“顔の見えない”集合写真 戻ってこない日常と奪われたもの

“顔の見えない”集合写真 戻ってこない日常と奪われたもの
「自由がほしいんです」
こう声を張り上げ、3年以上にわたって東京の街頭に立つ男性がいます。

彼が街頭で訴え続ける理由。

それは、何を失ったかに気付いてからでは、その“何か”は、もう取り戻すことができないと知っているからです。

(徳島放送局記者 栄久庵耕児)

1枚の集合写真

東京で撮影された1枚の集合写真があります。

そこに写っているのは、20代から30代の香港出身の若者たち。

しかし、普通の集合写真と違っている点があります。

ほとんどの人たちが、自分の顔を隠しているのです。

「みんな、日本にいても恐怖におびえているのです」

こう説明するのは、香港出身のウィリアム・リーさん(29)です。自身は、顔を隠しませんでした。
ただ、一緒に写る仲間たちが顔を隠さなければならないような現状が、今の香港にはあるのだといいます。

日本にいても、顔を出して自由に発言することもできないのです。

そして、リーさん自身は、ふるさと香港には“一生帰ることができない”のだそうです。

“当たり前だった自由”

リーさんは、1993年に香港で生まれました。

当時の香港はイギリスの植民地としての統治下でしたが、リーさんが3歳の時、中国に返還されました。

それ以降、香港は中国の中にありながら「一国二制度」のもと、本土とは異なり、言論の自由や司法の独立など、高度な自治が認められるとされてきました。

そうした中で育ったリーさん。“自由があることは当たり前”で、疑うべきものではありませんでした。

それにリーさんは、平日は学校の部活動、週末には食堂を営む両親を手伝う日々に追われ、社会のことを考える余裕もありませんでした。
そんなリーさんにとっての数少ない楽しみは、日本の漫画。中学生の時に、正義や友情をテーマに描かれた内容に夢中になりました。

授業の時に、先生に見つからないようにこっそり読むこともありました。

一方で、リーさんにとって“当たり前の香港”は、徐々に変わりつつありました。

返還から6年後の2003年、中国政府への敵対的な活動を取り締まることを目的とした「国家安全条例」案が発表。

この条例案は、言論の自由が損なわれるなどと市民が強く反発したことから、その後撤回されますが、中国政府が香港当局に制定を強く求めていた条例で、中国の影響力が増してきていたのは明らかでした。

近づく中国による統制

リーさんは成長するにつれて、日本に強い興味を持つようになっていきました。大好きな漫画の中で描かれる日本の日常に触れてみたいと考えるようになったからです。

日本で生活することを目指し、日本語を独学で勉強。大学を卒業した3年後の2018年、24歳の時に、ビザを取得して来日しました。

しかし、その翌年、香港では中国による統制がすぐそこまで近づいていると実感せざるをえない出来事が起きます。

香港政府は、中国本土などから香港へ逃亡してきた容疑者の身柄を引き渡すための条例の改正案を議会に提出したのです。

これに対して、香港の市民は大規模なデモを行います。

その様子を日本からテレビを通して見ていたリーさん。
路上を埋め尽くし、改正案に反対の声を上げる市民。「市民を中国に引き渡すな」と書かれたプラカード。

そうした映像を見ていたリーさんは、自分の中に込み上げてくる“何か”を感じました。

「当たり前だと思っていたものが奪われる」

そんな感覚でした。

「あんた、何やったの!」

香港で広がり続けるデモ。参加する人は200万人ほどに上ったこともありました。

一方で、デモに参加する一部の人たちが警察と衝突するようにもなっていきます。

警察は、激しく抗議する若者たちを強制的に排除。市民の中にはけが人が相次ぎました。

さらに7月21日には、香港の地下鉄の駅で、白いTシャツを着た男たちの集団が、帰宅途中のデモの参加者などを次々に襲撃する事件も発生。
事件の動機は不明でしたが、男たちはデモの参加者の多くが着用していた黒のTシャツを着た人たちを狙ったとみられ、市民を暴力で黙らせようとするような事件に、リーさんは怒りが込み上げてきました。

リーさんはいてもたってもいられず、急いで香港に帰ります。

そして抗議活動の場に向かいました。

しかしそこは、警察が使った催涙ガスが立ちこめ、デモの参加者が逃げ惑う緊迫した状況。

リーさんは足がすくみ、思ったように体が動きませんでした。

すると突然、警戒に当たっていた警察官に出くわします。

反射的に逃げようとしましたが、警察官に体当たりされ、地面にたたきつけられました。

リーさんは、公務執行妨害の容疑で逮捕。

転んだ弾みで顔に傷を負い、連れて行かれた先の病院で、何もできなかった自分にふがいなさを感じていたところ、連絡を受けた母親が駆けつけてきました。

そして、リーさんを見るなり、次のように言いました。

「あんた、いったい何をやったの!」

激しく叱責する言葉でした。

香港のために行動したのに、なぜ怒られなければいけないのか。

リーさんは、言い返したい気持ちをぐっと抑えました。

揺れ続ける心

その後、リーさんは保釈され、仕事のため日本に戻りました。

しかし、ふるさと香港の状況に触れるたび、悪化するばかりで焦りを募らせていきました。

2020年6月、中国政府は抗議活動の広がりを懸念し、突如、反政府的な活動を取り締まる「香港国家安全維持法」の導入を一方的に決定。

この法律では、国の分裂、政権の転覆などを犯罪行為として規定し、違反した場合は最高刑で終身刑になるとしました。
そして法律は、海外での行為も、取締りの対象としたのです。

日本でも抗議活動を続けようと考えていたリーさん。

法律が一方的に導入されたことを知ったとき「香港には一生、帰れないかもしれない」という考えが頭をよぎりました。

香港にいる家族、友人、そこで過ごしてきた思い出、そして日常。

抗議活動を続ければ、そうしたものをすべて“捨てる”ことになる。

一方で、当たり前だと思っていた“自由”を守るためには、行動し、声を上げ続けなければならない。

リーさんの心は揺れ続けていました。

しかし「香港国家安全維持法」が施行された翌日、リーさんは実名と顔を出して、記者会見に臨んでいました。
活動する場所を失った香港の仲間の分まで、日本にいる自分が声をあげるしかないと考えたからです。

“顔の見えない”集合写真

日本で暮らす香港出身の人たちと一緒に活動を始めたリーさん。

メンバーは20代から30代の留学生や社会人が中心で、みんな日本で出会った仲間たちでした。

中でも力を入れたのが、2020年12月に東京都内で開いた展示会。抗議デモに関連する写真や物を展示することで、香港で起きていることを少しでも身近に感じてもらいたいと考えたからでした。

仲間と集まるのは決まって、学校や仕事が終わったあと。どうしたら日本の人たちに、うまく伝わるのか。寝る間を削って打ち合わせを重ね、真剣に意見を交わしました。
だから、4日間にわたる展示会が終わったとき、達成感からみんなで抱き合いながら、涙を流し喜び合いました。

そして、ひとつになった仲間たちとの思い出を記録に残そうと、スマートフォンで集合写真を撮ろうとしたときでした。

シャッターを切る直前、リーさん以外のほぼ全員が、持っていた本などで顔を隠したのです。
香港から離れた日本でも、堂々と顔を出して、喜びを分かち合うことすらできない。

誰かがSNSに写真を投稿するかもしれない。日本で活動していることを当局に知られてしまうかもしれない。家族や友人に迷惑がかかるかもしれない。

自由に考え、自由に行動する。そんな当たり前のことが、すでに奪われ、恐怖につきまとわれ、逃げることができなくなっていました。

戻ってこない日常

リーさんは、今も月に一度は母親とビデオ通話で会話をしているといいます。香港に帰れないことから、両親とは3年間会えていません。
話すのは、他愛もない話。リーさんの活動については、互いに触れることはありません。

身を危険にさらしてまで活動してほしくないという母親を心配させたくないから、あえて触れないのだといいます。

一方で、自分の活動がふるさとのためだという理由を理解してもらえないだろうという諦めもあります。

そんな母親と会話しているとき、ふと思い出すことがあるといいます。

食堂で朝から晩まで働きづめだった両親。一緒にゆっくり話せる時間は限られていました。

そんな中、年に一度、連れていってもらった旅行。
家族と笑って過ごし、心の底から幸せを感じる時間でした。

でも、そんな日常は、もう戻ってきません。

受け取られることのないビラ

「『なぜ危険を冒してまで活動するのか?』とよく聞かれるのですが、それは、香港が好きだから、故郷に思い出がたくさんあるからです。すごく単純な理由なんです」
日本の若い世代にも“今ある自由“について考えてほしい。

リーさんは、この3年間、東京・渋谷のハチ公前広場を頻繁に訪れ、街頭活動を行っています。
ただ、ビラを配っても、ほとんど受け取られることはないといいます。

それでも、諦めずに活動を続けるのは、自由を奪われて初めて、その大切さを実感しているからです。

自由は空気と同じようなもので、満たされているときにはありがたさに気付かないものの、なくなってしまうと途端に息苦しくなってしまう。

そうなる前に、自由の意味を考え守り続けていかなければならない。

その思いを胸に、リーさんは、これからも活動を続けていきます。
徳島放送局記者
栄久庵耕児
2009年入局
松山局、国際部などを経て現所属
海外の人権問題などを中心に幅広く取材