トムヤムクン危機?新興国の通貨安 忍び寄る不安

トムヤムクン危機?新興国の通貨安 忍び寄る不安
代表的なタイ料理のトムヤムクンが食べられなくなるかもしれない、という話ではありません。1997年に起きたアジア通貨危機はタイでは「トムヤムクン危機」と呼ばれています。あれから25年。今、アメリカの急激な利上げによって再び通貨安が新興国を襲っています。8月26日には金融政策の課題を話し合うジャクソンホール会議でFRB=連邦準備制度理事会のパウエル議長が利上げ継続の姿勢を鮮明に。新興国に忍び寄る不安はどれほどのものなのでしょうか。(アジア総局記者 影圭太)

バーツ安で両替する人たち

タイの首都バンコクではショッピングセンターによく両替所が設けられているのをみかけます。
新型コロナウイルスの感染拡大で、外国人観光客がいなくなり、閑古鳥が鳴いていましたが、ことしの春以降、両替所に人が並んでいる様子を見かけるようになりました。

列をつくっている人に話を聞くと、ドルをタイの通貨バーツに両替しようとしているといいます。

バーツは値下がりを続け、7月中旬にはドルに対して年初と比べて約11%下落し、約15年ぶりの安値となりました。手元にドルを持っている外国人観光客や富裕層が、いま両替すればより多くのバーツが手に入ると両替所を訪れているのです。

料理を一律値上げに

しかしこのバーツ安、市民にとってはマイナス面が大きいといいます。

バンコクなどで11店を展開するタイ料理の食堂は、ことし6月に創業以来初めてすべての料理を一律で値上げしました。
ムートートと呼ばれる豚肉を揚げた料理などをのせたご飯を、1皿25バーツから、日本円でおよそ90円からと、手ごろな価格で提供してきた人気店ですが、価格を一律で2バーツ上乗せせざるを得なくなったといいます。

原因は原材料の価格高騰に加え、通貨安によって輸入品の価格が押し上げられたためで、料理の持ち帰りに使う袋などのプラスチック製品の仕入れ値はおよそ10%、調理用のガスの価格もおよそ10%上昇し、これまでの売値ではやっていけなくなったといいます。

昼食代の支払いが増えた利用客の男性は「できるだけ節約し、必需品以外は買わないようにするしかない」と嘆いていました。

アメリカの利上げが引き金

通貨安の引き金をひいたのは、世界一の経済大国アメリカの利上げです。

記録的なインフレを抑え込むため、FRBはことし3月以降金融引き締めに転じ、6月と7月には2回連続で0.75%という大幅な利上げを決めました。
8月26日にはアメリカ西部の高原リゾート地ジャクソンホールでFRBのパウエル議長が講演、金融引き締めについて「やり遂げるまでやり続けなければならない」と述べ、インフレ対決姿勢を鮮明にしました。

投資家は利上げによって世界の基軸通貨ドルの利回りが高まるとみて、ドルを買う動きを強める一方、新興国の通貨が売られているのです。

通貨危機への懸念

タイでの通貨安というと、アジア通貨危機を思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。アジア通貨危機が起きたのはちょうど25年前の1997年夏。タイが震源地でした。
当時、アメリカのドルと事実上連動していたバーツの相場が、ドル高につられる形で実力以上の価値になっているとヘッジファンドが目をつけ、5月ごろからバーツ売りを浴びせかけたと言われています。

中央銀行は市場介入し、バーツを買い支えていましたが、元手となっていた外貨準備の底が見えてついに支えきれなくなり、7月2日、変動相場制に移行。バーツは暴落し、7月2日の一日だけでドルに対しておよそ20%も値下がりしたといいます。危機は瞬く間に広がりました。

マレーシア、インドネシア、韓国などにも伝ぱし、経済の停滞を招いただけでなく、インドネシアでは政権交代にも発展。その後1998年のロシア・ルーブル危機にもつながりました。

成長を続けていたアジア経済だけではなく、世界経済にとっても大きな傷あとを残すことになったのです。

廃虚が伝える恐怖

通貨危機の恐ろしさを今に伝える場所があると聞き、取材に行きました。

バンコク中心部の大通りから1本入った場所にそびえ立つ、49階建ての高層ビル。“ゴーストタワー”と呼ばれています。
地面には雑草が生い茂り、タワー1階のフロアには落書きだらけのコンクリートがむき出しのまま。地下には大量のゴミが捨てられているのが見えました。

もちろん誰も住んでいません。

今のレートにして日本円でおよそ70億円を投じて建設されていた高層ビルは、1997年に通貨危機が発生した影響で建設が中断しました。
金融機関からの融資が止まったためで、超高級マンションとなるはずだったビルはそれから25年の間ほぼ放置されたままになっています。

今の通貨安に対し、25年前を知るタイの人たちからは深刻な影響を懸念する声が出始めています。

アジア通貨危機の際、経営していた製鉄所が破綻したサワットさんがその1人です。
サワットさん
「トムヤムクン危機は深刻だったが、影響を受けたのはいくつかの国だけだ。今の通貨安はより多くの国に広がり、今後何が起こるかは誰も予測できない。私の会社は25年前に破綻し、今この局面で何のリスクもないことを幸運だと思っている」

各国に広がる通貨安

通貨安はタイだけにとどまらず、多くの国に広がっています。
特に新興国ではことしに入ってその傾向が顕著で、インドのルピー、チリのペソはドルに対して過去最安値になるまで売られています。

ちなみに日本の円も売られ、一時1ドル=139円台半ばまで円安が進み、年初と比べて20%以上値下がりしました(29日午後4時時点)。

およそ24年ぶりの水準で、為替の下落率だけみれば新興国の通貨以上に売られています。

さらなるリスクはどこに

さらにいま国際機関や経済の専門家からリスクとして指摘されているのが新興国の債務=借金の問題です。

利上げによる金利の上昇と通貨安とが起こることで債務を返済できなくなる国が出るおそれが高まっているといいます。
西浜 主席エコノミスト
「新興国がドル建てで借金をしている場合、ドル高と新興国通貨安が進むことで自国通貨で見た時の借金の金額は膨らむことになる。また金利の上昇で返済負担が増して景気の減速を招き、中には債務不履行=デフォルトに陥る国が出るおそれがある。債務危機が起こるリスクには今後特に注意が必要になる」。
さきほど紹介したタイで製鉄所を経営していたタイのサワット氏は通貨安そのものより、それによって引き起こされたドル建ての借金の膨張によって追い込まれたと明かします。

当時、外貨建てで借り入れていた27億ドルの債務は、通貨の暴落によってバーツ換算でおよそ2倍に膨らみました。当時の財務アドバイザーには、ここまで膨らんだ借金を支払う手段はないと告げられたと言います。

12か国がデフォルトする?

世界銀行はことし3月に公表した資料の中で、特に新興国や発展途上国での債務の膨張に警鐘を鳴らし、今後1年の間に最大で12の国が債務の返済ができなくなるおそれがあると指摘します。
そして資料が公表された直後の4月、南アジアの島国スリランカは大手格付け会社に部分的なデフォルト=債務不履行に陥ったと認定されました。

輸入に依存し、経常赤字が続く弱い経済基盤を変えることができないまま、急激な外貨不足に陥り、対外債務の返済を停止する事態に陥ってしまいました。

スリランカでは通貨の暴落と激しいインフレが起こって経済危機に陥り、人々の暮らしは厳しさを増しています。世界銀行の読みどおりだとすると、さらに11の国がスリランカと同じような事態になる可能性が残っているということになります。

ロシアによるウクライナ侵攻を背景にしたエネルギーや食料価格の上昇、そして大国アメリカの利上げの加速など、世界経済が大きく変化するこの局面に危機の芽は広がっていないのか。
通貨危機は決して昔話ではなく、いまも注意を怠ってはいけないのだよとゴーストタワーは静かに語りかけているように感じています。
アジア総局記者
影 圭太
2005年入局
経済部で金融や財政の取材を担当
2020年から現所属