55年前 吉田元総理の国葬 中継特番のフィルム見つかる【動画】

55年前 吉田元総理の国葬 中継特番のフィルム見つかる【動画】
貴重な映像は保管庫の中にフィルムの状態で置かれていました。

合わせて5本。再生してみると当時の様子を、白黒の映像で映し出しました。

題名は「故吉田茂国葬儀中継」。55年前に行われた国葬、それを記録した2時間20分ほどの番組です。

※記事の最後に番組のダイジェストがあります。

5本のフィルム

「きっと、残っている」

そう思って調べると、戦後、ただ一回行われた国葬の映像資料が、埼玉県川口市にあるNHKアーカイブスにあることが分かりました。
フィルムは5本で、当時の中継番組が全編残されていました。

デジタル映像に変換し、55年前の日がどんなものだったのか、見てみました。
吉田茂(第45、48~51代 内閣総理大臣)
1946年以降、5度にわたって政権を担当。「サンフランシスコ平和条約」や「日米安全保障条約」の締結・調印にあたる。

総理大臣時代の質疑応答中に相手に「ばかやろう」ともらしたことなどをきっかけに衆議院が解散した、いわゆる「バカヤロー解散」でも知られる。

戦後初めてで“ございます”

番組の放送は1967年10月31日、吉田元総理が亡くなって11日後です。

閣議決定で行われることになった国葬。

NHKの解説委員がこれまでと違う国葬だと告げて、番組は始まりました。

語尾のことばづかいが、いまと明らかに違います。
(緒方彰 解説副委員長)
「国葬儀はこれが戦後初めてで“ございます”。戦前、国葬は勅令や国葬令といった法律で行われてまいりました。

しかし戦後、新しい憲法ではこのような法律は“ございません”。したがってきょうの吉田さんの国葬の儀は、その形も大変戦前のものとは違ったものになるはずで“ございます”」
そのあとテレビは大きな遺影が置かれた日本武道館の中を映していきます。

おさえ気味の声でアナウンサーが“外国からの要人や皇族、縁故者などを迎えて行われ、一般の人たちが花をささげる告別式に続く”と予定を説明します。

国葬は、戦後行われたことがないので「関係者一同、なかなか苦心したようでございます」といった言葉もありました。

やがて会場周辺にカメラが移ると、沿道に大勢の人たちが連なって、葬列を待つ様子が映し出されました。
女性が多いように見え、着物姿の人があちこちにいます。子どもはみんなでガードレールに寄りかかりながら道路を眺めています。
(アナウンサー)
「さすが年配の方が多いように見受けられます。また午前中で授業を終わった子どもさんたちもかけつけました。

ふだん着のままで葬列を見送ろうとする人たち。国葬という重々しい響きのあることからあるいかめしさは感じられず」

47ページの番組台本

この中継、NHKの放送博物館に台本が残されていて、かなり細かく放送の段取りが決められていたことが見てとれました。
ページをめくると、葬列が大磯の吉田邸を出て何時何分何秒にどこを通るのか、秒単位で予定が記されています。

亡くなって11日後という、あわただしい中で作られたであろう台本は47ページ。
会場に入ったあとも、遺影や葬儀の様子を何時ごろ、どんな動きでカメラに収めるのかも決めていたことがわかります。

「写真からゆっくりZB(ズームバック)」「20”(秒)」など、指示は細かく具体的でした。

弔砲から黙とう

番組ではやがて、日本武道館に葬列が向かう様子を紹介します。大がかりな道路規制はないように見えます。

そうしたふだんと変わらずたくさんの車が走る道路に、突然、パトカーや警護する車などが現れてきました。
(アナウンサー)
「車の列が途切れましたので、まもなく葬列の通過と思われます。パトロールカーが通過致しました。白バイ、サイドカーも見えてまいりました。車はみな赤いランプをつけております」
棺を乗せた車が到着すると国葬儀委員長となった当時の佐藤栄作総理大臣がむかえました。

やがて合図を示すような大きな声が聞こえます。すると弔砲と呼ばれる弔意を示す空砲が「バァァーン」と鳴り響き、少し間を置いても再び、大きな音と煙をあげました。
1分間の黙とうは午後2時10分。

放送では「全国でもサイレンでその時を告げているはずです」と語っています。

佐藤総理が「追悼の辞」を読み上げ、カメラは献花をする当時の皇太子ご夫妻の姿などを映しました。
放送はほぼ手書きの台本どおりに進んでいきます。

30分間のスタジオ

番組はやがてスタジオに切り替わります。司会役はNHKの緒方彰・解説副委員長。元総理の取材を長く続けてきた解説委員と国際政治学者との3人で話を進めていきました。
吉武信・解説委員は元総理を長く身近で見てきた思いを含めて話をしています。
(吉武解説委員)
「吉田さんという人は本当に幸福な人だったという感じを持ちますね」

「吉田さんは吉田さんなりにご苦労なさったんでしょうが、思うままに自分の信念を通した政治をなされたんですね、また悪く言えばわがままいっぱいの生活をされたようにも私が身近で拝見していたんです」

「亡くなられた日にご自宅まで駆けつけたんですが、運転手さんがね、“バカヤロー”のひとつでも言うような政治家はもういませんねと言っていました」
高坂正堯・京都大学助教授(当時)は学者の立場から功績を認めたり、批判も加えたりしながら、つかえることをほとんどせずに話をします。
(高坂正堯助教授)
「彼のしゃべることばは単純明快なんですね、ぶれないわけです。ダメなものはダメだと/それが吉田さんの能力というものに結び付いてていると思うわけです」

「国家においては経済を中心に国を建てていくんだということで踏み切られた/経済立国のためにはあらゆる詭弁(きべん)も使ったし、あらゆるへ理屈もこねた」

「(終戦直後という)異常な時期の業績ですから、/いろいろな問題を残されたことは疑いのない事実だと思うんです」
スタジオは30分間ほど続き、途切れなく意見が交わされます。高坂助教授は当時33歳、その若さが目立ちますが、理由があったようです。

20代の論文 注目される

高坂助教授が出演したのは、1964年、20代の終わりに発表した「宰相 吉田茂論」という論文が注目されたからだと思われます。

吉田元総理の足跡を、独自の視点で分析した論文は大きな話題になっていました。
高坂さんは京都大の教授も務め、62歳で亡くなりました。86歳になる弟の節三さんが話を聞かせてくれました。
高坂節三さん
「論文が出た後、兄は時代の寵児(ちょうじ)でした。吉田元総理の自宅に通い長い時間、議論を交わすこともあったようです」

「議員になったらというような話があっても断っていたようで、生涯研究者に徹していました。“自分は一研究者、一市民として死にたい”と語っていました」
研究者としての正直な分析を番組で伝えたであろうことは、高坂さんの教えを受けた学者の言葉からもうかがえました。京都大学大学院の中西寛教授です。
京都大学大学院 中西寛教授
「高坂先生は、政治に100パーセントの成功や失敗はありえないと言って、他の人がネガティブだと思う面にポジティブな側面を見いだし、その逆もありました」

「番組ではそうした自身の分析を正直に語っていたのだと思います」
30分ほど続いた3人の話は終わり、画面は再び日本武道館に切り替わります。

そして遺影の前で白い花をたむける人たちの姿をカメラがとらえ、「故吉田茂 国葬儀中継」「国葬儀場 日本武道館より中継 終」という文字が出て番組は終わりました。

最後に、この2時間20分ほどの番組を13分半あまりにまとめた、ダイジェスト動画を掲載します。
(映像センター 佐塚恭平 ネットワーク報道部 杉本宙矢)

「故吉田茂国葬儀中継」ダイジェスト動画

0.オープニング・タイトル 0秒~
1.緒方彰解説副委員長 32秒~
2.日本武道館 会場の様子 1分24秒~
3.青山通りを走る葬列 3分4秒~
4.葬列が到着 弔砲 5分37秒~
5.黙とう 7分3秒~
6.佐藤栄作総理大臣の追悼の辞 8分20秒~
7.皇太子ご夫妻の献花 8分56秒~
8.海外の要人などの参列者 9分44秒~
9.スタジオ NHK解説委員と京都大学の高坂助教授 10分20秒~
10.一般の人の献花 12分18秒~