認知症の妻へ 53年分の「ありがとう」

認知症の妻へ 53年分の「ありがとう」
妻にはもう夫が誰だか分からなくなっていました。
それでも夫は病院にいる妻へ手紙を書き続けました。

もうほとんど見えなくなった目で、感謝の気持ちをこめて。

その数は200通を超えました。53年間、一緒に障害や病気を乗り越え、連れ添ってきた夫婦の絆です。
(鳥取放送局映像取材 中島北登)

ひと言ひと言 書き続ける手紙

認知症で入院する妻の朋子さんに1年半にわたって手紙を送り続けている松岡義人さん、82歳。

鳥取市でしんきゅう師として働いています。

弱視で、障害者程度等級が一番重い“1級”に認定されています。
松岡さんはパソコンを使って手紙を書きます。

キーボードで打ちこんだ文字を、テキスト音声読み上げ機能を使ってひと言ひと言確認します。

拡大ルーペを使うのは、漢字の変換ミスなどをチェックするため。

ここ数年で視力がさらに落ち、小さい文字を見るのがつらくなってきたと言います。
「先日は髪を美容師さんにカットしてもらって良かったですね。キッとステキナ姿になったことでしょう」
「寒くなりましたので暖かいパジャマを看護師さんにことづけますね」
「コロナのため会えないのは残念ですが離れていても二人の心は通じています」
(一部抜粋/原文ママ)
季節の便り、昔の思い出、励ましのことば。

週に2回、病院に洗濯した着替えを届けるときに必ず手紙を添えます。

1人きりで入院している妻の朋子さんに「離れていても心は繋がっている」と伝え、励ましてきました。

ずっと2人で53年

2人が結婚したのは、53年前。

服飾デザイナーだった朋子さんと、盲学校の教員をしていた松岡さんは、知人の紹介でお見合いをしました。

もともと朋子さんは人見知りで引っ込み思案な性格でした。

周りは障害のある松岡さんと結婚するとは思ってもいませんでした。
松岡義人さん
「50年ちょっと前は、障害のある者との結婚はハードルが高かったんです。障害者に対する理解が今ほどありませんでしたからね。大変な決断ではなかったかな。なかなかそういう決断をするようなタイプではないと(朋子さんの)姉は言っていました。何か、お互いに気持ちがひかれたというか、感ずるものがあったのではないでしょうか」
松岡さんは、自分が人生を今日まで豊かに過ごして来られたのは妻の朋子さんの支えのおかげだと考えています。

結婚して以来、けんかをしたことはほとんどなく、どこに行くにも一緒でした。
松岡義人さん
「映画館へ行くと字幕スーパーがあるでしょ、あれ読めませんからね。(朋子さんが)小さな声で隣の席でささやくように時々読んでくれた。映画館に入っても真ん中のほうには行かないで、2人で隅っこの、端っこの方で見たりしました」
そばでいつも、松岡さんを支えてくれる妻でした。

「ごめんね、ありがとう」が増えて

そんな朋子さんが認知症を発症したのは、7年前、74歳のときでした。

徐々に、服の着替えや食事の準備などもできなくなっていきました。
松岡義人さん
「食事の準備や朝の着替えを手伝うと、そのたびごとに『ごめんね、ありがとう』と。妻も自分の病状が分かっているようで、それがかわいそうでしたね。病気のことを理解していた。自分がだんだんと衰えていくことを分かっていたと思います」
去年4月。

体力も少しずつ落ちていた朋子さんは、朝食のときに椅子から立ち上がれなくなり、そのまま入院しました。
入院した当初は、松岡さんの手紙に対して朋子さんから直筆の返信が届くこともありました。

しかしこの1年で朋子さんの症状はさらに進行。

ことしに入ってからは返事は1通もありません。
「新聞社の人ですか」
松岡さんに、そう問いかけたことも。

松岡さんのことも分からなくなり、呼びかけへの反応も乏しくなりました。

妻へ、感謝の気持ちをこめて

入院以来コロナ禍のため、松岡さんたちは思うように会うことができません。

ことし、松岡さんが朋子さんに会えたのはわずか2回。
朋子さんが寂しい思いをしているのではと考えた松岡さんは、朋子さんの誕生日にプレゼントを贈って励まそうと考えました。

朋子さんの好きなピンク色のパジャマとベスト。
そして、これまで書きためた手紙などをまとめた20ページの小さな本です。
松岡義人さん
「この日を迎えられたことは最大の喜びという感じでしょうか。精いっぱい労をねぎらうといいますか、82歳まで頑張ってきたねということ」
タイトルは、これまでの感謝をこめて「ありがとう ともこへ2022」。

「2022」には、来年も同じように誕生日を祝いたいという願いをこめました。
本のいちばんの見どころは、ふんだんに盛り込んだ53年前の結婚式の写真です。

ことし、松岡さんの自宅の掃除を手伝ってくれた知人が2階の部屋の押し入れから偶然発見してくれました。
服飾デザイナーだった朋子さん。

ウエディングドレスは自らの手で仕立てました。

当時は和装が中心でドレスはめずらしく、スタジオで写真撮影したときには、知らない人まで見に来たそうです。
松岡義人さん
「わずか20ページの小さな冊子でも私たちの記録、思い出です。こういう風に生きてきたんだということを記録に残しておきたい。今まで頑張って生きてきたこと。妻は、思い出せなくていい。それは無理なことだからね。一方通行だけれど、記録しておいたら、妻が分かればどこかで喜んでくれるかもしれないなと思っています」

妻の誕生日 半年ぶりの再会

11月11日、朋子さんの誕生日当日。

松岡さんは朝からスーツに袖を通します。
「きょうは特別です。むこうも病院内でできる最大限のおしゃれをすると思いますから」
プレゼントには、完成した本、208通目の手紙、朋子さんが好きなピンクのお花も持っていきます。
「反応はないかもわかりませんが、うなずいてくれたらありがたいですね。うなずいてくれたら十分かなと思って、多くのことは望みません」
2人が会うのは半年ぶり。

「久しぶりだね」

松岡さんが朋子さんに話しかけると。

「だけせんっていって」
朋子さんから言葉が出ました。

前回訪れたときはほぼ反応がなかったと言い、「こんなに話すことができるのは本当に久しぶりですよ!」と興奮する松岡さん。
朋子さんは、意味のあることばを話すのは難しく、会話が成立しているとは言いづらい状況ですが、松岡さんが話しかけると、朋子さんからは返事があります。

「お花受け取ってくれる?お部屋に飾ってな」

「しっぽがちょっと」

お花を渡して、松岡さんは208通目の手紙を読み上げました。(以下、原文ママ)
306号室 朋子へ

こんにちは。よしとです。

本日は朋子の82歳のお誕生日です。おめでとうございます。

朋子への私からのお祝いは洋服屋さんの人に選んでもらった朋子のお気に入りの色のパジャマとベストをプレゼントしますね。

そして私たちの思い出がたくさんつまった小さな本が出来ましたのでお届けしますね。

少し寂しいお誕生日になりますが春になったらお出掛けしたいと思っていますのでリハビリがんばってください。

今日もいい一日でありますように。

11月11日 まつおか よしと
朋子さんは無表情のまま、静かに松岡さんの声を聞いていました。

そして松岡さんが、思い出をまとめた本をプレゼントします。
松岡義人さん
「これ分かりますか?ちょっと見て。結婚式の写真。苦労して僕のところにお嫁に来てくれたわけですから、お礼ですよ」
1ページ1ページ丁寧に読み上げていく松岡さん。
そして、一番見せたかったウエディングドレス姿の写真です。


「これ古い写真だけど、いっぱい。君が作った服だよ」

朋子さんは、ウエディングドレスの写真を食い入るように見つめました。

そして目を上げると、部屋の一点をじっと眺めました。その目には涙がうかんでいました。

松岡さんが本と手紙を渡すと、朋子さんは両手を使ってしっかりと受け取りました。
その後、筆者が2人にインタビューしたときでした。
(筆者)「朋子さんの反応どうでしたか」
松岡さん「最高だと思います。お花も届いたし、ねぇ」
朋子さん「@@@」(聞き取れない声)

松岡さん「え、何?」
朋子さん「朋子です。ハハハ」

松岡さん「朋子ですか?」
朋子さん「ええよ」
朋子さんが笑ったのです。

松岡さんが聞いた、久しぶりの朋子さんの笑い声と笑顔でした。
いつも朋子さんのお世話をしている看護師さんも、こんなに生き生きとした表情を見るのは久しぶりのことだったと言います。

そして面会時間が終わりに近づいたころ、はっきりと聞き取れる声で朋子さんは、松岡さんにむかってこう言いました。
朋子さん
「自分でいいと思ったことを頑張ってください」
病気と障害を乗り越えながらつながる夫婦の絆。

心を通わせ続ける2人です。
松岡義人さん
「最高の誕生日になりました。やっぱり諦めないで、無理のない範囲で何らかの方法で交流を続けるということ。妻が元気でいる間は、書き続けたいと思っています。今までの50数年間の人生の中でこういう出会いっていうのはありませんから。もう一回生まれ変わってくることがあっても、どこかにいるのだったら探して、やっぱり朋子のところに来るようにしたいです」
「認知症の妻へ 夫婦の絆つなぐ贈り物」動画はこちら(5分58秒)
鳥取放送局映像取材
中島北登
2019年入局
京都局を経て鳥取局
高校時代は応援団で甲子園に
認知症の祖母を介護した経験も