変わり果てたイテウォンの町で 私が出会った“祈り”の付せん

変わり果てたイテウォンの町で 私が出会った“祈り”の付せん
一夜にして多くの若者の命が奪われた、韓国・イテウォン(梨泰院)の転倒事故。

その4週間前、私は偶然、この町を訪れていました。

多くの人を引きつける特別な魅力にあふれた町は今、どうなっているのか。

私は事故翌日の夜から現場で取材を始めましたが、そこで出会ったのは、犠牲者へのメッセージを付せんに書き残していく人々でした。

多様な言語で記されたのは、亡き友への思いや救えなかった後悔、事故を起こしてしまった社会への憤り、そして安らかに眠ってほしいという追悼の願いです。

私は悲しくも優しい祈りの気持ちを伝えたいと、取材の合間、付せんを手に取る人たちに声をかけ続けました。
(政経・国際番組部ディレクター 福井早希)

付せんから浮かび上がる命の重み 犠牲者に向けたメッセージ

私がこの町を訪れた今年10月上旬。

その日はあいにくの雨でしたが、通称「世界グルメ通り」は大勢の人でにぎわい、街角に掲げられた有名なドラマの看板は人気の撮影スポットになっていました。
かつてアメリカ軍基地と隣接していたことから外国人が多く暮らし、海外の文化を楽しめる街、そしてLGBTQフレンドリーで多様性が魅力の眠らない街、イテウォン。

しかし事故翌日の夜に身一つで現場入りした私の目に飛び込んできたのは、ほとんどすべての店が営業を停止し、人通りもなく、音と光が消えたイテウォンの姿でした。

タクシーの運転手に「イテウォンに着きましたよ」と言われてもにわかには信じられなかったくらい、私の記憶にある町の様子とは違っていました。
現場となった坂からわずか数十メートルのところにある、地下鉄イテウォン駅1番出口。

そこに設けられた献花場には花だけでなく、お菓子や韓国焼酎、そして亡くなった方の写真などが供えられ、道路を埋め尽くしています。

中でも目を引くのが、メッセージがしたためられた無数の付せんです。

そばのベンチなどに付せんとペンが置かれていて、誰でも自由に書いて、貼ることができるのです。

一枚一枚を見ていくと、その言語の多様さに驚かされます。

ここイテウォンという土地柄を象徴しているのと同時に、韓国を含む15カ国、156人の若者が犠牲になったという厳しい現実を痛感させられます。
ベトナム語:『(名前)よ。永遠に美しい花でいてね。私と友達になってくれてありがとう』

ノルウェー語:『韓国にはそれほど多くのノルウェー人がいないことを思うと、あなたと話すときは気持ちが楽になって、ちょっとした家みたいに感じていました』

中国語:『発生したすべてのことがあまりにも突然すぎました。こんな形であなたを知ったことを許して下さい』

スペイン語:『イテウォンに残された全ての魂のことを私たちは決して忘れません。みんな、大好きです』

“大好きな韓国で学びたい” コロナを乗り越えたどり着いた国で

日本語のメッセージと菊の花を供える女性を見つけ、声をかけました。

語学留学のため、今年6月に岡山からやってきたという23歳の日本人留学生です。
したためたのは、事故で亡くなった日本人女性、冨川芽生さんと小槌杏さんに宛てたメッセージ。

2人との面識はありませんでしたが、自分の境遇と重ね合わせてしまう部分が多く、手を合わせに来たといいます。
追悼に来た日本人留学生
「私も冨川芽生さんと同じタイミング(今年6月)で韓国に来たので、ニュースを見て驚きました。自分もそうなので分かるのですが、コロナでずっと来られなかった分、留学をすごく楽しみにしていたと思います。韓国が好きだからこそ、この国でかなえたい夢がいっぱいあったと思うので言葉になりません」
韓国の文化や音楽が好きで、自らの意志でこの国にやってきた若者たちを、韓国の人々も温かく受け入れていました。

私が取材現場で見つけたのは、韓国人の女性から冨川さんに宛てたものと思われる手紙。

冨川さんが韓国で頑張っていた様子がぎっしりとつづられ、しばらくその場から動けなくなりました。
「めい、こんにちは!○○お姉ちゃんだよ!これからやりたいことがたくさんあるからと言って、いつも2~3時間しか寝ないで一生懸命に生きる君を見ながら、誇らしくもあり、素晴らしくもあり、いじらしくも感じていたよ。そんなあなたの未来が気になっていたけど…もうこれ以上会えなくなって、本当に悲しく胸が痛い。素敵な思い出を作ってくれてありがとう!忘れないよ!」

“自由に踊りたい” イランから留学の夢かなえた55日後の悲劇

一人の女性の写真を持参したのは、イラン人留学生のマフルさん(26)です。

今回の事故で、同じ故郷から来た5人の友人を失いました。

イランは韓国以外で最も多くの犠牲者が出た国です。
写真に映っていたのは親友のリヤンさん(24)。

事故に巻き込まれたのは、韓国に来てわずか55日目の出来事でした。
2人はイランにいた時から一緒に韓国語を勉強していた間柄で、リヤンさんの家族が韓国にいないため、警察からマフルさんの元に身元確認の要請が来たといいます。
マフルさん
「リヤンは韓国への情熱にあふれた友達でした。幼い頃から韓国ドラマを見ていて、独学で勉強していた韓国語がすごく上手でした。趣味はK-POPのダンスを踊ることで、ずっと一緒に踊ろうねと話していました。本当に才能豊かで、ポジティブな雰囲気を持った子でした」
リヤンさんはダンスが大好きだったにも関わらず、厳格なイスラム体制のイランでは、女性が公の場で踊ることは許されませんでした。

自由に表現できる環境に憧れていたリヤンさんにとって、韓国に来ることは夢だったといいます。
『愛するリヤンは自分の人生を愛する子でした。天国では誰からも抑圧されずに、自由にダンスを踊ってほしい』

あの時に行動さえしていたら…後悔にさいなまれる男性

夜9時過ぎにやってきた20代の韓国人男性が付せんに書いたのは「申し訳ありません」ということば。

実は彼自身もあの日、イテウォンに来ていた1人でした。

事故が起きる20分前に異変を感じ、友人とともに現場となった坂近くの飲食店に逃げ込み、間一髪で難を逃れたといいます。
「僕は普段も梨泰院に頻繁に来ているので、いつもと違うと感じました。ですから友達にも『今日は本当に危険だよ』と言ったんです。そして店を出たところで事故を知り、とっさに駆けつけようとしたのですが、目の前で『近づくな!』と言われたので近寄ってはいけないんだなと思いました。でも今思うと、それは間違った判断でした」
あの時、ここで目の当たりにした悲惨な光景。

一瞬の出来事だったにも関わらず、今も目に焼き付いて離れないといいます。

事故後、1度は会社に出勤して日常生活に集中しようと思ったもののうまくいかず、心理カウンセラーの予約を入れたと明かしてくれました。
『私がためらうことなく駆けつけて心臓マッサージをしていたら、1人の命だとしても生かすことができたのに。勇気を出せず申し訳ありません。危機を認識した時、みんなに切実に叫んでいたら、このような事態は起きなかったはずなのに。自分自身がとても恥ずかしいです』
現場にライターを持参し、メッセージと共に供えた男性もいました。

この事故で命を落とした友人が大好きだったのが、タバコだったのだといいます。
「普段は静かな性格の子でしたが、僕といる時は明るい友達でした。事故にあったことは、彼の両親から連絡をもらって知りました。僕の誕生日が11月なので、数日前に電話もしたんですけど…。次に会う約束もしていたのに、すごく会いたいです」
その友人は、ふだんからイテウォンによく来るわけではなかったといいます。

ですがここ数年、ハロウィーンが盛り上がりを見せる中、当日をイテウォンで過ごすことを楽しみにする若者が増えていきました。

友人もまた、そんな1人でした。
『僕の誕生日の1か月前に、プレゼントは何が欲しいかと聞いてきたお前がすごく恋しいよ。来世でも俺の友達になってね。時々夢で会いに来てくれよ。すごく愛している』

悲しみや苦しみを分かち合う…韓国で追悼に付せんが使われるわけ

付せんを用いて死者を悼むのは、これまでも韓国でたびたび見られてきた光景です。

2014年にセウォル号沈没事故が起きた際も、多くの人々が思い思いに言葉をしたためました。

付せんは一定期間が経過した後に回収され、捨てられることなく、今もソウル記録院という施設で保管されています。
イテウォンでも日を追うごとに増え続ける、色とりどりの追悼メッセージ。

誰でも自由に使えるようにと置かれた白紙の付せんはいつもあっという間になくなってしまうのですが、気がつくと補充されています。

現場で取材を続けていると、毎日来ている男性がいることに気付きました。

ボランティアのカン・ウォンギュさん(姜元圭・66)です。
カンさんは事故が起きたことを知るといても立ってもいられなくなり、翌日から現場で毎日、付せんを補充したり、付せんや花を整理したりするボランティアを続けています。

取材したこの日は、午後1時の時点ですでに1000枚の付せんを補充したところだと教えてくれました。

付せんの多くは寄付されたものだといいます。

韓国の人々が追悼の思いを付せんに託すのはなぜなのか。

カンさんは、事故を受けて多くの人々が胸に抱えている悲しみや苦しみを分かち合うことが重要なのではないかといいます。
「悲しい気持ちは分け合わないといけません。文章を書くだけでも結果として、多少なりとも自分自身にとって慰めになるのだと思います。あとは友達が亡くなったりしていたら、友達に言い残した気持ちを書いて、もう会えないけどあの世でまた会おうね、と伝えたりとか。そして今後遺族が来られた時には、大勢の市民たちが気持ちを一つにして追悼したというこの雰囲気が少しでも心の慰めになれば良いなと思います」

“安全不感症”を克服せよ 韓国社会の叫び

私は事故発生翌日から毎日現場に通いましたが、朝早くから深夜遅くまで、追悼に訪れる人が途切れることは一度もありませんでした。

長い間目をつぶって祈る人、静かに涙を流す人、そして大きな声で号泣する人。

あの日現場にいた人もいなかった人も、大切な誰かを失った人もそうでない人も、今回の痛ましい事故を“わがごと”として捉えていることが伝わってきます。
本格的な事故の原因究明はこれからで、今はまだ、多くのことが分からないままです。

それでも取材に応じてくれた韓国の人々は、2度とこのような事故を繰り返さないために「安全不感症を克服しなければならない」と口々に話しました。

『安全不感症』とは、安全に対する危機意識が低いこと、もしくは危険だと察知しても何の対策も講じないことなどを指す韓国の言葉です。

2人の子を持つ30代の母親は「セウォル号事件をきっかけに安全に対して韓国は少し敏感になったと思っていたけど、まだ足りなかったのだと思う。『私は大丈夫』『僕に危険なことは起きない』と考えてしまったのだろう」と語り、必ず政府が対策を講じてほしいと子どもの手を握りながら強調しました。

最後に、1人の大人が書き残したメッセージが、まさにここに来る多くの人の気持ちを代弁しているように感じました。

追悼、そして安全な社会を願う祈りが、付せんを通じてイテウォンの町から広がっています。
『みんな!どんなに怖くて、息が詰まり辛かっただろう。胸が痛い。君たちが思う存分遊んで心を解放できる社会を作ってあげられず、むしろこのような悲劇を与えてしまい申し訳ない限りだ。申し訳ない、ただ申し訳ない。君たちの悲しみを決して忘れないよ』
政経・国際番組部ディレクター
福井早希
2011年入局
福岡局、ニュースウオッチ9などを経て現職
日韓関係や韓国情勢を中心に取材