「さりげない日常をより深く」哲学者/小説家・千葉雅也さん

「さりげない日常をより深く」哲学者/小説家・千葉雅也さん
ことし3月に出版された哲学書がいま、10万部を超えるベストセラーとなっています。『現代思想入門』という、一見とっつきにくいように思える本が、なぜ読まれているのか。著者に話を聞くと、閉塞感を抱える人にヒントを与える言葉の数々がありました。
(宇都宮放送局記者 川上寛尚)

いま響く「逸脱」や「遊び」の心

本の著者は、哲学者で小説家の千葉雅也さん。
立命館大学大学院教授で、20世紀半ば以降のフランスの現代思想を専門とする哲学者です。

ツイッターで7万人余りのフォロワーに向けてみずからの日常を毎日のように発信。小説家としても活動し、芥川賞候補に2度選出されるなど、その言葉が注目されています。

そんな千葉さんが、ことし発表したのが、1960年代~90年代ごろにかけ、主にフランスで展開された思想をまとめた『現代思想入門』です。
千葉雅也さん
「現代思想の中に、今こそ役に立つ思想、読み直す価値があると考えました。そのスーパーヒーローと言える、デリダやドゥルーズ、フーコーといった面々をコンパクトに説明する。彼らが共通して言っているのは、秩序から“逸脱”することや、自由や余白、それに“逃げる”ということ。そういう価値を伝えているんです」
現代思想が伝えるのは「逸脱」や「遊び」の心だという千葉さん。

著書が反響を呼んでいるのも、こうした少し前に世界で流行した考えが、いまの読者に新鮮に響いたからではないかと考えています。
千葉雅也さん
「思った以上に何か閉塞感を感じている人がいて、新しい生き方のヒントが欲しいと思っているという事なんでしょうね。特にいまの若い世代には、世界はかなりシビアで、逃げられる場所なんてないんだっていうような、冷え冷えとした感覚がある。しかし、ある種いいかげんな適当なところがあったっていいはずで、かつての古き良きというか、自由を求める理念みたいなものが見直されているのかなと思います」

孤独を感じている人へ

過剰な社会の秩序化に疑問を投げかける千葉さん。本を書くにあたり、特に意識して思いを込めた読者がいるといいます。

それは「こうでなければならないと感じ、孤独を感じている人たち」です。
千葉雅也さん
「よかれあしかれ周りに適応してうまくやっていくという価値観が強くなっている中で、何かちょっと違うなという感覚を持っている人たちに訴えかけたいと思ったんです。孤独を感じている人に、常に自分に正直であってほしいと言いたかった」
違和感を感じながらもその考えに蓋をし、周りにあわせて生きている孤独な人たち。

そうした人に、自分の中だけに流れる時間を「信じる」ことを、千葉さんは語りかけています。
千葉雅也さん
「人は集団的に暮らしているわけですから、確かに自分を抑えなきゃいけない部分もあります。けれども、いまはそれを抑えつけすぎている。社会全体が何のトラブルも起きないよう、スムーズでツルツルにしていく方向に進んでいると思います。しかし、小さな他者性を認め、凸凹していても成り立つのが、本当に多様な社会ではないでしょうか。ですから周りにあわせるだけではなく、自分の中だけに流れている時間軸を生きることが大切だと思うし、僕は僕の仕事を通して、そのことに気づいてほしいという活動をしているのだと思います」

さりげない日常をより深く

一方、哲学というと「難しくとっつきにくい」「自分とは縁遠いもの」と考える人もいるかもしれません。

そうした人に向けて千葉さんは、哲学は「日常の中に隠されているもの」だと伝えてきました。
千葉雅也さん
「哲学者が考えていることを具体的に自分の経験に照らしてとらえたら、必ず生活へのつながりが出てくる。日常の中にも深い問題が隠されているし、反対に、深い問題にも日常は隠されてるんですよ」
例えば〈他者〉について考えた、デリダやレヴィナスといった哲学者たち。彼らの考えには、喫茶店で友人と向かい合った時に触れることができるといいます。
千葉雅也さん
「例えば喫茶店で、昔よく会っていたんだけど最近あまり会っていない友達と久しぶりに会った時の、ちょっとギクシャクしてるような、微妙な感じみたいなものがあるとしますよね。そこでは、いま相手が自分に対して言ったことをイエスというべきか、または返事をしないで流しておくべきかなど、すごく複雑で豊かなことが起きているわけです。そして、実はそれを掘り下げて考えていったら、そのまま、レヴィナスとデリダになるんですよ」
さりげない日常の問題を掘り下げること。その先に哲学との出会いがあるのです。
千葉雅也さん
「哲学というとやっぱり遠くて難しいものと思われる。確かに実際難しいわけです。ですが『人生とは』とか『愛』『正義とは』みたいな、大きなワードに哲学を結びつけるのがよくない。自分の生活の中にある具体的に気になるような場面に結びつけて考えることが大事です。さりげない日常をより深く生きる。そのために、日常と哲学はすごく自然に行き来できると思います」

“おわす”

さらに千葉さん、実際に現代思想的な考えを日々の仕事への向き合い方に活用する方法も教えてくれました。
千葉雅也さん
「例えば“有限性”は、僕の仕事の重要なキーワードのひとつです。人間は有限ですから、例えば僕で言えば、哲学を極めるといったって極められない。だから僕は僕にできる範囲で、身体的限界の中でできることをやる。疲れちゃったらそれ以上できないし、休みを取ればいい」
有限な人生の中で、時には休みながら、ひとつひとつできることをやっていく。いわば、ライフハック(仕事術・生活術)を現代思想から読み解くことができるといいます。

千葉さん自身も、出身の栃木県の方言で「終わらせる」という意味の「おわす」という言葉を、心のどこかに置いているそうです。
千葉雅也さん
「まさに有限性の栃木的響きは“おわす”ですね。とにかく一個、一個“おわす”わけです。ひとつひとつの仕事というのは区切って、その都度、自分の限界を認めていくということ。高いレベルに可能性を広げていくためにこそ、逆説的ですが一度立ち止まって限界と向き合うことが必要です。これはいろんな人が、いろんな場面で使える考えだと思います」

書けることを広げていきたい

近年は哲学者としてだけでなく、小説家としても活動する千葉さん。

初の小説『デッドライン』は野間文芸新人賞に、去年発表した『マジックミラー』は川端康成文学賞を受賞しました。その言葉は、文学の分野でも高い評価を受けています。
千葉雅也さん
「もともと言葉を使うのも、論議をきっちり立てるとかっていうのは自分の感じじゃないんですよ。哲学者ではありますが、実は純粋論理的なタイプじゃなくて。そういう意味で、風景を見たり、今感じる肌の温度の感じとか音の入ってくる感じとか、そういうことに注意を向けて、そこから広がってくる文章世界ってどうなんだろうって小説を書いていったら、おもしろくなってしまった感じですね」
小説を書き始めて、自身の活動が次のフェーズに移ったと話す千葉さん。最後にこれからの抱負を語ってくれました。
千葉雅也さん
「簡単に言えば、自分にかかっている制約を破るというイメージを持っています。それは自分にとっては書けるものを広げることです。あとは偶然に任せようかなと。何かやりたくなってきた時っていうのは、自分の中で無意識のいろんな文脈が整って来た時で、それは言葉にしようとしてもなかなかできない。でも、何か心身がそういう方向に向かうんだとしたら、そこにはしかるべき理由があるんだろうと。そうやってこれからも取り組んでいきたいと思います」
宇都宮放送局 記者
川上 寛尚
2015年 入局
宇都宮局で文化・芸術分野を主に取材