“大丈夫を伝えたい” 私たちも不登校だった 56人のその後

“大丈夫を伝えたい” 私たちも不登校だった 56人のその後
昨年度の小中学生の不登校の数は24万4940人。過去最多だった前の年度から、さらに4万9000人近く増えました。不登校の子どもやその親は孤立し、苦しんでいることが少なくありません。

そうした中、不登校を経験した人たちの「その後」を伝えることで、当事者の不安や苦しみを和らげたいと、事例集を作り続ける夫婦がいます。事例集は「大丈夫、学校は人生の一部でしかない」と伝えています。
(横浜放送局記者 佐藤美月)

“雲の向こうはいつも青空”

「雲の向こうはいつも青空」は、不登校やひきこもりを経験した人や、その親などの体験談がまとめられた事例集です。
不登校になったきっかけ、そしていまにいたる人生が、インタビュー形式で綴られています。
事例集を作ったのは、川崎市の金子純一さんと、金子あかねさんの夫婦です。

2人の長男も、9年前、小学3年生のときに不登校になりました。

長男には、字を書くことが難しい学習障害があり、漢字のドリルには多くの「不正解」を意味する付箋がつけられ、同級生にからかわれていたといいます。

そして小学3年の夏休みの終わりに「漢字のない世界に行きたい」と号泣し、学校に行けなくなってしまいました。
金子純一さん
「最初は頑張って学校に行ってみようと彼を励ます方向で支えようとして、学校に戻すという選択肢しかなかったんです。ただどうしても、やっぱり彼はいけないって分かったとき、手詰まりになって。本当にどうしようっていうのが分からなくなってしまった」
このまま、学校に通えず大人になったらどうなってしまうのか。
インターネットや書籍などで調べても、著名人の体験談以外は、情報も少なく、不安で悩み、孤立したといいます。

そんな2人が行き着いたのが、人づてに不登校の経験者を探し、話を聞くことでした。

当事者が語る、不登校の“その後”

金子さんたちが話を聞いた人の1人、千葉県松戸市の海老原千紘さんは、3回の不登校を経験しています。
初めて学校に行けなくなったのは小学6年のとき。

卒業間近のある日、担任とのトラブルをきっかけに学校に行けなくなりました。当時は、うまく笑えなくなってしまったといいます。
その後、同じ小学校の同級生が進学しない少し離れた中学に入りますが、いじめにあい再び不登校に。

さらに、中学2年に上がるタイミングで私立の学校に編入しますが、寝ても覚めても強い疲労感が取れなくなり、ついに家から出られなくなりました。
海老原千紘さん
「学校帰りの電車のホームで、何本も電車が通り過ぎるのをぼんやり見ていて、気がついたら時間が経っていて。そういう日を繰り返してだんだん行けなくなりました。そこからは地獄でした。寝ているか、起きてベッドの上で泣いているか。食べ物も食べられなくなって、本当に死にたくて、そればかりを考えているんですけど、葬式代が高いのも分かっているので、死ねない」
そんなとき、海老原さんのもとを訪ねてきてくれたのが、以前通った公立の中学校で話を聞いてくれた相談員の佐々木瑠美子さんでした。

佐々木さんは、明るく、相手を否定する発言をしない人でした。いつも「そのままでいいんだよ、大丈夫、大丈夫」と、声をかけてくれたと言います。

佐々木さんが手作りして持ってきてくれた杏仁豆腐を食べ、涙が止まらなくなった海老原さん。佐々木さんは、そんな海老原さんの背中をさすりながら「大丈夫、大丈夫だよ」と声をかけ続けてくれたといいます。
海老原千紘さん
「不登校になると、大丈夫って言われなくなるんです。何度、学校に登校しようと思ってもだめで、こんな自分の姿を見て、失望されるかと思ってたんですけど。佐々木さんは変わらなくて、本当に安心しました。それからご飯が少しずつ食べられるようになりました」
その後、佐々木さんが紹介してくれたフリースクールに通うようになり、不登校の経験を受け入れてくれる人たちにも出会って、次第に元気を取り戻していった海老原さん。通信制高校から大学に進み、夢だった看護師になりました。

海老原さんは、看護師として仕事をする一方、自らの経験や知識をいかし、不登校の子どもの力になりたいという気持ちが強くなりました。そしておととし、千葉県内の中学校の養護教諭に転職しました。

いま、海老原さんが力を入れているのが、学校へ行くための小さなきっかけ作りです。

自宅から保健室の先生と話せる「オンライン保健室」。

さらに、ほかの生徒がいない時間に開く「不登校の子どもの教室」など、さまざまな取り組みをしています。
さらに、学校の外で、不登校の子どもが気軽に通える「日曜教室」も開くなど、不登校の子どもと、多層的なつながりを作ろうとしています。
海老原千紘さん
「不登校は充電期間ってよく言うけれど、それは本当で、充電すれば進めるんです。いまは自分が普通じゃないと思うかもしれないけれども、普通なんてないし、自分を諦めないでほしいと思います」

56人のその後

海老原さんをはじめ、金子さんたちがこれまでに話を聞いた人は56人。
フリーターを経て就職し、3人の子どもの父になった人。

ダンスを通じて子どもたちに表現する大切さを教えている人。

ひとりひとり、状況は違いますが、悩みながらも周囲に支えられ、それぞれの人生を歩んでいました。
金子純一さん
「不登校の時期があったけど、それはその人の人生の一部でしかない。不登校になったから、もうその先がないというような心配は、すごく少なくなってきています」
金子あかねさん
「大丈夫なんだなっていうのは、本当にいろんな方の話を聞くたびに思うことだし、どなたの話を聞いても、支えてくれる人や支えてくれる言葉っていうのがあって、その人がその人らしく生きていけるんだなって思います」

「大丈夫だよ」と伝えたい

17歳になった金子さんの子どもも、通信制高校に通いながらアルバイトに挑戦するなど、自発的にさまざまな経験を重ねています。

金子さんたちは、これからも事例集を発行し続けることで、同じような不安を抱えている子どもや親たちに、少しでも安心を届けたいと考えています。
金子純一さん
「伝えたいことは、やっぱり“大丈夫だよ”っていうことですね。いろんな例を知れば知るほど、安心と勇気につながるはずなので、1人で抱え込んで悩んでしまうと、なかなかいい方向に考えがいかないと思うんですけど、一人でも多くの例を知ることで安心と勇気を得ていただきたいなっていうふうに思ってます」
金子あかねさん
「いろんなかたがいてそれぞれ懸命に生きてるんだっていう、その事実を知るだけでも全然違うと思うんです。私も苦しかった時期があったんですけど、そういうかたに読んでいただいて、視野を広げてもらいたいです」

いま、学校に行けなくて苦しんでいるあなたへ

金子あかねさん
「周りの人に心配かけたくないと思って、すごく我慢してるんじゃないかと思うんですよ。でも、誰でもいいから、本当にちょっとでも、いま苦しい、学校行きたくないって言ってほしい。言っていいんだよっていうのを伝えたいです。一人で悩まないでほしいです」
金子純一さん
「いま、目の前には見えないかもしれないけど、必ず味方がいるっていうことは伝えたいと思います」
海老原千紘さん
「私も不登校のとき、死にたいとか、生きている意味ないって思っていたけど、いいこと、あったよ。どうにかなった。何度も不登校になる自分は普通じゃないって思っていたけど、普通なんてないし、自分が普通。本当に何があるか分からないので、自分に諦めないでほしいと思います。自分を応援したり、ありのままを受け入れてくれる人を大事にしてほしいなと思います」

わが子の不登校に悩む親たちへ

金子あかねさん
「本当に難しいんですけど、まずは、子どもは学校に行きたくないということを、一度受け止めてほしいです。しった激励しても、子どもは心を閉ざしてしまうだけなので。結局コミュニケーションをとれなくなるので、まずはいったん受け入れてほしいなと思いますね。そこからゆっくり考えていこうよとお伝えしたい。子どもが不登校になると、母親が周りから責められることも多く、八方塞がりになって私も非常にしんどくて孤独でした。この事例集を読んで、自分だけじゃないなっていうことを感じ取ってほしいし、視野を広げて周りの人たちと、つながっていただきたいなと思います」
金子純一さん
「お父さんたちに向けて言いたいのは、情報をいっぱい取ってくださいということです。情報の少なさから、不安が不安を呼んでしまう部分もあるので、いろいろな例を知れば知るほど不安は減って、安心の方が増えていくので、情報を取ってくださいと言いたいですね」
横浜放送局記者
佐藤美月
2010年入局
甲府局、経理局を経て2021年7月から横浜放送局、川崎市政担当
児童福祉や教育など、子どものウェルビーイングをテーマに取材