ミサイル攻撃とワールドカップ 戦禍の国のサッカーを追って

ミサイル攻撃とワールドカップ 戦禍の国のサッカーを追って
“史上最高のサッカー選手”、リオネル・メッシが率いるアルゼンチンと、2大会連続の優勝を目指すフランスが決勝を争うことになったFIFAワールドカップ。その夢の舞台を戦禍の中で見つめる国がある。カタールから3200キロ離れたウクライナだ。
代表の過去の最高成績はワールドカップベスト8。バロンドーラー、シェフチェンコ選手を生み出したサッカーへの熱量がひときわ高い国でもある。
ゼレンスキー大統領は、侵攻からわずか半年で、国内リーグをいち早く再開した。いま、選手たちは何を思いプレーするのか。そして人々はサッカーに何を託しているのか。
(NHKスペシャル 「戦禍の国のキックオフ」 取材班)

戦禍の中のサッカーウクライナ代表

1枚の写真がある。

2018年に撮影された、サッカーウクライナ代表の写真。
満面の笑顔を見せる3人の選手は、それぞれウクライナという国を背負って闘ってきた、代表チームの中心メンバーだ。

3人の人生は、ロシアの軍事侵攻によって、大きく変転することになった。

タラス・ステパネンコ選手(写真右)は、東部の強豪チーム、シャフタール・ドネツク所属のミッドフィルダー。けがをいとわぬ体を張ったプレーが持ち味の“中盤の潰し屋”だ。

いま、チームは、本拠地のあるドネツクをロシアに占領されたため、国内や隣国ポーランドを転々としながら、試合を続けている。

私たちは、試合を取材するために訪れたウクライナ西部のリビウで、ステパネンコ選手に話を聞くことができた。
ステパネンコ選手
「私たちと同じように避難を余儀なくされているドネツクの人々にとって、今でもシャフタールはホームチームだと思っています。私の使命は、その人たち人生を少しでも明るくすることなんです」
写真に映るもうひとり、オレクサンドル・カラヴァエヴ選手(写真中央)は、ウクライナで最も古い歴史を持つディナモ・キーウの所属。

ディフェンダーからフォワードまで、様々なポジションをこなし、その献身的なプレーで幾度となくチームを救ってきた選手だ。

ロシアの侵攻後、出身地のヘルソン州が一方的に「併合宣言」されるという衝撃的な事態に直面した。
故郷にいる両親の安否が分からないまま、サッカーを続けていたカラヴァエヴ選手。

私たちが取材をしたとき、彼は調子を落とし、普段どおりのプレーができずにいた。

カラヴァエヴ選手は私たちにこう語った。
カラヴァエヴ選手
「いまは普通にサッカーができる状態ではありません。心の中に常に不安を抱えています。その不安と向き合わなければいけません。チームには心理学のカウンセラーがいて、不安に耐えられるように助けてもらいながらサッカーをしています」

裏切り者と呼ばれた代表選手

写真に映る選手の中には、ウクライナ国民から「裏切り者」のレッテルを貼られた選手もいる。
イヴァン・オルデツ選手。

3年前からモスクワのチームに在籍しプレーしている中で、突然ロシアによる軍事侵攻が始まった。

その際、オルデツ選手が侵攻を非難することなく、ロシアにとどまったことがウクライナ国民の怒りに火をつけた。

さらに、パーティーに参加していた姿がSNSで拡散し、炎上が加速した。

「くたばれ!」「敵の協力者!」「ウクライナより金を選んだ」…。

本当に、オルデツ選手は裏切り者なのか?私たちは、彼が一度だけSNSに投稿した「ウクライナに戦争はいらない」という言葉が気にかかっていた。

調べると、現在オルデツ選手は、ドイツのチームに移籍しているという。

早速取材に向かったが、カメラを前に、彼が口を開くことは無かった。
オルデツ選手と共にモスクワのチームに在籍していたかつてのコーチは、オルデツ選手はドイツに移籍したものの、いまもモスクワのチームとの契約が残っている可能性があるという。

万が一戻った際に、ロシアを非難したことが分かると身の危険が及ぶのではないかというのだ。
FCディナモ・モスクワ元コーチ
「オルデツは軍事侵攻が始まってから、モスクワのクラブの活動には一度も参加していません。練習場にすら姿を現していないんです。オルデツには話ができない事情がある。信じてください」

スタジアムに鳴り響く空襲警報

華やかなワールドカップの裏側で、様々な思いを胸にサッカーを続けるウクライナの選手たち。

しかし、東部、南部での戦闘はやむ気配がなく、ウクライナ全土でロシア軍によるミサイル攻撃が容赦なく続き、インフラも次々に破壊されていた。
国内リーグは被害が比較的少ない地域を中心に開催され、予定は猫の目のように変わった。

10月、ウクライナ西部のリビウでシャフタール・ドネツクとオレクサンドリーヤの試合が行われることになり、私たち取材班もスタジアムでの撮影が許可された。

そこには普段、私たちが取材するサッカーの現場とは異質な空気が流れていた。

バックヤードでは危険物がないか、ライフルを持った警備員が巡回する。

ロシア軍の攻撃を警戒し、スタンドは無観客。

選手や監督の声だけが場内に響く。

メディアの人数も制限され、独特の静寂の中でサッカーが行われていた。

広々と利用できる記者席に座り、試合を見ていると、前半が終了する間際に思わぬ事態が起きた。
ウクライナ全土に空襲警報が発令されたのだ。
試合は即座に中断され、場内にいる選手、スタッフ、関係者は全員がシェルターに移動することに。

20畳ほどのシェルターで、空襲警報が解除されるのを待つ。

その間、外に出ることは許されない。
3時間以上シェルターで待機させられた試合もあったというが、この日の中断は1時間半。

選手たちの短いウォーミングアップののち、試合は何事もなかったかのように再開された。

私たちは、地元記者やスタッフが慣れた様子で、淡々と仕事を続けていたことに少なからず驚いた。

サッカーのスタジアムは私たちが調べただけでも、軍事侵攻からの半年間で東部や南部を中心に少なくとも4度攻撃を受けている。

被害は大きく、その影響でリーグに参加できなかったチームもあった。

いつスタジアムが攻撃されてもおかしくない状況で、サッカーが続けられているのだ。
国内リーグが再開したのは、軍事侵攻から半年がたった8月23日。

政府の後押しと軍の安全管理のもとで許可された、極めて異例のものだった。

危険を冒してまで再開した理由は、何なのだろうか?その一つは、サッカーがウクライナの歴史と深く結びついていることにあるといわれている。

ソビエト連邦の共和国の一つだった時代から、圧倒的な人気を誇っていたサッカー。
首都のクラブ「ディナモ・キーウ」は、旧ソ連のチームの中で最多の優勝を誇り、当時のソ連代表のほとんどをウクライナ出身者が占めるほどウクライナではサッカーが盛んだった。

経済的に苦しい生活を余儀なくされていた人々にとって、その存在は誇りであり、精神的な支えだったという。

ゼレンスキー大統領の後押しを受け、リーグの再開に踏み切ったサッカー連盟。

アンドリーイ・パウェルコ会長が強調したのは、リーグ再開は戦禍にある国民の士気を高めるというものだった。
アンドリーイ・パウェルコ会長
「戦時下でもサッカーを行うことは私たちの国が必ず勝つということを世界に発信することになる」

戦地に赴く熱狂的ファン“ウルトラス”

サッカーとウクライナにおける「戦争」の意外な結びつきも、私たちは知ることになった。

取材したのはキーウにあるスポーツパブ。
ここは「ディナモ・キーウ」の熱狂的なファンが集まることで知られている。

だが、17時の試合開始前に訪ねてみても、期待していた人だかりはなかった。戦時下、パブに集まる余裕もないのだろう。

サポーターへの取材をあきらめ、店長に声をかけると、思わぬことを教えられた。

「ウルトラスは、みんな前線に行って戦闘に参加している」
「ウルトラス」とは、ウクライナで熱狂的なサポーターのことを指す言葉だ。

ゴール裏に陣取り、熱烈な応援を繰り広げ、時には相手チームのウルトラスと衝突を引き起こすこともある。

彼らの多くが前線で戦闘に参加しているというのだ。

店長によると、ウクライナではウルトラスが前線に行くのは当たり前のことで、今に始まったことではないという。

このパブは防弾チョッキや食料、衣料品などを調達し、前線に赴くウルトラスを支援するための役割も担っていた。

この日も、南部のヘルソンに向かう1人のウルトラスが、物資を受け取るため姿を見せていた。
「前線には国を守りたいというウルトラスの強いつながりがあります。私たちはサッカーに対する情熱だけでなく、サッカーを通じて愛国心を強く育ててきましたから」
各地のウルトラスを支援する財団、「Stands of Heroes」に話を聞いた。

ウルトラスが前線に赴くきっかけとなったのは、8年前に起きた「マイダン革命」。

市民が大規模な抗議活動を起こし、ロシア寄りの政権が崩壊した革命だ。

当時の政権は抗議活動をする市民に対して激しい弾圧を行った。

多数の死傷者が出る中で、最前線に立って戦ったのが、各地のウルトラスだったという。
「ウルトラスは精神的にも肉体的にも、最も戦う準備が整った人たちでした。それぞれのクラブは互いに衝突しあっていたけれど、この革命を機にウクライナの独立を目的に団結するようになったんです」
その後、ウルトラスの存在は大きなものになっていった。

財団によると、今もおよそ2000人から3000人が前線で戦っているという。

命を落とした者も少なくない。

財団が把握しているだけで、これまでに123人のウルトラスが帰らぬ人となっていた。

私たちは、財団が支援を行っている遺族にも話を聞いた。
オレーナ・パルタラさんは、東部のハルキウから2人の子どもと母親を連れ、西部に避難していた。

夫のスタニスラヴさんは、地元のクラブ、メタリスト・ハルキウのウルトラスだった。

スタニスラヴさんはマイダン革命に参加した後、ウルトラスの仲間とともに、マリウポリでロシア軍に抗戦したアゾフ大隊に加わった。

軍事侵攻で戦闘が激化した3月2日、命を落とした。
パルタラさん
「夫が戦死したと聞いた時、『それは本当のことではない』と大きな声で叫びました。そんなことない、信じることができませんでした」
パルタラさんが最後に夫と会話をしたのは、亡くなる前日。

夫の死を現実として受け入れるのに1か月以上の時間が必要だったという。

平和だった頃、夫とよく試合を見に行っていたというパルタラさん。

サッカーについて、いまどんな感情を持っているのか、尋ねた。
パルタラさん
「とても難しい質問ですが、サッカーがなければ夫が前線に参加していたかどうかはわかりません。仲間がいなければ…、強いつながりがそこになければ…。でも彼の人生にとってサッカーは最も大切なものの一つでした。私はそれを受け入れました」

サッカー 日常を取り戻すための闘いは続く

取材を始めて1か月ほど経った、10月10日。

ミサイルを中心とした攻撃がウクライナ全土を襲い、大きな被害を生んだ。

ウクライナは再び緊迫感に覆われた。

電力施設を対象にした攻撃によって、各地で停電が発生。

市民は日常生活を送ることすら困難な状況になった。
取材中もたびたび空襲警報が発令され、私たちはシェルターに避難をしながら取材を続けた。

だが、こうした状況下でも、国内リーグは止まることなく開催された。

この時期、取材したキーウ市長からは「いまはサッカーについて考える時ではない」と釘を刺された。

水や電気がない中で、サッカーが続けられているのだ。

乗り合わせたタクシーの運転手は私たちにこう語った。
「サッカーをみているとウクライナにも普通の生活があると感じることができます。サッカーは戦争がはじまる前の人生、私たちの平和な時の記憶とつながっているからです。私たちがただのサッカーファンだったあの頃です。悲惨な現実から“日常”を取り戻すためにサッカーが必要です。サッカーがないと困るんです」

心に秘めた思い

過酷な運命に直面していた、3人の元ウクライナ代表の選手たち。

“裏切り者”の烙印を押されたイヴァン・オルデツ選手は、ウクライナに戻れないまま、ドイツで今年最後のリーグ戦を戦っていた。
私たちは彼の心の内が知りたいと、わずかな可能性にかけて、再度取材を敢行した。

この日、オルデツ選手は先発で出場し、チームは勝利を収めた。

試合終了後、ミックスゾーンと呼ばれる公開取材スペースで、私たちはオルデツを待ち受けた。

そして、笑顔で引き上げてきた彼に質問をぶつけた。

「ウクライナの戦争が心配ですか?」

オルデツ選手は、真顔に戻ってこう答えた。

「その質問には答えられません」

彼の心は閉ざされたままなのか…。

カメラに背を向けてミックスゾーンを去るオルデツ選手を見送りながら、私たちはため息をついた。

そのときだった。

いったん姿を消したオルデツ選手が、戻ってきたのだ。

そしてこう言葉を発して再び姿を消した。

「とても心配です。でも話すことができないんです」

オルデツ選手が、心の底に秘めた本当の思いを、吐露できる日は、いつ来るのだろうか…。

サッカーの力とは

選手も、そしてサッカーを愛するファンたちにとっても、サッカーは、今を生き抜く力であり、戦争の前の「日常」とつながることができる、唯一無二の存在なのだと感じる。

その一方で、サッカーは、ナショナリズムとも親和性が高く、国家意識を高揚させる側面もある。

ワールドカップというサッカーの祭典が映し出すその熱狂的な景色と、同じサッカーから見える戦禍の国の全く違う風景。そのあまりのギャップに私たちは打ちのめされそうになる。

そして、サッカーを純粋に楽しめる日常が、いかに尊いか、改めて感じるのだ。
社会番組部ディレクター
齋藤章
2013年入局
大分局→スポーツ情報番組部→現所属
北京パラ取材時にロシアによる軍事侵攻が始まり、以来スポーツの視点からウクライナを取材し続ける
サタデーウオッチ9ディレクター
長谷川悠
2009年入局
好きが高じてサッカーの番組を中心に制作。
日本代表の活躍に感化され筋トレ始めました。
ウクライナ語を勉強中