“万里の長城は戦場だった” 遺骨がつないだ日中の対話

“万里の長城は戦場だった” 遺骨がつないだ日中の対話
日本と中国が国交を回復してからちょうど50年。

日中関係が厳しさを増す中で「歴史が前進している」と喜び合い、平和を願う新たなつながりが生まれています。

きっかけとなったのは、万里の長城に長年埋もれていた、旧日本兵とみられる「遺骨」でした。
(政経・国際番組ディレクター 下方邦夫/おはよう日本 藤吉純明)

観光地とは違う「激戦地・長城」

去年3月、私たちは「旧日本兵とみられる遺骨が発掘された」というニュースを耳にして現地へ向かっていました。目的地は中国を代表する観光地、「万里の長城」です。

北京の中心部から1時間半ほどのところで車を降り、山を登ります。

ようやく春の気配が漂い始めていましたが上って行くにつれて風が強くなり、私たちは震えながら山道を歩き続けていました。
急な岩場がところどころにあり、武器や弾薬を抱えて上っていくとしたら大変だぞ…と考えながら足を進めました。

「少し休憩をしますか」上から声をかけてきたのは、長年万里の長城で戦争の遺品や遺骨の調査を行ってきた楊国慶さんです。
歩き続けること2時間。急に目の前が開け、壮大な長城が姿を現しました。

観光客が数多く訪れる場所のように整備された手すりや階段はなく、石がつまれた城壁がほぼむき出しのまま残されています。

楊さんはさらに100メートルほど急な斜面を登って壁に囲まれたやぐらまで案内してくれました。
地面から拾い上げて見せてくれたのは、小さな金属のかけら。

「日本軍の三八式歩兵銃の弾頭です」と教えてくれました。
よく見ると、城壁には生々しい弾痕がぱっと見ただけで100近く残されていました。この場所で、かつて激しい戦闘が行われていたのです。

1937年7月、日中戦争は北京郊外の盧溝橋での衝突によって始まりました。日本軍は北京周辺から中国軍を追い出そうと北へ進軍。

8月、中国軍と本格的に衝突したのが万里の長城だったのです。
「万里の長城戦」はおよそ20日間にわたりました。正確な統計はありませんが、中国側は6000人以上、日本側も1000を超える兵士が死亡したという記録が残されています。

地元で総菜店を営む楊さんは、15年ほど前に長城を登っていた時に地元の人から偶然、長城が戦場だったことを聞きました。

「国を守るために戦った中国の兵士のことを知りたい」という思いから、地元の管理者に許可を得て自力で遺品の収集をはじめたといいます。以来何百回も長城に上り、銃弾やヘルメット、軍刀など収集した資料は3000点近くに上ります。
現地の村に暮らして戦争を目撃した人や、実際に長城戦で戦った元中国兵たちを各地に訪ね歩き、200人以上の証言の聞き取り調査も行いました。

さらに中国兵とみられる遺骨も相次いで発見し、手厚く葬ってきました。
楊国慶さん
「中国の兵士がここで戦い大勢が死んだのに、記録にはほとんど残っていません。多くの証言や遺品を集めて、人々に何があったのか伝えたいと決心したのです」
この日も楊さんは金属探知機を取り出して周囲の地面を探ると、何かが埋まっている反応がありました。

しかし、まだ土が凍っていて数センチほどしか掘り進むことができず、暖かくなってから再度訪れることにしました。

旧日本兵らしき遺骨が見つかった

楊さんは中国人として、日本が侵攻してきたことは許せないと考えています。ただ多くの元兵士らに聞き取りをする中で強くなってきたのは、「戦争そのものが悲惨で二度と起こしてはいけない」という思いでした。

そして3年前の5月、楊さんの心をさらに揺さぶる出来事がありました。旧日本軍の兵士と見られる遺骨を偶然見つけたのです。
掘り出されたのは、2つの頭蓋骨を含む複数の遺骨です。そのうち1つには金歯も見つかりました。

傍らに埋まっていたのは「歩四一」と刻まれた認識票。陸軍歩兵第四十一連隊に所属していたことを示しています。
さらに「荒木」と刻まれたハンコも掘り出されました。
楊国慶さん
「見つけたときの心情はとても複雑でした。この遺骨は荒木さんかもしれない、この人には美しい生活や未来があったはずです。それが戦争のせいで全く見知らぬ土地に取り残されてしまいました。遺骨を故郷に送り返してあげたいと思いました」

“ふるさとよ いつになったら戻れるのか”

この発見のあと、新型コロナの流行のためにしばらく調査はできませんでした。そして去年5月、楊さんは遺骨が見つかったあたりを再び掘ってみることにしました。

険しい山道をまた登り、金属探知機で反応があることを確認します。
そして掘りはじめて1時間ほどしたとき、楊さんは「長い骨が出てきた」と声をあげました。太ももの骨のようでした。

旧日本兵のものとみられる軍服のボタンもでてきました。しばらくして、頭蓋骨も2つ見つかりました。
この日、折り重なるように埋まっていた3、4人分のものと見られる遺骨が地上に帰ってきました。

故郷を遠く離れ、帰らぬ人となった若者たちの遺骨を目の当たりにして、私たちも胸にぐっとこみあげてくるものがありました。
楊国慶さん
「きょうはまとまった遺骨が見つかり、驚きました。80年以上前の先人とこんな形で会えて想像しがたい、大きな縁を感じます。とても気持ちが重く、興奮というような気持ちは全くないです。命がここに埋められていました。戦争はいけない、平和が大事だと、遺骨を通じて私たちはそう戒められています」
遺骨を丁寧にしまうと、楊さんは最後にある“日本の歌”を口ずさみました。中国でもヒットした「北国の春」です。

中国語の歌詞は「ふるさと ふるさと 私のふるさとよ、いつになったらあなたの元に戻れるだろうか」というもの。楊さんは“安らかに眠ってほしい”という思いを込めて歌ったのだと言います。

広島に遺族の手がかりが…

中国には、今も20万柱におよぶ旧日本兵の遺骨が残されていると見られています。

ただ中国側からは「国民感情があるため収集は難しい」と伝えられていて、返還のための交渉は進んでいません。楊さんが見つけた遺骨も、日本に戻れる見通しは今のところありません。

私たちはせめて遺族の方に遺骨が見つかったことを伝えられないかと思い、遺骨の身元を探ることにしました。

手がかりになるのが、楊さんが見つけた「歩兵第41連隊」を示す認識票と「荒木」と刻まれたハンコです。
調べてみると、歩兵第41連隊はかつて広島県福山市を拠点としていたことがわかりました。取材に協力してくれたのが、歩兵第41連隊のことを長年研究し、各地で遺骨収集も行ってきた大田祐介さんです。

大田さんによると、万里の長城戦には広島県から多くの若者が参加し、接近して手りゅう弾を投げ合う激しい肉弾戦が行われたといいます。
大田祐介さん
「41連隊は常に最前線に送り込まれている部隊でした。従軍した方の日記があるんですが、『凹地には数十名の死体が2列に並べられ、凄惨(せいさん)極まりない状況であった』と書かれています。ここをたぶん楊さんが発掘したんだと思うんですよ」
「遺骨の身元特定につながる手がかりがある」と大田さんが見つけ出したのは、保管されていた41連隊の戦没者名簿です。兵士が亡くなった日付や場所が詳細に記されていました。

名簿には、ハンコに刻まれていた「荒木」という姓も見つかりました。
亡くなった日付は8月21日。長城で激しい戦いが繰り広げられていた日です。

大田さんは名簿に記されていた歩兵上等兵「荒木岩夫さん」が、楊さんが見つけた「荒木」のハンコの持ち主で間違いないだろうと指摘します。

その後大田さんの調査で、荒木岩夫さんの遺族に連絡をとることができました。岩夫さんは22歳のときに万里の長城戦に出征し、亡くなったあと小指の骨だけが家族のもとに帰ってきたといいます。
高齢のために私たちの取材を直接受けることは難しいものの、岩夫さんの弟がまだ存命で、岩夫さんとみられる遺骨が見つかったことを伝えると心から喜んでいたと教えてくれました。

“金歯の遺骨 祖父かもしれない”

戦没者名簿を手がかりにさらに取材を進めると、荒木さんと同じ8月21日に亡くなった兵士の遺族が見つかりました。

福山市鞆の浦で「保命酒」と呼ばれる伝統的な薬用酒を代々つくってきた八田健さん(87)と息子の裕重さん(65)です。
健さんの父親、裕重さんの祖父にあたる八田喜平さんは26歳のときに万里の長城戦に参加し、頭に手りゅう弾を受けて亡くなりました。
八田裕重さん
「結婚したばかりの妻を残し、生まれたばかりの子どもを残してですね、それはさぞかし無念だったろうと思うんです」
八田さんのお宅には、喜平さんが長城戦で亡くなったことを大々的に伝える当時の新聞や、どのあたりで亡くなったかを示す地図なども残されていました。
八田さんたちは「楊さんが見つけた金歯が、喜平さんのものかもしれない」といいます。見つかった場所や頭部の傷が残された資料と一致したことに加え、当時の八田家は稼業の酒づくりが成功し、金歯を作る財力があったと考えているからです。

7月、遺骨を見つけてくれたことへの感謝を伝えたいと、八田さん親子は楊さんに連絡をとりました。楊さんも快く応じ、ビデオ通話をすることになりました。
八田健さん
「遺骨を大事にしていただいて、本当に感謝しております」
楊国慶さん
「日本人であれ、中国人であれ、かつては生きていた一人の人間です。中国にも日本にも似た伝統があります。亡くなったあとは、魂の故郷に帰らなければいけません」
八田裕重さん
「ありがとうございます。もしおじいさんの遺骨とわかれば、おじいさんの奥さんと一緒にお墓に入ってほしい。そういう気持ちがすごく強かったんです。おじいさんの骨を通して楊さんと知り合うことができて、私は本当にうれしく思っています」
楊国慶さん
「私も日本の遺族と交流するのはこれが初めてで、歴史が前進していると感じます」
八田さんたちは時折声を詰まらせながら語りかけ、楊さんも目元をおさえながら応じていました。

長城戦から85年の時を経て実現した、日中をつなぐ対話でした。

次世代に伝える 平和への思い

それから1か月たったお盆の季節。裕重さんは帰省してきた子どもと孫に、万里の長城で亡くなった祖父のことを初めて伝えることにしました。

裕重さんの息子も、万里の長城で亡くなったことは知らなかったといいます。「これがおじいさんのいちばん最後の写真だよ」と喜平さんの写真を見せながら、孫たちに語りかけました。
八田さんは、楊さんとの対話を通じて気持ちに変化があったといいます。
八田裕重さん
「おじいちゃんはね、中国の人が誠実に遺骨を管理してくれてるっていうお話を聞いて、そういう人と知り合えてね、知り合うことが大切だって思えるようになったよ。お互いよく知っている人だったら、殺し合いなんかできんじゃろ」
7歳と5歳の孫は、真剣な顔をして「うん」とうなずいていました。
中国・北京では、楊さんが万里の長城で亡くなった兵士たちの追悼式を開きました。

楊さんはこの場所に子どもたちを招き、悲惨な戦争を次世代に伝えることにしました。「この骨は旧日本兵の八田喜平さんかもしれない」と写真を紹介すると、子どもたちは見入っていました。
楊国慶さん
「戦争の歴史を通じて日本の遺族と交流することは正しい道だと思います。戦争がもたらした苦しみをより深く理解することにつながるでしょう。私たちにできるのは両国がより友好的になることだと伝えたいです」
歴史問題をめぐって日本に対して厳しい姿勢を示す中国では、楊さんのような立場の人はとても珍しく、ともすると批判や圧力を受けかねません。

そのことが怖くないですかと聞くと、楊さんは「“おまえは中国の裏切り者だ”と言われても、正しいことをしているのだから気にしない」と平和への決意を語っていました。

中国兵と日本兵をわけへだてなく追悼する姿勢に、日本の八田さんも共感したのだと感じます。新型コロナの流行が落ち着いたら、ぜひ現場を訪れて楊さんに会いに行きたいと話していました。
9月29日で国交を回復してから50年を迎えた日本と中国。

国同士はぎくしゃくすることも多い両国関係ですが、民間の交流を否定することは誰にもできません。平和を願う新たなつながりが強まり、次の世代にも引き継がれることを、私たちも見守っていきたいと思います。
政経・国際番組部ディレクター
下方邦夫
2012年入局
松山局を経て「おはよう日本」「国際報道2022」などを担当
中南米や中国などを幅広く取材
おはよう日本チーフ・プロデューサー
藤吉純明
2001年入局
熊本局、政経・国際番組部などを経て現所属
2021年まで中国総局で勤務