クリームシチューを作った夜 娘は帰ってこなかった

クリームシチューを作った夜 娘は帰ってこなかった
45年前の秋。

中学1年生だった娘が、学校から帰る途中、突然姿を消しました。

捜しても捜しても、何の手がかりもなかった20年。

居場所の目星がついても、一目会うことも許されない、その後の25年。

なんとか頑張って、迎えてあげたい。

86歳の私は、絶対に倒れないように、食べ、歩き、生きています。

待望の第一子

めぐみちゃんが生まれたのは1964年10月5日。東京オリンピックが開幕する直前でした。

そのとき私は28歳。体重3260グラム、待望の第一子でした。
その後、4つ年の離れた双子の息子も生まれて、5人家族に。

きょうだいを欲しがっていためぐみちゃんは、よく弟たちの面倒を見てくれていました。

一緒に歌を歌ったり、ふざけあったり。

島根の宍道湖に行ったときは、夫が「シジミが獲れるんだよ」と言うので、遅くまで湖に入って、みんな真っ赤に日焼けしていました。
めぐみちゃんは優しい子でした。

小学校の修学旅行で山口県の萩市に行ったとき、お土産で一輪挿しを買ってきてくれました。「お母さんが好きそうな色でしょ」と、わずかなお小遣いをはたいてプレゼントしてくれた、その優しさがうれしくて。

バドミントンに熱中した中学時代

1976年に、夫の転勤で一家そろって新潟県に引っ越しました。

その翌年、中学校に進学しためぐみちゃんは、バドミントン部に入りました。

実はわたし、めぐみちゃんがバドミントンをしているところは、見たことがないんです。

だから、皆さんから聞く姿しか分からないんですが、「ものすごいお上手だったよ」とか「すごい力でバシッと打ち込んでたよ」なんて言われると、“ええ?そんなことができるのかな”なんて思ってたんですよね。
バドミントンの試合で着るユニフォームに、「寄居中学校○番」って書いてあるゼッケンをパチパチと留めるためのボタンを付けないといけないときがあって。めぐみちゃんが「付けて」と持って帰ってきたんです。

私は「あなた女の子なんだからね、いつかは自分で縫わなきゃいけないんだから、ボタンの付け方を教えてあげるから、ちょっと見てなさい」って教えてあげて。

そしたら「ええ、これみんな私がするの?」なんて言いながら、でも一生懸命やったんですよ。「みんなはお母さんが付けてくれるのに」とか言ってたけど、絶対やっといた方がいいからって、ちょっと無理にやらせたんです。そしたら、みんな自分でやり遂げてましたね。

失踪の前日 “せっぱ詰まっていた”

あれは11月14日ですね。

めぐみちゃんが、新潟市のバドミントンの強化選手に選ばれたって。

でも、「私は自信がないんだよね、困ったな」なんて、言ってたんです。

「絶対いやだと思うなら、先生にお願いした方がいいよ」

「ううん、どうしようかな」

「じゃあ、せっかく選んでくださったんなら、頑張ってみる?」

「ううん、どうしようかな」

「いやだったら、先生のところまで、お母さんもついていってあげるよ」

「中学生になって親がついてくるなんてかっこ悪いからいい、いい、自分で考えるから」

そんなことを話して、せっぱ詰まっていたんです。

実はその前日にあった新人戦のダブルスでは負けてしまい、5位に終わっていました。

「ほかに1位や2位の人もいるのに、なんで私が強化選手に選ばれたんだろう」って。
目立ちたくない子でしたからね。

好物のシチューを作ったあの日 めぐみちゃんが帰ってこない

あの日は、拓也と哲也(双子の息子)を歯医者さんに連れて行ったんですね。

長いこと待たされてね、やっと帰るころにはもう薄暗くなってて。

帰り道、ちょうどめぐみちゃんの中学校の入り口を通るから「お姉ちゃんは今ごろ、一生懸命やってるんだろうね。バドミントンやってるのを見たことないから、一回のぞいてみようか」って言ったんです。

そしたら息子たちが「黙って見に行ったら、怒られちゃうよ」って言って、「じゃあ、やめとこうか」と帰ったんです。それが午後5時15分くらいだったかな。
それでご飯の支度をしたりして。クリームシチューをね、作ってたんです。

そのあとなんですよね。そのことが起きたのはね。

横田めぐみさん 拉致からまもなく45年

1977年11月15日。

中学1年生だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたあの日から45年がたとうとしています。

今回、母親の横田早紀江さんは、“一番切ない”という、めぐみさんのバドミントンのユニフォームを見せながら、めぐみさんとの思い出と、現在の心境を話してくれました。
めぐみさんがいなくなったあの日、早紀江さんは当初、部活動の悩みが理由ではないかと考えたといいます。

その日の夜、警察に捜索願を出し、大規模な捜索が行われるも、遺留品は見つからず。

めぐみさんの写真を公開して行方を捜し続けましたが、1997年に北朝鮮による拉致の可能性が浮上するまで、早紀江さんたち家族は、先の見えない日々を過ごすことになりました。

それから5年後の2002年9月。今から20年前。
当時の小泉総理大臣が北朝鮮を訪問して行われた日朝首脳会談で、北朝鮮は拉致を認めて謝罪した一方、「めぐみさんは死亡した」と説明しました。

しかし、その説明には矛盾や誤りが多く、2004年の日朝実務者協議で、北朝鮮が「めぐみさんのものだ」として出してきた遺骨からは、別人のDNAが検出されました。

また、北朝鮮が示した「めぐみさんのカルテ」とされる文書に記載された人物の年齢も、めぐみさんの当時の年齢とは異なっていました。

早紀江さんは、死亡の証拠が何一つ無いなか、めぐみさんが今も北朝鮮で生きていると信じて、一刻も早い帰国を求めています。

親の世代が被害者と抱き合うことなしに、解決はない

おととしの2020年6月。ともに娘の救出活動に奔走してきた夫の滋さんが、老衰のため亡くなりました。

2年余りにわたった入院生活。いつも病室に飾られていたのは、めぐみさんの写真でした。めぐみさんの笑顔に囲まれた病室で、早紀江さんが「あと少しで会えるかもしれないから、がんばろうね」と声をかけては、命をつなぐ毎日。

しかし、その願いもむなしく、滋さんは静かに息を引き取りました。娘が拉致されたとき、45歳だった滋さん。87歳になっていました。

今、安否不明の拉致被害者の親で健在なのは、早紀江さんを含めて2人だけ。来年で87歳になる早紀江さんも、体の衰えを感じずにはいられない日々です。
今月1日、私たちは早紀江さんの元を訪ねました。

スーパーの買い物に同行すると、お肉や牛乳、もずくなどを次々と手に取り、86歳の1人暮らしとは思えない食材の量に驚かされました。

そのわけを聞いたとき、私たちは早紀江さんの覚悟を改めて知ったのです。
「なんとか頑張ってめぐみを迎えてあげたい一心でね、生きてるわけだから。食べるものとか、歩くこととか、いろんなことを。本当に死なないように、できるだけ死なないように、頑張ってるんです。

めぐみが帰ってくること。そのために生きてるんですから、一生懸命。取り返そうと思って。早くあの子にこの日本の土を踏んでほしい。大きくなったね、元気でよかったと。一目でいいから、ああよかったって思わせてあげたいし、私もそう思いたいんです」
早紀江さんたち家族会が、今年3月にまとめた最新の活動方針には、こう記されています。

「親の世代が被害者と抱き合うことなしに拉致問題の解決はない」
肉親の帰りを待つ家族の命には、限りがあること。

この現実を政府は真正面で受け止めているのか。
北朝鮮の最高指導者には届いているのか。

「拉致から45年」。
「日朝首脳会談から20年」。

言葉にするのは容易ですが、その1日1日に思いをはせれば、それがどれだけの重みを持つものか。

未解決のまま迎える「節目」が今回で最後となることを願いたい。
社会部記者
佐々木良介
2014年入局。鳥取局、広島局を経て現職。
北朝鮮による拉致問題を担当。
社会部記者
藤島温実
2013年入局。高知局、熊本局を経て現職。
北朝鮮による拉致問題を担当。
政経・国際番組部ディレクター
福井早希
2011年入局。福岡局、ニュースウオッチ9などを経て現職。
日韓関係やアジアを中心に国際情勢を取材。
社会番組部ディレクター
藤田盛資
2011年入局。金沢局、首都圏局を経て現職。