大飢きんは当時のソビエトのスターリン政権が引き起こしたとされ、ウクライナの民間団体が今月、1000人を対象に行った世論調査では、93%が「ホロドモールはウクライナ人に対する集団虐殺だと思う」と回答したということです。
ウクライナでは、この「ホロドモール」を今も続くロシアによる軍事侵攻と重ね合わせる人も多く、ロシアに対する徹底抗戦の世論が一層高まっています。
一方、国連人権高等弁務官事務所は25日に発表した声明で、ロシア軍によるミサイル攻撃などによって、南部ザポリージャ州の病院で生後間もない赤ちゃんが死亡するなどウクライナ国内では先月10日以降だけで、少なくとも市民77人が死亡、272人がけがをしたとしています。

ウクライナ 90年前の大飢きんの犠牲者追悼日で徹底抗戦の世論
ロシアが軍事侵攻を続けるウクライナでは26日、90年前に当時のソビエトが引き起こしたとされる大飢きんの犠牲者を追悼する日を迎え、ロシアに対する徹底抗戦の世論が一層高まっています。
ウクライナでは、1932年から翌年にかけて「ホロドモール」と呼ばれる大飢きんで数百万人が犠牲になり、26日、犠牲者を追悼する日を迎えます。


「ホロドモール」とは、1932年から1933年にかけて、ウクライナを襲った大飢きんで、数百万人が亡くなったとされています。
ウクライナ語で「飢えによる虐殺」を意味し、ウクライナでは、当時のソビエトのスターリン政権によって、人為的に発生させられた飢きんだったとされています。
背景には、スターリン政権が当時、農家を強制的に集団農場に編入させる中で、統治していたウクライナの農村地帯から徹底的に食料を没収していたことがあると指摘されています。
ソビエト崩壊後、実態が少しずつ明らかになり、ウクライナ政府はソビエトによるウクライナ人に対する集団虐殺「ジェノサイド」だったと位置づけています。
ウクライナ語で「飢えによる虐殺」を意味し、ウクライナでは、当時のソビエトのスターリン政権によって、人為的に発生させられた飢きんだったとされています。
背景には、スターリン政権が当時、農家を強制的に集団農場に編入させる中で、統治していたウクライナの農村地帯から徹底的に食料を没収していたことがあると指摘されています。
ソビエト崩壊後、実態が少しずつ明らかになり、ウクライナ政府はソビエトによるウクライナ人に対する集団虐殺「ジェノサイド」だったと位置づけています。

「ホロドモール」の記録を伝える首都キーウにある国立の博物館によりますと、「ホロドモール」をめぐっては、これまでに欧米などの18か国がジェノサイドと認めているということです。
一方、ロシア政府は、飢きんはソビエト全土で起きていたなどと反論し、ジェノサイドという認識を否定してきました。
日本政府は「評価する立場にない」とする一方、こうした悲劇が2度と繰り返されてはならない、という考えを示しています。
一方、ロシア政府は、飢きんはソビエト全土で起きていたなどと反論し、ジェノサイドという認識を否定してきました。
日本政府は「評価する立場にない」とする一方、こうした悲劇が2度と繰り返されてはならない、という考えを示しています。
「ホロドモール」を生き抜いた女性は…

当時を生き抜いた102歳の女性は、「当時のような、恐怖に満ちた生活はもうしたくない」と話したうえで、現在続いているロシアによる軍事侵攻が一刻も早く終結するよう訴えていました。
ウクライナ北西部ジトーミル州に住むリュボーフ・ヤロシさんは102歳。
12歳のときに大飢きんに見舞われました。
ヤロシさんは6人兄弟でしたが、妹は餓死し、兄は近くの村で野菜を採ろうとしたところ監視員に見つかり、殴られて死亡したということです。
ヤロシさんは当時の状況について、「私たちは木の葉を食べて、しのごうとしていた。栄養失調で体が膨れあがり、横たわっているだけだった」と話しています。
ある日、小麦の穂をかき集めて家に持ち帰りましたが、監視員に見つかりすべて没収されたとして、「監視員に『なんてことをするの?食べるものは何もないのに』と泣き叫ぶしかなかった」と話し、ソビエトによる厳しい監視下にあったと証言しています。
ウクライナでは、90年前の「ホロドモール」と、ことし2月からのロシアによる軍事侵攻を重ね合わせる国民も多く、ロシアへの徹底抗戦にもつながっているとも指摘されています。
侵攻開始後、ヤロシさんの3人の孫は、ウクライナ軍に従軍し、ロシア軍と戦っているということです。
ヤロシさん自身も、ボランティアで、ウクライナ軍の兵士が戦場で体を覆い隠すことができる服を作る作業に参加しました。
ヤロシさんは、「旧ソビエト時代のような恐怖に満ちた生活はもうしたくない」と話していました。
そのうえで、「戦争が終わるというラジオでの知らせを待っている。その時まで生きていたい」とうつむきながら話し、軍事侵攻が一刻も早く終結するよう訴えていました。
ウクライナ北西部ジトーミル州に住むリュボーフ・ヤロシさんは102歳。
12歳のときに大飢きんに見舞われました。
ヤロシさんは6人兄弟でしたが、妹は餓死し、兄は近くの村で野菜を採ろうとしたところ監視員に見つかり、殴られて死亡したということです。
ヤロシさんは当時の状況について、「私たちは木の葉を食べて、しのごうとしていた。栄養失調で体が膨れあがり、横たわっているだけだった」と話しています。
ある日、小麦の穂をかき集めて家に持ち帰りましたが、監視員に見つかりすべて没収されたとして、「監視員に『なんてことをするの?食べるものは何もないのに』と泣き叫ぶしかなかった」と話し、ソビエトによる厳しい監視下にあったと証言しています。
ウクライナでは、90年前の「ホロドモール」と、ことし2月からのロシアによる軍事侵攻を重ね合わせる国民も多く、ロシアへの徹底抗戦にもつながっているとも指摘されています。
侵攻開始後、ヤロシさんの3人の孫は、ウクライナ軍に従軍し、ロシア軍と戦っているということです。
ヤロシさん自身も、ボランティアで、ウクライナ軍の兵士が戦場で体を覆い隠すことができる服を作る作業に参加しました。
ヤロシさんは、「旧ソビエト時代のような恐怖に満ちた生活はもうしたくない」と話していました。
そのうえで、「戦争が終わるというラジオでの知らせを待っている。その時まで生きていたい」とうつむきながら話し、軍事侵攻が一刻も早く終結するよう訴えていました。
「ホロドモール」追悼で特別展

ウクライナでは、毎年11月の第4土曜日が「ホロドモール」の犠牲者を追悼する日になっていて、この歴史を忘れないようにするため、さまざまな催しが行われています。
首都キーウにある国立の博物館では、ことしがホロドモールから90年の節目になるのにあわせて、当時の様子を記録した写真の特別展が開かれています。
この中では、当時、東部ハルキウなどに住んでいたオーストリア人の男性が、当局の監視の目を逃れて撮影した49枚の写真とともに、撮影に使われたカメラなどが展示されています。
首都キーウにある国立の博物館では、ことしがホロドモールから90年の節目になるのにあわせて、当時の様子を記録した写真の特別展が開かれています。
この中では、当時、東部ハルキウなどに住んでいたオーストリア人の男性が、当局の監視の目を逃れて撮影した49枚の写真とともに、撮影に使われたカメラなどが展示されています。

このうち、手書きで「飢え」と説明が書かれた写真には、道ばたに倒れた人のそばを住民が通り過ぎていく様子が写されていて、飢えで多くの人が亡くなることが日常になっていたことを表しています。
また、死亡した人たちが埋葬された集団墓地を撮影した写真なども展示されています。
ウクライナでは、ソビエト時代に起きたホロドモールと、ロシアによる今回の軍事侵攻を重ね合わせる国民も多くいます。
展示会場を訪れたトカチェンコ文化情報相は、NHKのインタビューに対し「残念ながら今回もホロドモールと同じようにウクライナの国家とアイデンティティーに対する攻撃が繰り返されてしまった。今回の戦争だけでなくホロドモールも知ることが世界に対する大きな警鐘となるだろう」と話していました。
また、死亡した人たちが埋葬された集団墓地を撮影した写真なども展示されています。
ウクライナでは、ソビエト時代に起きたホロドモールと、ロシアによる今回の軍事侵攻を重ね合わせる国民も多くいます。
展示会場を訪れたトカチェンコ文化情報相は、NHKのインタビューに対し「残念ながら今回もホロドモールと同じようにウクライナの国家とアイデンティティーに対する攻撃が繰り返されてしまった。今回の戦争だけでなくホロドモールも知ることが世界に対する大きな警鐘となるだろう」と話していました。