母親のいない部屋で 自宅で看取った最後の5日間

母親のいない部屋で 自宅で看取った最後の5日間
85歳で亡くなった母親。

最後の5日間は、大好きだった自宅で孫やひ孫も含めて、大勢の家族に囲まれて過ごすことができました。

でも、自宅で看取るという選択をするまでに、もっとできることがあったんじゃないだろうか。

振り返るたび、そのことが頭をよぎるのです。

(社会部記者 飯田耕太)

母親のいない部屋で

「お母ちゃんおはよう。電気つけるなー」

ことし8月に母親を亡くした森井礼子さん。

大阪・東大阪市にある、母親・佐千江さんの部屋に入るとき、もうそこにはいない母親に声をかけるのだといいます。

今も母親がいるような気がしてならないからです。

その日の天気のこと、部屋に飾ってある花の水を入れ替えたこと。

そんなささいなことを、ひとつひとつ報告していきます。
「この家に来たら、母がまだいるような感じで。やっぱり1日でも感じておきたいという思いで、毎日ここで過ごしています」

大好きな植木と一緒に

今から8年前。

佐千江さんは、集合住宅の1階にある部屋に引っ越しました。

それまで住んでいた、今は亡き夫が建ててくれた家が老朽化してきたからでした。

佐千江さんは、近くに住む妊娠中の女性の家事を手伝ってしまうほど世話好きで、すぐに友だちを作ってはずっとおしゃべりをしているような、陽気で活発な性格。

一方で「自分が誰かの世話になる」ことは受け付けない頑固さもありました。

だからなのか、80歳を前にしての引っ越しでも、佐千江さんは1人暮らしを選びました。

そんな佐千江さんがその場所を選んだのは、もともと住んでいた自宅から近く、娘や息子が住む場所からも近かったからです。

そして何よりも、大好きな花や植物を住んでいた自宅から植え替えられる庭があったのが決め手でした。

狭くて、風呂もない。

夏は暑くて、冬は寒い。

そんな家でしたが、長年暮らした自宅からの眺めとよく似た景色を見ていられる。

佐千江さんにとっては、居心地のいい新たなわが家でした。
佐千江さんには、礼子さんのほかに長女と息子がいて、孫は8人、ひ孫も12人。

佐千江さんが暮らす家には、いつも誰かが訪れて、笑い声が絶えることはありませんでした。

見つかったがん

しかしことしの2月。

佐千江さんは、大腸がんとすい臓がんを発症していることが立て続けにわかります。

本人は再び元気になることを望みましたが、2つのがんを併発していて、手術ができるような状態ではありませんでした。

また、医師からすい臓がんが見つかったことを知らされた礼子さんたちは、そのことを、佐千江さんには伝えませんでした。

本人が生きる希望を失ってしまうかもしれないと考えたからです。

ただ、それから数か月の間、検査入院を何度かしましたが、貧血の症状は見られても、輸血をすると元気に過ごせていた佐千江さん。
礼子さんたち家族も、すぐに元気を取り戻す佐千江さんを見て、そこまで深刻には受け止めていませんでした。

7月20日、佐千江さんは、また貧血となり検査入院をすることになりました。

新型コロナの感染対策で、当時も思うようにできなかった面会。

このため、礼子さんたちはこれまでの検査入院の時と同じように、SNSを使って佐千江さんとやりとりをしました。

ただ、少しずつ佐千江さんの返信が滞るようになっていきます。

「しんどいわ」

7月20日(水)
「家に着いたからね 冷蔵庫の食べ残しは捨てといたからね 安心して今日ゆっくり寝れたらいいね」(長女)

「ありかとな 助かりました 今玉子ジャガイモたいたの出たけあまり食べ やれなかつわ 窓ぎわて明るいし 今日一日ありかとな」(佐千江さん)

7月23日(土)
「お母ちゃん具合ましか?」(長女)

「少しましかな朝おかゆせんぷたへたよ かんはるわ」(佐千江さん)

7月25日(月)
「おはよう 体の具合はどうですか?夜は寝れてますか?」(長女)

「しんどいわ ご飯少し食べてないよ夜まあかな」(佐千江さん)

7月26日(火)
「お母ちゃん大丈夫?」(長女)

「しんどいわ」(佐千江さん)
佐千江さんとのSNSを通じたやりとりは続くものの、少しずつ減ることば数。

そのうち“既読”が付くことすらなくなってしまいました。

※やりとりは原文ママ

体調の急変

佐千江さんの体調が悪化しているのではないか。

コロナ禍で直接会えないことにもどかしさを感じ始めていたところ、病院から佐千江さんの血圧が急に低下したと連絡がありました。

入院して8日後の7月28日、病院に駆けつけたとき、ようやく会えた佐千江さんの顔色は土気色でした。

ぐったりとベッドに横向きに寝ていて、これまでに見たことのないような姿でした。

新型コロナのせいで直接会って、体に触れて、声をかけることすらできない間に母が弱っていったー。

礼子さんたちは、急に、佐千江さんの“最期の迎え方”を意識せざるをえなくなりました。

このまま、母親の最期に立ち会えないかもしれない。

もし最期が来るのなら、それまで家族として寄り添っていたい。

最後の時間を家族で一緒に過ごしたい、過ごさせてあげたい。

その思いから、礼子さんたちはある選択をすることにしました。

「在宅の看取り(みとり)」でした。

佐千江さんに病院から家に帰ってきてもらい、最後の時間を一緒に過ごせないか。

大急ぎで在宅医療のクリニックを見つけ、退院の手続きを進めました。

入院していた病院側からは、佐千江さんはギリギリの状態のため、家に帰る途中で亡くなるおそれがあるとも言われましたが、礼子さんたちは佐千江さんと「一緒にいること」を選びました。

移動中の車の中で…

礼子さんたちの考えに最終的に理解を示した病院側は、佐千江さんが自宅に帰るためのマイクロバスを用意してくれました。

衰弱する佐千江さんに会った翌日、29日午後のことでした。

マイクロバスには佐千江さんと礼子さん、それに、病院側からは看護師や男性スタッフも乗って、車で40分ほど離れた佐千江さんの自宅に向かいました。
礼子さんは、家に帰っていることを少しでも理解できるようにと、佐千江さんになじみのある場所を通るたびに、声をかけて教えてあげました。

すると、自宅に向かっている途中、佐千江さんはある“心配事”を声に出して礼子さんに伝えてきました。

「家の前に車止まってないやろか。止まってたらマイクロバスを入れるのに申し訳ない。礼子ちゃん、電話して恵美ちゃん(礼子さんの姉・恵美子さん)に車どけるように言うて」

さっきまでいた病院では、苦しそうに息をするだけだった母親。

それが、周りのことを心配して、しかも声を出して話している。

家族の中には反対意見もあった急な退院と自宅で看取るという選択。

礼子さんは、母親にとってはよかったんじゃないかと感じつつありました。

元気だった、その時のままの風景

「まぶしーなぁ」

佐千江さんは自宅の玄関に入る前、うれしそうに言いました。

気付くと、病院で見たときの姿がうそのように、顔色がよくなり、表情も見られるようになっていました。
佐千江さんが家族を驚かせたのは、それだけではありませんでした。

見舞いに訪れた孫が佐千江さんを気遣う声をかけると、仰向けになったカエルのようなポースをとっておどけて見せて、その場にいた人たちの爆笑を誘ったこともありました。

入院するだいぶ前から、大切にとっておいてあった結婚式で夫が着たモーニング。

ことし1月に結婚した初孫に着せることを楽しみにしていましたが、コロナ禍で式を挙げることができませんでした。

だから、孫がそのモーニングを着て佐千江さんの前に姿を見せると、目を見開いてうれしそうに話し始めました。

「そのモーニング、お父ちゃんが近鉄デパートで買うたええやつやから、生地がしっかりしてるやろ」
在宅医療の担当医から「これまで通りの日常生活を佐千江さんと送ってあげてください」と伝えられていた礼子さんたち。

夕方になると仕事を終えた家族が佐千江さんの自宅を次々と訪れ、家の中は小さなひ孫たちも含めて、常に十数人がいるような状態でした。

それは、元気だった頃の佐千江さんをみんなで囲んでいた、その時のままの風景でした。

最期は家族に囲まれて

佐千江さんが自宅に戻ってから、夜になると礼子さんはきょうだいと一緒に介護ベッドの脇で雑魚寝をして、佐千江さんの体調変化を見守りました。

夜になると目を覚まし、痛みがあることを伝えたり、水を飲みたいと訴えたりする佐千江さん。

誰かが起きて、介抱しました。

そして、自宅に帰ってから5日目の8月3日。

前日の夜も痛みを訴え、強い痛み止めを飲んで休んだ佐千江さん。

礼子さんたちが朝起きて佐千江さんを見ると、顔がかなりむくんでいました。

午前9時、訪れた看護師は佐千江さんの最期が近いことを礼子さんたちに伝えます。

礼子さんたちの連絡を受けた家族が、佐千江さんの自宅に次々と集まってきました。

最期は、苦しそうにするわけでもなく、声を出すわけでもなく、静かに息を引き取った佐千江さん。

午前10時25分に亡くなったことを確認したとき、10人ほどの家族に囲まれていました。

家で過ごせてよかった でも…

「思い出に残る大事な時間を、みんなで共有できたこともよかったですし、母が自宅に帰ってきたからこそできたことだと思っています」
こう話す礼子さんですが、佐千江さんを入院させて、体調の変化に気付くことができず、十分に準備も間に合わずに在宅で看取ったことを振り返るとき、いつも“後悔”という言葉が心の中に出てくるといいます。

入院するとき、佐千江さんがぼそっとつぶやいたひと言がずっと心に引っかかっているからでした。

「入院せな、あかんのかな」

あれは、本人の本音だったんじゃないだろうか。

コロナ禍で思うように面会ができないことは分かっていたのに、なぜ入院させてしまったのか。

すい臓がんが見つかったことを最期まで伝えなかったのはよかったのだろうか。

佐千江さんの意思を明確には確認しきれないまま、在宅で最期を看取ることを選択したのは間違っていなかっただろうか。

考えれば考えるほど、何がよかったのか、もっとできることがあったんじゃないだろうか。

そんな風に、自分を責めてしまうのだといいます。
「母は、本当に坂道を転がるように弱っていってしまいました。本人が、まだ気力や体力があるときに、本当のことを伝えるべきだったのかどうか。そのタイミングを逃してしまったから、最後まで、伝えることができませんでした。そのプロセスを振り返ると、どうしても“後悔”という言葉が出てきてしまうことが多いです」

コロナ禍で増える在宅の看取り

最後を迎える家族を、ちゃんと目の前で看取りたい。

家族と一緒に、見送ってあげたい。

今も続くコロナ禍で、礼子さんたちのように在宅の看取りを選ぶ家族が増えているといいます。

佐千江さんの在宅医療を担当した「かわべクリニック」では、新型コロナの感染拡大に伴って、在宅の看取りの中でも、特に、急に看取りを選ぶケースが増えているといいます。
クリニックでの看取り全体の件数は、コロナ禍前の2019年は68人でした。

それが、コロナ禍では、2020年に84人、2021年に89人と2割から3割増加し、2022年は10月末の時点で79人となっています。

さらに、クリニックが在宅医療に関わった期間が14日未満の短期の件数は、2019年には11人だったのが、2020年に19人、2021年には21人と7割から9割も増加し、2022年は10月末の時点で30人に上っているということです。

在宅の看取りを希望する人たちが増えている現状について、クリニックの川邉正和医師は次のように話しています。
「コロナ禍の前だったら面会に行けば、手と手を取り合って接することができていましたし、(痛みや苦しさなどを和らげる)緩和ケア病棟であれば、24時間自由に出入りできるところもありました。

ところが、コロナ禍になって、24時間自由に出入りできないだけでなく、面会もできない。面会できたとしてもタブレット越し、窓越しで、直接、触ることができない。面会が、患者本人だけでなく、家族にとってもつらい時間になってしまう。だから、家に連れて帰りたいという気持ちになっているのだと思います」

“どう最期を迎えるか”共有が困難に

「在宅医療は患者や家族が望んだときが始まりであっていい」と考える川邉医師。

ただ、コロナ禍の看取りでは、どんな風に最期を迎えるかを本人と家族の間で共有することが難しくなってしまっている点を課題として挙げました。

在宅の看取りに限らず、最期をどう迎えるかは、本人や家族が話し合ってそれぞれの意思を確認しながら、合意を形づくっていくことが大切だといいます。
特にがんの場合、患者本人の体調は、最期を迎える3か月ほど前から「だんだん変化」し始め、1か月を切ると「どんどん変化」していくのだといいます。

コロナ禍前は、本人の体調の変化を家族が直接見たり、医療機関からの説明を受けたりして、少しずつ“最期”を迎える心の準備が整えることができていました。

しかし、コロナ禍になって面会することが難しくなると、病院側や本人とのコミュニケーションの機会が減ってしまい、突然「どんどん変化」する時期を迎えることになり、本人と家族の間で合意を作る時間もないまま、在宅の看取りを選ぶケースが増えているのだと川邉医師はいいます。

残された時間が短いと、「家に帰ること」自体が目的になりがちで、患者の希望がわからないまま最期を迎えるのは医療者としても、もどかしい気持ちになるそうです。

また、在宅の看取りを選ぶに当たっては、その地域を担当している在宅の医師を見つける必要があるだけでなく、本人が介護認定を受けている必要があったり、自宅を訪問する訪問看護師やヘルパーを見つけたり、さまざまな手続きが必要となります。

取材した佐千江さんの娘、礼子さんは、ホームヘルパーとして働いていたことから、知識もあり、突然の事態にも関係者に相談するなどして、在宅の看取りを選ぶことができました。

ただ、中には在宅の看取りを選びたくても、手続きが間に合わずに最期を病院の中で迎えざるを得なかったケースもあるということです。

「正解」はない それでも

いつかは必ず訪れる家族の最期。

この冬にも新型コロナの第8波が来ると想定される中、どう備えたらいいのか。

緩和医療が専門で、病院で患者の療養先の調整や訪問診療も行っている筑波大学の浜野淳医師は、家族の最期をどう迎えるかという“目標”の共有に向けたコミュニケーションと、在宅の看取りを選択するのであれば、早めの準備が大切だと指摘します。
「家に帰ることが目的ではなくて、本人や家族がつらくなく、いい時間を過ごせることを目的にした場合、病院でしっかりケアを受けるということも、決して悪い選択肢ではありません。

残された時間がどれくらいかは医療者にもわからないことが多く正解はないと思いますが、それでも自宅に帰るという選択をするならば、医療機関としては、家族の希望をかなえられるような態勢作りが、コロナ禍でさらに重要になってきていると思います。

そして、本人や家族は、最期の時が近づいたときにどんな生活をしたいのかを、あらかじめ共有できていれば、慌てることなく準備ができると思います」

ミカンの木を見つめながら

今も、姉と一緒に母親のいない部屋を訪れる礼子さん。

11月末には、部屋は引き払わなければならないといいます。

どうすれば、佐千江さんにとって、そして家族にとって、納得のできる最期の迎え方ができたのだろう。

礼子さんは、たくさんの思い出が残るその部屋から見えるミカンの木を眺めながら、佐千江さんと過ごした最期の時を振り返っています。

そして、毎回こう言って、部屋をあとにします。

「お母ちゃん、帰るでー。また明日なぁ」
社会部記者
飯田耕太
2009年入局
千葉局、秋田局、ネットワーク報道部を経て現所属
「取材中、母親の声が聞きたくなり用事なく電話しました」