「毒親」と言うけれど…ひきこもり母娘40年 たどりついた答え

「毒親」と言うけれど…ひきこもり母娘40年 たどりついた答え
「毒親」「親ガチャ」という言葉がさかんに使われるようになり、親と縁を切る方法まで取り沙汰されるようになっている昨今。

その一方で、「本当は親に理解してほしい」という望みを捨て切ることができずにいる人も少なくありません。

母親からの精神的な支配などを背景に、長年ひきこもった経験のある林恭子さん(56)もその一人でした。母親との対話の機会を持とうとしていると聞いて、取材を始めました。
(「#となりのこもりびと」取材班 森田智子)

私は母の“ゴミ箱”だった

当事者の会の活動や執筆などを通じて、ひきこもりの人たちの思いを発信しつづける、林恭子さん。

私はこれまで何度も、番組や記事でインタビューをしてきました。

その恭子さんが、母親とともにイベントに登壇することになったと聞いて驚きました。

去年出版した著書「ひきこもりの真実-就労より自立より大切なこと」の中で、10代から始まったひきこもりの生活と、母親との確執を赤裸々につづっていたからです。

母親には執筆の許可は得たものの、詳しい内容を告げないまま出版に至り、本を読んだ感想すら直接聞けていないと言います。
林恭子さん
「『書きますよ、あなたのことを』といったら、『好きに書いたらいい』とだけ言われました。母は本を読んでくれたようですが、私には何も言ってこないので、怒っているかどうかもわかりません。家族には『これじゃあ鬼ばばじゃないか』とつぶやいていたそうです」
恭子さんにとって、母親は“全く母性を感じない”存在だったと言います。

3人姉妹の長女として生まれた恭子さん。

母親の口癖は、「やるからには一番になりなさい」という言葉で、恭子さんは、期待に応える“よい子”であろうとし続けました。
小学1年生から始めたピアノでは、「音大に入る」という母親が立てた目標に向けて、ピアノの横に座り続ける母親から厳しい指導が飛びました。

中学に入ると今度は「まんべんなく点数をとること」と求められ、恭子さんが希望した高校とは違う、進学校へ進みました。

「私の言うことを聞いていれば間違いない」という母親に意見することはできませんでした。
父親の仕事の都合に合わせて全国を転々とする、転勤族だった一家。

目まぐるしく変わる環境や、転校するたびに変わる校則への適応に苦しみましたが、母親に相談することはできませんでした。

その後、母親の勧めで進学した高校で、過呼吸や急激な体重の減少などの深刻な身体症状が現れるようになり、不登校に。

さらに転校先の高校も1日でやめてしまいました。

通信制高校に通ったり、アルバイトをしたりするなど、もがきながらも断続的に10年以上ひきこもっていました。

そんな恭子さんに、母親は、毎日のように父親や祖母への不満をぶつけていました。
「毎日のように母の愚痴を聞かされていた私は、自分のことを『ゴミ箱』なんだなと思っていた。『母も大変だから、誰かが聞いてあげなきゃいけないんだ』と思っていたのだ。でも、はき出す母はスッキリするかもしれないが、私はネガティブな言葉を浴び続けるので、そのたびに具合が悪くなった」(「ひきこもりの真実-就労より自立より大切なこと」林恭子著 ちくま新書)

私は“鬼ばば”だった

今年5月。

都内で開かれたイベントには、ひきこもりの子を持つ親や経験者など、50名を超える人たちが集まりました。

そこに、母親の林節子さん(仮名・84歳)の姿がありました。

本を読んだ感想について、節子さんは毅然とした態度で、こう語りました。
節子さん
「すごい鬼ばばだなと思いました。でも、娘をいじめようとか、虐待しようと思ってやったことではありませんでした。私が育った時代と、娘の時代には経済的にも世の中的にもすごく隔たりがあります。私は傷つきながらも、“なにくそ”という気持ちで立ち上がってきましたから。(娘は)少し生ぬるいところがあるので、ハッパをかけたほうがいいかなという、そういう感覚はありました」
恭子さん
「子どもから見たら相当ひどくても、『わざとやっていたわけではない』と、おそらくすべての母たちはそう思っているでしょう。自分がひどいことをしていると思ったら、止められると思いますので。でも、私はハッパをかけて奮起するタイプではないので、安心させてほしかったです」
やりとりの中で、節子さんは、母親になる自信を持てないまま子どもを産み、葛藤を抱えていたことを明かしました。
節子さん
「私みたいな不完全な人間が子どもを産んでいいんだろうかと。親の欲望だけで子どもを産んでもいいのか、すごく悩んで。でも産んだ以上は、もう完璧に育てなきゃいけないという、力の入り具合が半端なかったです」

“ついでに生まれた子”として

母親としての葛藤があったと語った、節子さん。

ご自宅に伺い、詳しくお話を聞かせていただきました。

節子さんは、明治生まれの両親の元に8人兄弟の下から2番目で生まれました。

無口だった母親と、職人の父親から、“何かをしてもらった”という記憶はなく、全て自分一人で決めてきたと言います。

そんな自分を「ついでに生まれた子」と表現しました。

小学1年の頃に終戦を迎え、父親は失業、暮らしぶりの厳しかった一家。

節子さんは高校卒業後、進学を諦めて生命保険会社に入社しました。

25歳で結婚したあとは、やりがいのある仕事や趣味の登山など充実した日々を送り、DINKS(共働きで子どもを持たない夫婦)として暮らしていきたいと考えていました。
「私自身も、母親から愛情を受け取った記憶がなくて、“自分には母性というものがないんじゃないか”と自信がありませんでした。完璧主義なところも、子育てには向いていないだろうな、と思っていました」
しかし、子どもを切望する夫に折れる形で出産。

仕事をやめ、夫の仕事に合わせて全国を転々とするようになりました。
当初不安を抱いたとおり、「やるからには完璧に」という思いは、子育てに向かい、そして娘にも影響を与えていくことになりました。
「私は子どもの頃にやりたいと思ってもできなかったことはたくさんあるわけじゃないですか。だから娘には、やるんだったらある程度まできちんとやりなさいみたいな。やるからには完璧に。自分もそうやってきたし、娘にもできると思って疑いを持ちませんでした」

“父親不在”の不安の中で

転勤を繰り返し、誰も頼ることができない中での子育て。

数年おきに転校を余儀なくされる、3人の子どもたちの学校生活や受験、友人関係…。

不安は常につきまとっていました。

しかし、夫は仕事で帰宅が遅い上、あまり物を言わない性格でした。

「元気に育っていればいいじゃないか」
「名前を書けばどこかの学校には受かるだろう」

子どもたちの教育について相談したくても、取り合ってもらえないことが続いたと言います。
「私は自分のやり方に自信が持てない。夫には『私これでいいのかしら。この子育てで良いのかしら』っていうのはすごく問いかけはしてたんですね。でも、全然耳を傾けようとしませんでした。彼の中では、もともと『元気で命さえあればいい、生きていればそれだけで良い』っていうのがあったようです」
そうした態度を、あまりに脳天気だと感じ、いつもいらついていたという節子さん。

いらだちは、“厳しさ”という形で子どもたちに向かっていきました。

特に、長女である恭子さんに対しては、不満をはき出すこともありました。
「今振り返れば、うっせきして溜まり込んだものを、私はそれこそゴミ箱に捨てるように、無意識のうちに口にしていたと思います。年端も行かない子どもにそういうことを言ったのは、私は罪深いと思います。(恭子さんが)何年間も苦しんだ時間は、一番多感な時期で、一番楽しいはずの時期でした。それをつぶしてしまった。やっぱりひどいことをしたと思います」

わかりあえずとも

父親の他界をきっかけに、2年前から同居をしている2人。

不仲のまま縁を切る親子もいる中で、ひきこもり始めた頃からの40年、「完全に断絶したことはない」そうです。
その理由として、恭子さんが20代から30代にかけて、とことんぶつかりあった10年間があったからだと言います。

20代の頃、自身の生きづらさの源流が母親との関係にあると感じた恭子さんは、それまでの憤りを、夜な夜な母親にぶつけるようになっていました。
節子さん
「夕飯が終わって寝ようという時間に、何時間も突っかかってくるわけですよ。明け方の3時、4時までのことも。翌日仕事があるので『ちょっと悪いけどいい加減にしてくれない?』というと『仕事と私とどっちが大事なの?』ってなるわけです」
「私も絶対負けられないから、本気でぶつかり合う。でも、終わって必ず何か1つ、気づきがあるんですよ。娘の思っていることや考えていることです。何十回も繰り返して、私の中で少しずつ積み重なってきて、理解に繋がっていきました。それと同時に、私自身を振り返る糧にもなりました」
一方で、恭子さんにとっても、母親とぶつかり合う経験は、違う意味で大きな糧となっていました。

それは、「母親は自分とは別の人格であって、わかり合うことは不可能である」ということに気付いたことでした。
恭子さん
「はっと気付いたんですよ。あ、これ無理だなと。ある種の“諦め”ですよね。母に自分のつらさをわかってほしいと思って、何度ぶつかってもだめでだめだって延々繰り返して、ようやく腑(ふ)に落ちたっていうんですかね。それで母親のほうを向くのではなくて、自分の事をちゃんとやらなきゃって思えました」
「自分の人生を取り戻さなければ」

その後、恭子さんは家を出て、アルバイトをしながら当事者の会の活動を始めました。

さらに仕事や結婚など、自分の世界が広がっていく中で、「自分の人生の舵(かじ)を取り戻した感覚を得られた」と振り返りました。
「かつては私の世界のほぼ9割が母で占められていましたが、母という存在が、だんだんだんだん小さくなっていって、私という世界の中の一部にすぎないという風に変わっていきました。物理的な距離とともに、改めて自分を生きられるようになっていきました」
それからおよそ20年。

同居を再開した今、趣味の外出を一緒にすることもあれば、衝突を避けてお互いの領域に踏み込まないようにするなど、「ほどよい距離感を保てるようになった」と言います。
恭子さん
「母と私は非常に近い存在ではあるけれども、最もわかり合えない人という意味では一番遠いですよね。でも、性格も感じ方も育ってきた時代も環境もまったく違うので、当たり前なんですよね。どんな人間どうしだって、違う人がいれば、ちょっとそりが合わないという人もいる。たまたま私と母がそうだったというだけのことで、べつに悲しいことでもなんでもない」

“元気で生きていれば”

自宅では、ふたりでアルバムをめくりながら会話をはずませる姿がありました。

そこには、恭子さんが生まれた頃の写真や、初節句、クリスマスなど、成長の記録がこと細かく残されていました。
その脇に添えられていたメッセージには、一人の新米の母親の率直な思いが綴られていました。
「変な顔してるな-。それでもよその赤ちゃんよりかわいく見えたり、小さいと思い心配になったり。親ばかがさっそく顔を出す」

「おばあちゃんいわく『日増しに大きくなるね』内心ママもうれしい」

「初めてママとお風呂。こんなにも子どもってかわいいもんかしら」
恭子さん
「母には母性がないとか言っておきながら、愛されなかったとは思ったことないんですよね。結局はうちにはいつもこれがあったから、思いっきりぶつかり合えたし、断絶せずにいられたんだと思います」
一方で、娘を追い詰めてしまった節子さん。

こうしてアルバムや母子手帳をめくって記憶をたどる中で、わき上がってきた思いがあると、教えてくれました。
節子さん
「それこそもう1回子どもを全部私のおなかの中に戻してね、やり直せるもんなら、と思います。『もっともっとあなたたち自由に伸び伸びとやらせてあげるのにね』って。私が経験してきたみたいに、ぶつかってけがもするだろう。痛みも受けるでしょう。

だけどそれもすべて『経験になるからそれもいいんじゃない?そういう人生も』っていうふうに言ってあげたい、したいですね。伸び伸びと自分が自分らしく生きられるように親はあくまで後ろからバックアップしていくのが親の務めっていうか、うん、役目じゃないかなって今は思います」
そして節子さんは、最後に、2年前に他界した夫。

「元気ならいいじゃないか」と子どもの成績や進路について、気にとめようとしなかった夫に対しての気持ちの変化についても語りました。
「“元気で生きていればいい”と脳天気なように見えた夫は、親は子どもを見守ってさえいれば良いと言うことがわかっていたのかもしれないなと、最近は思います。私は後ろも振り向かず、横見もしないでひたすら突っ走ってきたから、気づくことができませんでした。

80超えて気づいても遅いかもしれませんが、死ぬ前に気づくことができてよかったです。残りの人生は、こうじゃなきゃいけないということにとらわれず、自分の気持ちに素直に生きたいと思います」
社会番組部ディレクター
森田智子
ウェブサイト「#となりのこもりびと」担当
NHKスペシャル「ドラマこもりびと」「ある、ひきこもりの死」、ETV特集「空蝉の家」など制作。