唯一無二の自己表現 ~小平奈緒さんがたどり着いたもの

唯一無二の自己表現 ~小平奈緒さんがたどり着いたもの
「目標に順位や記録があったとは思うが、それは手段にすぎなくて、目的には唯一無二の自己表現というのがあったように感じている」

2022年10月27日。都内のホテルで引退会見を開いた小平奈緒さん。冒頭のことばは、「単に記録や順位ではなく、もっと先のものを求めて挑戦していたように思うが、それはいったい何だったのか?」という私の質問への答えだ。「唯一無二の自己表現」そのことばは何を意味し、彼女はいかにたどり着いたのか。(長野放送局アナウンサー 田中寛人)

氷上の哲学者

ピョンチャンオリンピックのスピードスケートで日本の女子選手初の金メダリストに輝いた小平さんのことばは、これまでも幾度となく聞いてきた。
“氷上の哲学者”とも称される彼女のことばは、時に叙情的で、時に難解でもあった。
「『私は私である』その『私』をスケートに、氷に、パフォーマンスに乗せることができれば、他の誰でもなく『生きている私』を証明できる」(2022年1月12日 北京五輪前に)
「時は待ってはくれないし、時は戻ってもくれない。だけど、時は待ち望むことができるし、時は進めることもできる」(2022年4月12日 ラストレースを明示した会見で)
そんな彼女に初めてインタビューする機会を得たのは2年前の秋だった。

台風19号が変えたもの

それは信州を襲った台風19号の豪雨災害からちょうど1年が経った頃だった。
インタビューを行った長野市のエムウェーブは小平さんにとっては特別な場所だ。小学生の時にオリンピックを志すきっかけとなった長野オリンピックの舞台であり、ふだんの練習拠点でもある。

そんな思い入れのある場所の近くで、2019年10月、千曲川の堤防が決壊し、濁流が多くの民家や収穫間近だったりんご畑を飲み込んだ。

小平さんは、みずからインターネットを通じてボランティアに申し込み、人知れず泥のかき出し作業などを行った。
最初に訪れたボランティア先はりんご農家。

そこでのできごとが忘れられないという。

りんごの木にきれいな白い花が咲いていた。彼女は笑顔で「良かったですね」と話しかけたが、農家の方の返答に息をのんだ。
「花も咲くし実もつくけど、おいしいりんごになるかは分からないんだよね」
彼女も農家の方と同様、改めて先の見えない不安に襲われたと振り返った。

片付けの最中、水につかった新聞のスクラップや写真を見つけた。大切に保管されていたそれは、長野オリンピックでの日本選手の活躍を伝えるものだった。
「この地域の人たちは長野オリンピックを支えてくれた人たちなんだというのを感じた。オリンピックという夢を見させてくれた地域の方々に恩返しのようなことがしたい」

誰かを応援できるアスリートでいたい

台風の翌年、2020年10月にエムウェーブで行われたシーズン開幕戦、全日本距離別選手権。

彼女が身にまとったレーシングスーツに私たちは驚かされた。白地に赤い大きなりんごがデザインされていたからだ。

後日、その思いを語ってくれた。
「応援される側と表現する側の中に生まれる、何かスポーツが生み出すエネルギーのような感じがしたので、応援を受けるというだけではなく、誰か応援できるアスリートでいたいなという風に思いました」
りんごのスーツで臨んだ女子500メートルで小平さんは見事優勝。

ボランティアの経験は、彼女をアスリートの枠を超えた存在に押し上げる大きな力になっているように感じた。
「気持ちが通うということが本当に今すごく力になっていて、結果だけでは無機質なものになりがちなんですけれども、気持ちが通うことで、人生がより豊かになるというか。そういった意味では遠い存在ではなくて、地域で身近に感じられる存在でいられるという事が大事だと思うので。いろんな人の力をもらいながら、また私からもエネルギーを届けながら、お互いに高め合っていける状況を作っていけたら」
それから2年。足首のケガを抱えたまま臨んだことしの北京オリンピックの結果は、私たち、そして彼女自身が望んでいたものとはかけ離れていた。

それでも涙をこらえながら、前を向いた。
「不格好な姿でごめんなさい。痛みだとか、やるせなさだとかしっかり受け止めて向き合えたのがこの北京五輪だった。もう十分痛みとか苦しさとか乗り越えてきたので、もう一度そういうものから解放された滑りがどこかでできたらいいなと思います」

唯一無二のゴールテープを切るために

それはことし4月の会見で発表された。
「ことし10月の全日本距離別選手権の500メートルを競技人生のラストレースとすることを決意しました」
みずからの意思で、地元信州・長野市のエムウェーブをゴール地点に選んだ。2年前、りんごスーツで優勝を飾った全日本距離別選手権は、シーズンの開幕を告げる大会だ。

通常スケーターは半年近いシーズンの中盤から終盤にかけて精度を上げていくが、小平さんはシーズンの半年前に、この最初で最後の1本にかけると宣言した。

自分に負荷をかけつつ、それでもこの場所でゴールテープを切ると決めた小平さんの覚悟は、時折発することばにも表れていた。
「氷の上で発見を楽しむ時間を積み重ねることに変わりはないが、時間の密度をすごく感じていて重みがある」(10月3日)
「自分の感覚と、氷から受け取る感覚が意気投合してきている。感情の扉が開く隙がないほど夢中になれている」(10月20日)
2022年10月22日、エムウェーブは、長野オリンピック以来だという超満員6000人以上の観客で埋め尽くされた。
会場では両親や多くの知り合いも見守っていたが、レースが終わるまでは感情が動かないよう、あえて観客席は見なかった。

最後から2組目。無心で氷上にブレードを乗せた。

わずか30秒余りに、すべての学びが詰まっていると話していた500メートル。最後は、初めてスケート靴を履いた小学生のころを思わせる、無邪気で、自由で、楽しげな姿でゴールを駆け抜けた。
37秒49。ただ1人の37秒台で有終の美を飾ったラストレース後、ようやく、ゆっくり観客席の一人一人の顔を見ながら手を振った。
「鳥肌を越えて心が飛び出しそうだった」
「長野オリンピックで憧れたこの舞台が、オリンピック以外で、何かそれ以上の景色としてみんなと創り上げられたことが本当に幸せ」
屈託のない、充実感にあふれたその表情から発せられたことばは、これまで彼女が発してきたことばとはまた違う、軽やかさと爽やかさを含んでいた。

たどり着いた唯一無二の自己表現

引退の記者会見で私はもう1つの問いかけをした。

「記録や順位の先にあるもの、小平さんしか見えない景色、その境地には達することはできましたか?」
「スピードスケートを通しては全うできたんじゃないかなと思っている」

「氷上に、またあの空間に私の表現するすべてを描けたと思うし、何よりあの場所にいたすべての人があの空気を作り出してくれていたと思うと今でも心が震える」
2年前、彼女が発した「心を震わせるレース」。このことばにたどり着くまでにどれだけの思いをしてきたのだろうか。

彼女はラストレースを優勝で終えた。しかしその“結果”だけに称賛が向けられたのではない。

信州大学卒業後、所属先が決まらず苦しんでいた姿。

メダルを逃し、悔し涙を見せた2014年のソチオリンピック。

足のケガで不本意な結果に終わった北京オリンピック。
今置かれている状況で必死に最善を尽くそうとする姿、地元で起きた台風被害と真摯に向き合う人間力。

全部ひっくるめて私たちに見せ続けてくれた稀代のアスリートへの惜しみのない敬意が込められている。

そんな競技人生の最後に地元の大観衆と創り上げた歓喜のエムウェーブ。

1人のアスリートの生きざまが呼び起こした周囲の共鳴。

それは「唯一無二の自己表現」と呼ぶにふさわしいものだった。

本当に目指していたゴールにようやくたどり着いた瞬間を、小平さんは彼女らしいことばで語ってくれた。
「まるで誰かが両端でゴールテープを持って待ってくれていたような、そんなゴールでした」

知るを愉しむ

アスリートとしては一つの区切りをつけたが、“唯一無二の自己表現”の探求に“引退”はない。

小平さんは、来年1月から母校の信州大学で特任教授として教べんをとる。
「スケートは自分に多くのすばらしい出会いをもたらしてくれたが、自分の人生はスケートだけにはしたくない。学びを続けるうえでも、これまで経験のない不慣れな場所でも恐れずチャレンジして、知るを愉しみ、唯一無二の自己表現を目指していきたい」
まだ36歳。小平さんは人生の新たなステージで今後どのようなことばを発し、どんな「唯一無二の自己表現」を見せてくれるのか。

彼女の生きざまに魅了された一人として、これからの歩みを見続けていきたいと思っている。
長野放送局アナウンサー
田中寛人
2004年入局
長野県坂城町出身
東京アナウンス室をへて2018年から現所属