅」。岩国市の「岩」と、身元引受人から1字を取った「井」、そして中国での名前をもとに、「岩井梅子」と名乗ることにしました。
岩井梅子さん
「残留孤児として、自分の両親も誰なのかも知らない、自分の名前も知らない、本当の誕生日も知らないことは、人間としてすごく、残念なことですね」
日本での生活も、思い描いていたものとはかけ離れていました。

中国で取得した漢方の薬剤師の資格は日本では通用せず、介護施設で働き始めたものの、言葉の壁もあって長く続けることができませんでした。

母親を探し続けましたが、親族の手がかりすらつかめないまま、月日だけが流れました。そして、追い打ちをかけるように、中国に残してきた養母の死が伝えられました。
岩井梅子さん
「難しいことがあっても、養母がいつも優しくしてくれたことを覚えてるんです。亡くなったあとは、悲しくてショックで、言葉では表現できない気持ちでした」
岩井さんは体調を崩すようになり、仕事を辞めて広島市に引っ越します。

そんな時に出会ったのが、“ちぎり絵”でした。
岩井梅子さん
「ちぎり絵に出会った時は、ちょうど1番苦しかった時期でした。何か自分にできることを探していた時でもありました。静かに集中して、何も考えずに作るんです。そうすれば、苦しいことも忘れられました。和紙ちぎり絵との出会いは、本当に私の人生を変えてくれました」

ちぎり絵で “両国のかけ橋に”

岩井さんの作品です。

日中友好に尽力した広島県出身の画家、平山郁夫さんを思い、平山さんの絵をちぎり絵で再現しました。
こちらは広島市の平和公園にある「原爆の子の像」を表現した作品。

2歳の時に被爆し、10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんをモデルに作られた像を、時間をかけて制作しています。
ちぎり絵を学んで3年がたったころ。岩井さんは教室を開いて、ちぎり絵を広める活動も始めました。

中国各地にも出向いて教室を開催し、和紙を使った日本の芸術を広める活動を続けてきました。20年にわたる活動を通して、岩井さんたちが訪れた中国都市は14に及び、6300人にちぎり絵を教えてきました。

立ち上げた団体に付けた名前は「虹橋の会」。

日本と中国、2つの国の間で翻弄され続けてきた岩井さんが、「両国のかけ橋になりたい」という思いを込めました。
11月、国交正常化50年を記念して、広島市でちぎり絵の展示会を開きました。

残留孤児だった仲間や、日本や中国の教え子などから寄せられた作品数は400点余り。
平和を願って広島の原爆慰霊碑とハトを描いた絵や、中国の何気ない風景を描いた絵が並びました。

記念撮影で中心に座った岩井さんの表情は、達成感に満ちているように見えました。
岩井梅子さん
「自分が残留孤児になったのは、戦争が原因でした。もし戦争が起きれば、両親を亡くす孤児がまた出るのではないかと思います。だから、戦争のない世界が望ましいんです。ちぎり絵を通して、文化交流だけじゃなくて、平和で戦争がない日中関係ができればいいと思っています。最後まで、死ぬまでやりきりたいんです」

取材後記

私が岩井さんと初めて会ったのは、去年11月でした。

自分の本当の名前が分からない、誕生日や親族の顔も知らない。

何度も想像しようと試みましたが、決して「理解できます」とは言えないほどの葛藤や孤独を、長い年月にわたって感じてこられたのだと思いました。

それでも、強く、前を向いて生き続けてきた岩井さんの強さに、心を打たれました。
「原爆の子の像」を制作している時、岩井さんは、「平和を守りたい」という気持ちを込めていると話していました。

平和にかける気持ちの重さを私も受け止めて、取材を続けていきたいと思います。
広島放送局 記者
亀山真央
2021年入局
主に警察・司法を担当