最新技術でつなぐ戦地・硫黄島の記憶

最新技術でつなぐ戦地・硫黄島の記憶
小笠原諸島の南の端に位置する硫黄島。
太平洋戦争末期、本土空襲の爆撃機の中継地点として狙うアメリカ軍の上陸で激戦地の1つになり、戦後、島はアメリカの施政権下に入りました。54年前、施政権が日本に返還されたものの、島の大半は自衛隊が管理していて簡単に行くことができません。

終戦から77年がたち、元島民や兵士の遺族の高齢化が進むなか、遠い戦地の今を最新技術で伝える取り組みが始まっています。
(首都圏局記者 尾垣和幸)

激戦地となった硫黄島 限られる慰霊の機会

太平洋戦争の激戦地となった硫黄島。
戦前、硫黄やサトウキビなどの農産物が有名でした。

硫黄島の歴史に詳しい明治学院大学の石原俊教授によりますと、多いときで1100人あまりが暮らしていました。本土空襲の爆撃機の中継地点として狙っていたアメリカ軍との戦闘で、当時島にいた日本軍の兵士などおよそ2万2000人が犠牲になり、島で軍の手伝いをするため残ることを強制された島民93人も命を落としました。
戦後77年がたちますが、船や飛行機の定期便はなく、専用の自衛隊機などで行く島の慰霊祭に参加できるのは一部に限られます。

令和4年8月に行われた慰霊祭では兵士の遺族たちが島に渡りました。
参加した遺族の1人の今井明美さん(52)は祖父が旧日本海軍の兵士でした。

祖父は北海道で水産加工会社を営んでいましたが、35歳でみずから入隊を志願。その後、硫黄島に出征し亡くなったとされています。
今回、今井さんは、去年、病気で亡くなった母親の願いをかなえるため、初めて島を訪れました。
生前、母親は「父の亡くなった場所を見てみたい」と言い続けていたというのです。
今井明美さん
「簡単には行けない島だと聞いていたので。やっと祖父に会えましたが、渡島がかなわなかった母のことを思うと、涙が止まりません」

最新技術で島の今を伝える

こうした「島を見たい」という思いに応えようという人たちがいます。

元島民の孫らで作る「全国硫黄島島民3世の会」の会長、西村怜馬さん(40)。
西村さんは、祖父母が硫黄島出身で、7年前に亡くなった祖母のことばが心に残っています。
西村怜馬さん
「『硫黄島のことも忘れないでね』と、ぽつりとつぶやくように言われたことがあります。やはり、いろいろな島の歴史を風化させてはいけないと思いました」
西村さんら会のメンバーは島への慰霊事業を行う「日本青年会議所関東地区協議会」とともに島の「VRマップ」を作ろうとしています。
硫黄島で撮影された映像をもとに今の島の様子が再現されていて、この仮想空間をアバターで自由に散策することができます。

訪れたところが戦前、どのような場所だったのか確認できるように、マップの中に当時の様子を映した写真を並べています。
VRマップの素材となる映像は令和4年8月の慰霊祭にあわせて撮影されました。

アメリカ軍が星条旗を掲げたことで知られる「摺鉢山」の山頂では「360度カメラ」で全体が映像に収められました。

素材は仮想空間をつくる専用のソフトに取り込まれ、立体的に加工されます。

今回、再現されたのは、戦前、学校の運動場やレモングラスのオイルを搾り取る工場などがあった島の中心部「硫黄ヶ丘」(いおうがおか)です。
ところどころ硫黄が転がっていて、石が多い地域の特徴をリアルに再現します。

元島民「兄たちにそばにいてほしかった」

西村さんは、この映像を見てもらいたいと、ある女性を訪ねました。

元島民の奥山登喜子さん、89歳。
西村さんの祖母と親しく、戦前の島の暮らしについて教わってきました。
奥山登喜子さん
「島で一番楽しかったのはお盆のお祭り。海水浴もみんなで服を着て入って、元旦が海開きのような、常夏の島だった。島民全員が家族のような存在で、何でも自給自足だったから、電気もガスも水道もなかったけれど、何も困ることはなかった」
しかし、戦争が奥山さんの平和な暮らしを奪います。

アメリカ軍が上陸する前の年、8人きょうだいで11歳だった奥山さんは、女きょうだいや父親とともに島を離れました。
しかし、18歳と15歳の2人の兄は軍に手伝いを命じられ島に残ることになりました。
奥山登喜子さん
「兄に、『一緒に船に乗っちゃお』って言ったの。でも、『俺は一緒に乗れない』って言われて。逆らって『残るのは俺は嫌だ』って、言ってくれればよかったのにと思ってね」
生きていてほしいとの願いはかなわず、兄たちは戦後、亡くなったとの知らせが国から届いたのです。
涙でことばを詰まらせながら、奥山さんはこう話しました。
奥山登喜子さん
「優しかった兄たちに、大きくなったらやっぱりそばにいてほしかった」

「行きたくても行けない」VRを見た元島民は

西村さんは、体を悪くしてなかなか島へ行くことができない奥山さんにVRマップを見てもらうことにしました。

奥山さんはアバターで、学校があった近くを歩いてみました。
奥山登喜子さん
「すごいよねこれね。石ころが岩にくっついていて、この石ころがね、懐かしい。学校から帰る途中、歩いている途中だ。昔の学校を思い出しちゃって。ここの向こうに学校があって、運動場があって、朝礼台があって」
リアルな映像から、当時の記憶がよみがえります。
奥山登喜子さん
「懐かしくて本当に、うれしくなっちゃった。硫黄島に墓参に来たみたいな感じですもんね。こうやって見ていたら、行きたくなっちゃったわ」
奥山さんの喜ぶ姿に、西村さんたちはほおを緩ませました。

島の歴史 語り継ぐ思い

西村さんは、VRマップを元島民や遺族が集まる会合でも披露しました。
「硫黄島のことを忘れないで」

西村さんは、その祖母のことばを胸に刻んで、遠い島の記憶を今につなぎます。
西村怜馬さん
「硫黄島は戦前の豊かな暮らしがあった島ですが、そういう暮らしが戦争によって途絶えてしまった。そして、戦後77年たっても帰島できない現状があります。どんどん私たち孫の世代が勉強して、硫黄島で起きたこととか、硫黄島が置かれている状況などを、こうした最新のツールも使って伝えていければと思います」
VRマップは、今後インターネットサイトで公開される予定です。

まだ、マップの範囲は島の一部にとどまりますが、西村さんたちはこれからも島の映像を集めて範囲を広げていくことにしています。
首都圏局記者
尾垣和幸

新聞記者を経て2017年入局
首都圏局 都庁クラブ担当
前任地千葉局でゼロ戦パイロットの遺族を取材するなど戦争をテーマに継続取材

硫黄島の現在の写真

今回、取材で訪れた硫黄島の写真を掲載します。

過去の硫黄島