あなたの知らない所で「目黒のヒミツ」の研究が進んでいます

あなたの知らない所で「目黒のヒミツ」の研究が進んでいます
「目黒」というと何が思い浮かびますか?芸能人が住みハイセンスな店が建ち並ぶ大人の街、川沿いの桜並木、落語「目黒のさんま」。

東京・目黒区にちなむものをイメージする人が多いでしょう。

私も少し前まではそうでした。

そう、1年前、会津若松支局に赴任するまでは…。

(福島放送局記者 相原理央)

あっちにも こっちにも「目黒」

NHK福島放送局会津若松支局の担当エリアは、白虎隊で有名な会津若松市など福島県西部・会津地方の17市町村。

中でもこの1年は、新潟との県境に近い「奥会津」と呼ばれる地域の話題が多く、取材でよく足を運んだ。

そして、そのたびにモヤモヤが募っていった。

只見高校の甲子園初出場を祝う垂れ幕を作った写真館の店主。
地元の商工会長。
11年ぶりに全線運転再開を果たしたJR只見線の駅の売店で働く女性。
名物「味付けマトン」を提供する駅前のカフェの店主。

なぜか、みんな「目黒さん」だったからだ。
「なぜ、君の原稿に出てくる人はいつも目黒さんなの?」

インタビュー原稿を書くたびに、デスクに言われた。

「そう言われても…。行く先々にいるんだからしかたないじゃないですか」

そんなことを考えながら、さらに何本か目黒さんが出てくる原稿を書いたところで、思い立った。

「そうだ。これをテーマに取材してみよう」と。

専門家に無理言って調べてもらった

特定の地域に特定の名字の人が集中的に住んでいてほとんどが親類縁者というケースは珍しくないので、只見町周辺の「目黒さんばかり」もそういうことなのだろう。

こうした仮説を元に、まずは、そもそも目黒さんは全国にどのくらいいて、地域によってどのくらい偏りがあるものなのか、調べてみることにした。ところが、方々に問い合わせたものの、個人情報の壁に阻まれ、なかなか取材が進まない。

そんな時、専門家から興味深いデータがもたらされた。
やはり福島県は「目黒さん」が特に多いようだ。隣の新潟県も多いし、目黒区がある東京も上位だ。

役場にも無理言って調べてもらった

そこで今度は、会津地方の役場に無理を言って「住民に占める目黒さんの割合」を調べてもらった。
その結果、只見町、金山町、三島町、柳津町の奥会津4町に多いことがわかった。

特に只見町は、4000余りの人口の6.7%と、全国的に多い「佐藤さん」と「鈴木さん」を足した数(6.8%)に迫る多さだった。

目黒さんのことは目黒さんに

なぜ、こんなに多いのか。これまで取材で出会った只見町の目黒さんに聞いてみたが…。
「みんな親戚」というわけでもなく、以前から気になっているけどわからない。そんな声ばかり。

戸籍からルーツに迫ろうと試みたという人もいたが、明治時代までしか遡れず、結局よくわからなかったらしい。

取材が行き詰まる中、目黒さんが2番目に多い隣の新潟県で「目黒さん」関連の展示会が開かれているという情報を耳にして、訪ねてみた。
訪れたのは、魚沼市にある資料館。ここは、江戸時代の豪農で後に県議会議員や衆議院議員を輩出した「新潟の目黒さん」ゆかりの品々を展示している。

学芸員によると、この地域の目黒さんのルーツは、戦国時代にさかのぼるという。
目黒邸資料館 櫻井伸一学芸員
「400年ほど前の戦国時代末期に、当時会津を治めていた蘆名氏の領内、現在の只見町や金山町にあたる地域に山ノ内氏という武士の集団があり、その家臣団の1人に目黒氏がいた」

「しかし、伊達氏に攻められ、豊臣秀吉の奥州仕置で領地を失ったため、目黒氏を含む山ノ内氏の家臣が数百人規模で越後に逃れてきたと古文書に書かれている」

「現在の魚沼市に移り住み上杉氏の領内で農民となった目黒氏は、行政能力を評価されてやがて地域のまとめ役となり、江戸時代には年貢の取りまとめなどに関わる大庄屋として、『旦那様』と呼ばれる、地域の人にとって殿様以上の存在の地主となっていった」
さらに、奥会津との意外なつながりもわかった。JR只見線の新潟県側の区間の元となった鉄道の開業を呼びかけたのは、この「新潟の目黒さん」だったのだ。
櫻井さん
「会津と越後は400年前からの助け合いの文脈の中でつながっていて、豪雨災害で不通となっていたJR只見線の鉄路が再びつながったのは、歴史の重みとおもしろさを示す1つの象徴だ。目黒家のルーツを探るということは、会津と越後の関係をとらえなおしていくということで、非常におもしろい分野だと思う」
櫻井さんのことばを聞きながら、「ちょっとした疑問からずいぶん大きな話になってしまったな」と思いつつ、11月上旬にこれまでの取材の成果を放送した。
「なんで?」と言っていたデスクからは「目黒、深いなぁ。なかなかおもしろかったじゃん」と言われ、視聴者の反応も上々。「さて次の仕事にとりかかろうか…」と思ったところ、支局に1通の手紙が届いた。

「目黒さん」から手紙が

それは、福島で放送したリポートをインターネットで見た「埼玉に住む目黒さん」からの手紙だった。
埼玉県川口市 目黒信さん
「先日、御局で放映された『目黒さんのヒミツ』大変興味深く、拝見いたしました。それは私も只見町出身の目黒だからです。私が卒業した只見中学校には同じクラス(36人くらいでした)に目黒姓が6人もいましたが、縁戚関係にある生徒は1人もいませんでした」
以前から只見町の目黒姓の多さを不思議に思い、中学の社会科教師を定年退職したあと、各地の図書館を訪ねて集めたという資料を「何かの役に立てば」と同封してくれていた。

そこには、俳優の松方弘樹さんの本名が目黒さんだったという話から、全国各地の目黒さんのルーツにまつわる情報、さらに東京・目黒区とのつながりまで、さまざまな新情報が書かれていた。

さらに、目黒区の歴史資料館で、去年「目黒氏」に関する特別展が開かれていたことも判明。

デスクに報告すると、「もう『第2章』やるしかないな。目黒さんのヒミツを、目黒に行って、目黒さんに聞きながら、目黒さんとともに追いかけておいで」との反応。大急ぎで準備を進め、東京に向かった。

最新の「目黒さん研究」に触れる

特別展の図録や当時の担当学芸員・前川辰徳さんによると、目黒姓のルーツも、東京・目黒の地名の由来も、諸説あって定かではないが、鎌倉幕府編さんの史書『吾妻鏡』に御家人の1人として登場し、武蔵野国荏原郡目黒村(現在の東京・目黒区一帯)を本拠としていたとされる目黒氏が、その源流の1つと見られているとのこと。

西へ北へ 広がる「目黒」

鎌倉幕府が承久の乱に勝利し、朝廷が持っていた西国の荘園などを没収して東国武士を新たに地頭に任命する中で、出雲国(現在の島根県)や摂津国(現在の大阪府・兵庫県)に拠点を移す目黒氏がいたことを示す史料が残っている。

また、15世紀前半には、陸奥国(東北地方の一部)に拠点を移し定着した目黒氏もいて、戦国大名・伊達政宗の書状には目黒氏が何度も登場するそうだ。

こうした史料や各地の目黒家に伝わる系図などから判明した「目黒氏が進出した地域」は、このとおり。
大きく分けて、(1)東京・目黒区の辺りにいた目黒氏、(2)西に移った目黒氏、(3)東北地方に移った目黒氏の3系統があり、さらに、東北の目黒氏は宮城県角田市に移った一族と、福島県柳津町(奥会津の一部)に移った一族に大きく分けられるらしい。

大河ドラマとのゆかりも

このうち柳津町に移った目黒氏は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で俳優の中川大志さんが演じて話題となった御家人・畠山重忠の子孫が、畠山姓を名乗れなくなったため身を隠していた村の地名をとって目黒姓を名乗るようになったのが起源という説が有力とのこと。

ついに、日本の原風景のような山村が広がる奥会津で目黒さんにばかり出会う謎と、大都会のスタイリッシュな大人の街・目黒がつながったか。

東北に移った目黒氏の中でもルーツの異なるいくつかの系統があるため、縁戚関係のない「目黒さん」がこの地域に多いのではないかと見られている。

浮かび上がったキーマンの存在

では、この「柳津町の目黒さん」が、戦国時代に越後に逃れて「新潟の目黒さん」となり、400年余りにわたる会津と越後の関係の懸け橋となったのか。取材を深める中で、「目黒さんのヒミツ」解明の鍵を握る人物の存在が浮かび上がってきた。

それは、東京に住む「目黒さん」。あの「新潟の目黒さん」の子孫で、一族以外には決して見せてはならないとされる先祖伝来の古文書を所蔵しているという。

なんとか、見せてもらえないか。学芸員の前川さんに付き添ってもらい、現在の当主・目黒勲さんを訪ねた。
「他見他伝無之心得候事」。誰にも見せてはならないとの祖先の言い伝えがある、門外不出の巻物。

ご家族も交えて話すことおよそ3時間。

取材の意義を伝えお願いしたところ、現物は手元にないということで、以前撮影した画像を見せてもらうことができた。
そこには、「新潟の目黒さん」の祖先は平家の流れを汲み、伊勢国(現在の三重県)を拠点として別の姓を名乗っていたが、応永二年(1395年)に目黒姓に改め、長禄元年(1457年)に訳あって奥州に移り、会津を治めていた戦国大名の蘆名氏の家臣となって、慶徳村(現在の福島県喜多方市の一部)を領したのが、会津の目黒氏の始まりだと書かれていた。
目黒勲さん
「私たちも、戦国時代に越後に逃れてきた以前のルーツには関心があるが、系図に書かれていることを裏付けるものがないうえ、系図に対外秘と書かれていることもあって、あえて公表することはなかった。今回の調査をきっかけに、目黒姓のルーツの研究をさらに進めてもらいたい」

開かずの扉が開いた時

「相原さんも、もう“こっち側”ですね」

目黒さんの家を辞去したあと、前川さんにそう言われた。

なぜ只見町やその周辺に目黒さんが多いのかという最初の疑問の答えは出ないままだが、奥会津から新潟に逃れた目黒氏のルーツを追ううちに、「目黒さん研究」の最先端に並んでしまったようだ。

「はじめは何も知らない素人なのに、何かにこだわって取材を重ね、当事者や専門家に当たっていると、いつの間にか追いつき追い越して自分が先頭を走っているってことが、ごくまれにある。だから記者っておもしろいんだよ」

以前デスクが言っていた言葉の意味が、今ならわかる気がする。
歴史も、取材も、奥が深い。

皆さんも、気になるお名前のルーツを調べてみてはいかがでしょうか。
福島放送局記者
相原理央
2020年入局
去年秋から会津若松支局
大勢の目黒さんに日々お世話になりながら取材に励んでいます