ただ1つの後悔が教えてくれたこと

ただ1つの後悔が教えてくれたこと
あなたの人生で『最大の失敗』は何ですか?

「仕事で間違いをして会社に損害を与えた」
「第1志望校に落ちた」
「試合で取り返しのつかないミスをした」

人生で誰もが多かれ少なかれ経験する失敗や挫折。
今シーズンかぎりでの引退を決断したサッカー、元日本代表の駒野友一選手(41)は、憧れのワールドカップの大舞台で人生最大とも言える失敗をしました。
失意のどん底から、どのようにして立ち上がったのか。
サッカーとひたすら向き合い続けたことで、みずから出した答えがありました。
今、失敗に落ち込んだり、人生に悩んだりしている人たちへのメッセージです。
(ネットワーク報道部 記者 松本裕樹)

23年間のプロ生活 “後悔”としてあげたPK失敗

「後悔する点があるとすれば、やはり2010年ワールドカップでのPK失敗です」
今月13日に開かれた駒野友一選手の引退会見。

23年にわたるプロ生活で、ただ1つの後悔として挙げたのが、ワールドカップ南アフリカ大会、決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でした。
日本が2大会ぶりに1次リーグを突破し、初めてのベスト8がかかった試合でした。

0対0のまま延長戦でも決着がつかず、ペナルティーキック戦となりました。

1人目、2人目と、両チームの選手が成功するなかで、3人目が駒野選手でした。
駒野友一選手
「PKの前に円陣を組んだ時、当時の岡田監督から3人目で蹴ることを伝えられました。過去の試合でも3人目で蹴って成功していましたし、練習でもPKを失敗することはなかったので得意という意識で臨んでいました」
ボールを置いたとき、ゴール左隅を狙うことを決めた駒野選手。

短い助走からボールを蹴る瞬間、ゴールキーパーがわずかに左に動く姿が視界に入りました。

とっさに反応し、ゴールキーパーの手が届く可能性が低い、左上を狙ってボールの軌道を変えたのです。

「うまく足は振りきれた」

蹴った瞬間の感触はよかったものの、ボールは惜しくもクロスバーに当たり、そのまま枠の外へ飛んでいきました。
当時28歳の駒野選手は、天を仰いだあと頭を抱えました。
駒野選手
「両チームで初めての失敗だったのでやってしまったなと。僕自身は、他の選手と目を合わせることができなくて、ずっと下を向いていました。そこからあまり記憶がない」
このあと相手選手が全員ゴールを決め、日本初のベスト8進出はなりませんでした。
同学年の松井大輔選手や、阿部勇樹選手に両脇を支えられた駒野選手は一度も顔を上げることができませんでした。

「普通ではない」チームの広報が感じた異変

当時の試合を複雑な心境でテレビで見ていた人がいました。

駒野選手が所属していたJリーグのジュビロ磐田で広報担当をしていた松森亮さんです。
駒野選手と年齢が近く、プライベートでも仲のよかった松森さんは、今まで見たことのない姿に不安を抱いていました。
松森亮さん
「駒野はどんなに苦しい状況でも感情を表情に出さない選手で、あのように人前で泣く姿を初めて見ました。精神と気持ちが普通ではないと感じました」
松森さんは日本代表が到着する大阪の関西空港まで、ある物を持って車で迎えに行きました。

空港で会った駒野選手は、ペナルティーキックを外したあとと同じように下を向き続けていたといいます。

そこで手渡したのは、試合直後からチームにFAXで送られてきた駒野選手へのメッセージでした。
「胸を張って帰ってきて」

「感動をありがとう!!」
サポーターだけでなく、全国から届いた批判よりも励ましや感謝のことばの数々。

今のようにスマホもLINEもない時代に、300通をはるかに超えていたのです。

チームの事務所のある静岡県磐田市に戻るまでのおよそ3時間、駒野選手は、後部座席で黙々と読み続けました。

その間、ひと言も発することはありませんでした。
松森さん
「車の中で時間があったので、落ち込んでいる本人に少しでもファンの思いが届けばと思ってファックスを渡したのです。一つ一つのメッセージを黙って食い入るように見ていたのが、とても印象に残っています」
駒野選手
「しったの内容もあったのですが『頑張った』とか『感動した』など、励ましのFAXを読んだ時はすごく感動しましたし、これだけの人が応援してくれているんだと実感しました。だんだんと自分の中で少しずつ前を向けるようにはなっていきました」

人とすれ違う恐怖和らげてくれた笑顔

全国から届いたメッセージに勇気づけられた駒野選手ですが、帰国直後は他人とすれ違うことですら怖くなっていました。

日本代表の活動を終えてチームから10日間の休暇をもらい、家族で沖縄旅行に行きました。

ただ、沖縄でも人と顔を合わせるのを避け、ホテルではプールと自分の部屋を行き来するだけ。

前を向き始めていた心と、消極的な気持ちが交差していました。
そんな心の傷みを和らげてくれたのが幼い娘の存在でした。

ホテルの中で過ごす日々にも娘はプールと部屋で楽しそうに遊んで、笑顔を見せていました。

そんな無邪気な姿に、次第に心が軽くなっていったと言います。
駒野選手
「娘は小さかったので父親が何をしたのか状況も把握していなくてずっと笑顔でいるんです。その笑顔に自分も笑ってしまって。ただずっとそばにいて笑ってくれる。これがどれだけ幸せなことなのかと。そしたら、いつまでも悩んでいてもしかたないと。またサッカーやりたいという気持ちが少しずつ出てきました」

“残りのサッカー人生で挽回を”

休暇を終えてチームの練習に合流した初日。

練習場に現れ、黙々と練習を始める駒野選手の姿がありました。
松森さん
「いつものようにひょうひょうとしている駒野の雰囲気だったんです。私も『もう少し休む?』って聞いたのですが『全然、大丈夫です』と口調もはっきりしていました。得意のクロスを上げる練習も続けていました。南アフリカ大会での失敗を今後のサッカー人生で挽回していくという強い決意を感じました」
少しずつ日常を取り戻していった駒野選手は、その後のリーグ戦に復帰。

南アフリカ大会の2年後には、J1のベストイレブンに初めて選ばれるなど活躍を続けました。

日本代表として通算78試合に出場しました。

苦い経験を伝える側に…

その後もJリーグでプレーを続けた駒野選手は3年前(2019年)、当時JFL=日本フットボールリーグに所属していた愛媛県のFC今治に移籍。

その年のJ3昇格に貢献しました。
チームでは、ひとまわり以上離れた10代や20代の選手にみずからの経験を伝えるようになりました。

練習では、経験豊富な元日本代表の周りに選手が集まり、アドバイスに耳を傾ける様子が多く見られました。
駒野選手
「自分の失敗を話すことで、若い選手がミスを恐れなくなってくれたらうれしいと思って、あのPKの失敗も含めて話すようになりました。試合でミスはするものだし、それを恐れてはいけないと。仮にミスをしたとしても、その後の取り組みで挽回できることを自分が話せば、いちばん伝わると思ったんです。それが、僕を育ててくれた人たちへの恩返しになると考えました」
FC今治 MF 三門雄大選手(35)
「ミスをして失点した時、次に失敗しないよう反省して、どう生かしていくのか。駒野選手からたくさん学ばせてもらいました」
FC今治 FW 千葉寛汰選手(19)
「フォワードとして駒野選手のクロスにどう対応するか。偉大な選手から学ぼうと必死でした」

“何度失敗しても立ち上がる” 届いていたメッセージ

今シーズンかぎりでの引退を発表していた駒野選手は、今月13日のホーム最終戦に臨みました。

支え続けた家族もプレーを見守りました。

先発出場した駒野選手はゲームキャプテンとしてサイドバックでプレーし、後半34分まで全力でボールを追い続けました。

手紙を読む駒野選手の長男

試合後に行われた引退セレモニー。

サプライズで小学生の長男が手紙を読み上げました。
駒野選手の長男
「パパからいちばんよく言われたことは『失敗しても立ち上がって、次に向けて努力をしなさい』。何度失敗しても立ち上がって練習して、パパみたいな努力するサッカー選手になりたいです。パパのサッカー人生は誰も経験したことがないサッカー人生で、誰よりもたくさんうれしいこと、つらいことを乗り越えてきたからこそ、今までピッチに立ち続けることができたと考えると、本当にすごいなと改めて感じました」
父の背中をいちばん近くで見てきた長男からのことばに、駒野選手の目からは涙があふれ出ていました。

“失敗しても前向きに”

今でも、駒野さんはあの12年前のペナルティーキックを詳細に語ることは難しいと言います。

それでも最高の舞台での人生最大とも言える失敗に向き合ってきたからこそ、41歳まで現役を続けることができたと明かしました。
駒野友一選手
「あのPK後もチームメートやファンから、すごく励ましのことばだったり、応援して下さっているので、そういう人たちにも成長した自分を見せたいと思っていた」

「失敗をしても前向きに取り組んでいくこと、それはあの経験からみずから示すことができたので、時間はかかるかもしれないけど、どんなときでも、前向きにやっていくことが必要なのだと思います」
ネットワーク報道部 記者
松本裕樹
2005年入局
私は1つ年下で同世代。現役引退は寂しい気持ちもありますが、駒野選手の次の目標の成功を心から願っています