あす、すべてが終わってしまう前に ウクライナ画家が描く風景

あす、すべてが終わってしまう前に ウクライナ画家が描く風景
激しい戦闘が続くウクライナから避難してきた23歳のアーティスト。滋賀県にある信長ゆかりの寺に来た彼女は、2か月の間に7枚の風景画を描き上げた。表現の場を求めた異国で、作品はこれまでの「白黒」から「カラー」へと変わった。そこに込めた思いとは。
(彦根支局記者 藤本雅也)
女性の名前はマリア・ルイーザ・フィラトヴァさん(23)。

ウクライナの南東部ザポリージャ出身で、8月下旬から滋賀に滞在している。

ニュースにもよく出てくる原子力発電所がある地域で生まれ育った彼女は、両親と暮らしていた。ロシアの攻撃が激しくなる中、ことし6月、故郷を離れたくないという両親を残し、隣国スロバキアとの国境に近い西部の街に避難した。

その直前、友人を介して「アーティスト・イン・レジデンス」という取り組みが日本で行われることを知ったという。

複数のアーティストたちが、ある土地に一定期間滞在し、共同生活をしながら作品をつくる取り組みだ。

企画したのは、滋賀県の北部、長浜市にアトリエを構えるアーティスト・西村のんきさん(65)。

教員を退職したあとに、ポーランドでアート作品を作った経験があり、海外のアーティスト仲間が多い。
コロナで取りやめていた「アーティスト・イン・レジデンス」を3年ぶりに再開することにした。

すると、ロシアによる侵攻のあおりを受けて、表現の場を求めるウクライナの複数のアーティストから「日本に来たい」と申し出があったという。

ルイーザさんもその1人だった。

ウクライナのアーティストの中には、祖国が置かれている状況を世界に訴えるため、被害を受けた人たちや破壊された建物など直接的な描写で表現する人が少なくない。

ルイーザさんが送ってきた申請書に西村さんは心動かされたという。
西村のんきさん
「彼女は、『戦争が始まる前に見た景色』を描きこむことで、戦争で破壊されていく自然や、損なわれてしまったものだけれども、自分の心の中に残っている景色を描き続けていきたいと書いていたんです。その中にすごく平和を求める意識、みんなの心に訴えかけるものがあるなと思い、ぜひ来てもらいたいと思ったのです」
ルイーザさんは、韓国やポーランドからのアーティストとともに滋賀に来ることになった。

10月22日から織田信長ゆかりの近江八幡市の寺院「浄厳院」で開く展覧会には、日本の作家の作品とともに、ルイーザさんの絵も並ぶ。

最初に描いたのは「ふるさとの守りたい景色」

滋賀でルイーザさんが最初に描いたのは、縦85センチ、横120センチあるこの油絵。
「私の窓からのザポリージャの夕焼け」

幼いときから両親と住んでいたマンションの9階から見える風景だ。

ウクライナを流れる大河のドニプロ川。

その川にかかる立派な橋。

そして淡い茜色とブルーで描かれた夕焼けが印象的だ。
絵の具、パレット、絵筆はすべてウクライナから持ってきたものだ。

ルイーザさんは、この絵を描くことを決めた理由を、こう話す。
ルイーザさん
「あれは3月、春だった。何が起こるかわからなかったから外にも出ず、窓からの景色を見ていたの。ある日、ふと外に出たときに、「強い光」と「色」に感動したの。外は怖くて暗いものだと思っていたけれど、出てみたら何もかもが美しかった。私が見ているこの景色は、安全であってほしかったし、この風景が永遠であってほしいものだった。守りたい景色だったの」

「白黒の人物画」から「色のある風景画」へ

私(記者)は、ほぼ1か月にわたって、彼女のアトリエを訪ね続けた。

ある日、彼女が意外なことを話し出した。
優しい色使いや穏やかなタッチで風景画を描き始めたのは、“戦争”が始まった後だというのだ。

それまでは人物を被写体としたポートレートが中心で、すべて「白黒」。

「色のある風景画」を描くようになったきっかけを彼女はこう話す。
ルイーザさん
「以前は、風景画は古くさくて、退屈だと思っていたの。そして私は白黒で描くことが好きだった。でも、どこかで色を使って描いてみたいとも思っていたの。“戦争”が、私の心を解放したの」

「なぜなら、あす、すべてが終わってしまうかもしれないから。だから今これをやらなきゃって。風景画を描き始めてからは、明るく、優しい色を使っているの」

「すでに手にしているものには ありがたみを感じないのね」

もう1つ、ルイーザさんの話で印象的だったのが、日本に来た直後は、なかなかキャンバスに向かうことができなかったというのだ。

ふるさとに残した家族や戦闘のことを思い出すと、怒りや悲しみなど様々な感情が襲ってくるためだ。

そんな彼女に、安らぎを与えたのが、滋賀の田園風景だった。

彼女は、展覧会が開かれる「浄厳院」がある近江八幡市や、身を寄せているアトリエがある長浜市をよく散歩していた。

赤いカバーのスケッチブックを小脇に挟み、お気に入りの音楽を聴きながら、1時間ほど歩き、描きたくなる”その時”を待つという。
ルイーザさん
「歩くとほっとするの。ああ、なんて美しい川だろう、なんて美しい家だろうとか、音楽を聴きながら、ああ、きれいな植物だわって。そして、絵の構図を考えて、帰ってきて、描き出したりしているわ」
日本で描いた7枚の油絵のうち、5枚は田んぼが描かれている。
濃い緑色の山を背景に、黄金色の稲穂の根元が残った田んぼ。
地平線と規則正しい畝の列。
ルイーザさん
「幾何学的な構図にとてもひかれるの。ウクライナにも小麦畑があるし、どこか似ているところがあるから」
ふるさとが攻撃を繰り返し受ける中、なぜ、戦闘と関係のない『風景画』なのか。

彼女は静かにこう続けた。
ルイーザさん
「私は、ずっと守りたい、そして残したい風景を描きたいの。自然は永久に変わらないし、終わらないものだと考えてきたけど、今は、全くそれが違うことを知ったの。私たちは、すでに手にしているときにはありがたみを感じないけれど、それを失ったときに初めてわかるのよね」

日本に慣れ始めたが祖国では…

来日して1か月。

ルイーザさんは、滋賀での暮らしや創作活動にも慣れ始めていた。

しかし、祖国での戦闘は続き、事態は刻一刻と変わる。

9月末、プーチン大統領が彼女の出身地ザポリージャ州を含む4つの州の併合を一方的に宣言。

10月に入りロシアからの攻撃が激しさを増し、彼女の両親が暮らすマンションの近くにも12発の砲弾が落ちた。

ふるさとにとどまり続けていた両親も、首都キーウ近郊への避難を余儀なくされたという。
1週間ぶりにビデオ電話で話した母親は、防空ごうでの生活や避難先でみつけた楽しみのことなど、数日のうちに経験したことを堰を切ったように話し始めたという。

日本にいる自分のことも気遣ってくれたが、「いろいろな感情が交じっているのだと思う」とルイーザさんは心配そうに話した。

遠く離れた日本で暮らすうちに、ふるさとへの思いは日増しに強くなっているという。
ルイーザさん
「私はもう少し強くなろうと決めたの。今、私が置かれている状況よりも、より厳しい人たちのことを考えるようになったの。例えば、戦争、仕事、子どもに食べさせることとか向き合うべきことが多いことはとても大変なことよね」

「私はいまそういう状況にはないから。そして、いつの間にかこの状況に慣れてしまっている。最もよくないことだと思うの。例えば、爆撃されたのが自分の家じゃなければいいと思うようになってしまっているんだけど、そうあってはならないと思っているの」

日本の子どもたちに伝えたこと

祖国のニュースに心揺さぶられながらも、7枚の絵を描きあげたルイーザさん。

展覧会を控えた10月17日、近江八幡市の小学校で講師を依頼された。

「困難に負けない心」という道徳の授業。

ルイーザさんは、スライドを使ってウクライナのことを説明したあと、作品に込めたメッセージを子どもたちに伝えた。
ルイーザさん
「ウクライナはこれまでのウクライナではなくなってしまっています。そこで私は平和について考え、平和をテーマにした作品を描くことにしました。私は描いているとき、私が見ている美しい物を守りたいなと思いながら描いています。自分のとても好きな物を、もし誰かが壊したとしても、私たちは、もう一度、作り上げることができるのです」

取材で感じたルイーザさんの言葉の重み

私はおよそ1か月にわたり、ルイーザさんに取材した。

創作活動を他の人に見られたり、撮られたりしたくないアーティストも少なくない。

そんななか、彼女は何度も取材に応じ、私のつたない英語での質問に対して、1つ1つの言葉を紡ぎ出すように丁寧に、答えてくれた。

また、友達の肉親が爆撃で亡くなったり、両親が避難を余儀なくされたりする中にあっても、彼女はロシアへの批判を口にすることはなかった。
今回、1人のアーティストに話を聞き、絵を描く様子を間近で見せてもらって、「アーティストがキャンバスに思いを込める」ということを初めて理解できたような気がした。

ルイーザさんが描いた7枚の油絵は、私にとって「色が塗ってあるだけの絵画」ではない。

そこには、「恐怖」や「体験」、「決断」、そして「平和への願い」も塗り重ねているのだと感じる。
そして、彼女が口にした、「あす、すべてが終わってしまうかもしれないから、色のある世界を描くの」という言葉。

いつ、自分や家族の人生が終わるかわからない恐怖を感じ続けていた彼女の気持ちを思うと、忘れられない。

取材の最終盤、これまで見ることがなかった彼女の一面を見た。

展覧会に向けて追い込みに入っていた彼女にスナック菓子を差し入れした時のことだ。

スマートフォンの翻訳機能を使い、ウクライナ語で「夜食をどうぞ」と打ち込んだのだが、うまく変換されなかったのがおかしかったらしく、彼女は「こういう言い方はしないのよ」としばらくの間、クスクスとうれしそうに笑っていた。

絵を通じて思いを伝えようと、見ず知らずの異国に飛び込んだアーティストは、23歳の1人の若い女性でもあった。
「失いたくない、そして壊されたとしても、また取り戻したいふるさと」を描いた2枚の油絵。

「ウクライナの風景と似ている」と思って描いた5枚の滋賀の田園風景。

10月22日から滋賀県近江八幡市の「浄厳院」で展示される。

どの絵からも「いま見ている風景があるのは当たり前ではないのよ。大切にしてね」と彼女の声が聞こえてくるようだ。
彦根支局記者
藤本雅也
2002年入局 岡山局、沖縄局、国際部を経てブラジルに駐在後、高知局や国際放送局でデスク 原稿と撮影の二刀流記者を志願し22年夏に滋賀へ