ドロップ食べられる平和 いつまでも

ドロップ食べられる平和 いつまでも
赤、黄、緑、紫…。缶の中から何色のドロップが出てくるかを楽しみに食べたという方も多いかもしれません。赤い缶のパッケージで知られる「サクマ式ドロップス」。

販売元の佐久間製菓が廃業を発表して以降、SNSなどで反響が広がっています。特に多かったのが、映画「火垂るの墓」を思い出したという声です。ドロップが貴重だった戦時中の暮らしに思いをはせ、平和の大切さを改めて実感する。そんな人たちが多いようです。

(社会部 田村真菜実 札幌局 原祢秀平)

突然の発表

「佐久間製菓、来年1月20日に廃業」。

そのニュースは11月9日、突然、報じられました。
コロナの影響に加え原材料の高騰が経営を圧迫。
明治41年の創業以来114年の歴史に幕を下ろすことになったのです。

赤い缶に入った色とりどりのドロップが看板商品で幅広い世代に親しまれてきました。
SNSでは、惜しむ声が相次ぎました。

「ずっと残ってほしかった」
「もうアニメの中でしか見られなくなる」…。

特に多かったのは、映画「火垂るの墓」を思い起こしたという声です。
廃業が明らかになった直後、映画を作った「スタジオジブリ」も公式のSNSにドロップ缶の写真を掲載しました。

今から30年以上前、1988年に公開されたこの映画。
作家、野坂昭如さんの戦争体験をもとにした小説が原作で、監督は高畑勲さん。

戦争で親を失った14歳の清太と4歳の節子のきょうだいが懸命に生き抜こうとする物語です。
サクマ式ドロップスの缶が登場し、ドロップを食べて喜ぶ節子の無邪気な姿、缶の中に入れられた節子の骨など、効果的に用いられています。

特に、空になったドロップの缶に水を入れて節子が飲むシーンや衰弱していくなかでドロップと勘違いしておはじきを口に入れるシーンは、戦時中の切なさを際立たせる場面として知られています。

SNSで広がる声

横浜市に住むゆきちさん(仮名)も映画の記憶がよみがえり、SNSに投稿しました。
ゆきちさん(仮名)
「清太が空になったドロップの缶に水を入れて節子に飲ませるシーンが印象的です。『味がいっぱいする』という節子のことばは忘れられません。節子の無邪気さがかわいい反面、戦時中の食糧難を思わせる描写だったので、思い出すだけで泣けてきます。ドロップは戦争の悲惨さも教えてくれました」
ニュースを見て、慌てて商品を買いに行ったというゆきちさん。

ドロップをすべて食べ終わったら、映画のように缶に水を入れて飲むことにしています。

「当時節子はどのような気持ちで水を飲んでいたのか想像しながら、じっくり味わおうと思います」
大阪・吹田市の山本さんも投稿した1人です。
映画の中でのドロップの描かれ方に驚いたと言います。
「映画では清太があげたドロップを節子がおいしそうに食べているシーンが印象に残っています。2人の絆をドロップがつないでいたように思います。戦後に生まれた私にとってはドロップは幼いころからいつも自宅にあったお菓子という印象があります。そのような日常的なお菓子が戦争によって悲しい描写にも使われていて驚きました。そのギャップが戦争の悲惨さを際立たせているように感じました」
「水を入れて飲んだけど味がしなくて戦争のやりきれなさを感じた」「ドロップを味わえる平和な時代に感謝」…。

多くの人が映画とドロップに思いをはせているようでした。

ドロップは重要な小道具 当時の日常を描写

なぜサクマ式ドロップスが映画に登場したのか。
生前の高畑勲監督は2002年に行われたインタビューの中で『当時、私は子どもだったものですから。どれくらいドロップが貴重で、えがたいもので、子どもとしては執着するのは当然なものなんですね。ところが、原作では妹の骨を入れるためにだけ出てくるわけですけれども、それは当然、子どもにとっては大事だったもので』と、より強く印象付けようと登場させたと語っていました。(「火垂るの墓」DVD 映像特典 監督高畑勲インタビュー映像より)
ドロップは高畑監督がこだわった重要な小道具だったことは、当時の制作スタッフも覚えていました。

新潮社を17年前に退社した村瀬拓男さん。

宣伝やスケジュール管理に携わっていました。

村瀬さんは、「制作スタッフの中で、唯一、戦争を知っている高畑監督が、スタッフに当時のことを教えながら制作を進めていました。節子が缶で水を飲んだり、缶におはじきを入れたりする細かなしぐさは、監督が当時、実際に見聞きしたことに基づくものだと思います。小さい子どもが空腹で追い詰められていく状況をどう表現するかは演出家の腕の見せどころです。食料の確保が厳しい時代にドロップの缶を使った表現というのは、それを端的にわからせる方法だったのだと思います」。

そして、当時を忠実に再現するため、戦時中のドロップ缶のデザインを教えてもらうなど会社からの協力があったと明かしてくれました。
村瀬さん
「制作チームは佐久間製菓に取材を重ねていました。会社の担当者から『当時は今ほどドロップは甘くなくおいしくなかったと思いますよ』といった話を聞いた記憶があります。映画の冒頭には、ドロップ缶に入った節子の骨がこぼれる場面もあり、食品を扱う会社としてどう受け止めているのか心配でしたが、会社からの提案で節子が描かれたデザインの缶を商品化するなど、映画全体をポジティブに評価していただいていたと思っています。そういった形で長年のおつきあいをさせていただいていました」
そのうえで、村瀬さんは、今回の反響について次のように話します。
「この作品は、必ずしも反戦や平和の大切さを直接的に伝えることがテーマではなかったのですが、清太と節子が生きて、そして亡くなっていく様子が淡々とではありながら、リアリティをもって描かれたからこそ、戦争の悲惨さを感じ、平和な時代を尊く思う人もいるのだと思います。映画を見て『自分たちもそうした』という人や、戦後生まれであっても節子のまねをしたという人がこれだけいるというのは、監督が狙ったとおりの効果だったと思います」。

映画の舞台の兵庫でも

人々の間で呼び起こされる映画とドロップの記憶。

映画の舞台、兵庫県西宮市に住む土屋純男さんも特別な思いを抱く1人です。

土屋さんは、映画のことを後世に伝えようと、仲間とともに寄付を集め、2年前、記念碑を建てました。
記念碑にはドロップの缶を供えてくれる人も現れ、映画とドロップの関係性を強く感じていたといいます。

みずからも静岡県で疎開生活を送った経験があるという土屋さん。

ドロップへの思いを継承していく決意を新たにしたといいます。
土屋さん
「私が4、5歳くらいの頃、父が月に1回ほど、疎開場所に帰ってくる時にお土産として買ってきてくれたのがドロップでした。あの色がいい、この色がいいと、姉と競って食べたのを覚えています。ドロップは甘いおやつがない時代の唯一の喜びで、あの味とともに過ごした記憶は永遠に残ります。自分の子どもには思い出話とともによく話していましたが、次の世代の人たちにも語り継いでいきたいです」

廃業の佐久間製菓は

人々の間で広がる思い。

会社はどう受け止めているのでしょうか。

横倉信夫社長が、短時間だけつながった電話口で、記者に伝えたのは次のようなことばでした。
「廃業となったのは残念です。苦渋の決断だったので今もつらい気持ちのままです。それだけ大事に思ってもらっているのに廃業となり申し訳ありません。たくさんの声を本当にありがたく思っています」

取材後記

28歳の私(原祢)も幼い頃からドロップに親しみ、節子のまねをしていたひとりです。

今回、多くの人からドロップにまつわる記憶や思い出を聞かせてもらいました。

SNS上でこれだけの反響があったのは、戦時中、厳しい暮らしがあったことや、その中でもドロップを味わうささやかな楽しみがあったことが、映画を通じて多くの人に刻まれていたからだと思います。
会社のホームページには、ことし創業114年を迎えたあいさつの中で『お菓子が誰でも食べられる平和で豊かな社会となった今日まで、ご愛用頂いた沢山の皆様とともに存在し続けています』ということばがあります。

いま、世界では、戦火に追われ、安心して食べ物を食べられない人がいるのも現実です。

子どもたちが笑って甘いお菓子を食べられる世の中でなければならない、そう感じた取材でした。
(追記)
緑色の缶の「サクマドロップス」を製造・販売する「サクマ製菓」は、「佐久間製菓」とは別の会社で、これまで通り営業を続けるとしています。