田辺聖子 十八歳の太平洋戦争

田辺聖子 十八歳の太平洋戦争
私がカメラマンとして田辺聖子さんの自宅へ通い始めたのは、田辺さんが亡くなられた翌年、2020年11月のことだった。
兵庫県伊丹市にあった、昭和を代表する“大作家”の邸宅。田辺さんの個性が色濃く残り、撮影をしていると、まだ“田辺さん本人がそこにいる”、そうした気配を感じることが何度もあった。
撮影のために通い始めておよそ3週間たった頃、茶色く変色したノートが見つかった。
田辺さんの直筆で「十八歳の日の記録」と書かれたその日記には、女学生時代として過ごした、戦時下の日本の日常が克明に記録されていた。
(NHK大阪放送局 カメラマン 釋河野公彦)

“家は人を表す” 大作家・田辺聖子の自宅

兵庫県伊丹市。田辺聖子さんの自宅は、閑静な住宅街の中でひときわ目を引く。
レンガが玄関のアプローチまで続き、外壁の一部は暖炉の煙突を組み込んだ高い塔のようにも見える。
2019年6月に田辺さんが亡くなってからおよそ1年半後、遺族の協力で撮影が始まった。
初めて自宅に伺ったときの印象は今も強く記憶に残っている。

“そこにまだ田辺聖子さんがいるのではないか”

田辺さんの存在を最も強く感じたのは、書斎だった。
机の上に残るさまざまな種類の筆記用具。鉛筆、万年筆、カラフルなペンや筆、数十本の仕事道具がそのまま残されていた。

さらに犬やウサギ、熊やブタ… 机の上に並ぶ小さなぬいぐるみ。

なかでも田辺さんが最も愛したのは“スヌーピー”だった。
36歳で芥川賞を受賞。
59歳で直木賞初の女性選考委員になり、80歳で文化勲章を受章。

生涯700冊の著作を残した田辺聖子さん。

執筆の合間に心を休める場所が自宅の地下にあった。
地下に降りると部屋の入り口には「スナックお聖」と似顔絵入りで書かれた店顔負けのネオンがあった。

「お聖さん」とは親しい友人が田辺さんを呼ぶときの愛称だ。

この酒場ともいえるスペースで夫婦で杯を交わすこともあれば、同じ伊丹市に住み親交が深かった作家の宮本輝さんなど、友人を招き夜遅くまで飲み明かすこともあった。

見つかった戦時下の日記 田辺聖子「十八歳の日の記録」

遺族が自宅を整理するかたわらで続けた撮影。2020年11月25日、田辺聖子さんの遺族が「こんなものが出てきた」とグレーの紙封筒を手にリビングに入ってきた。
表には、田辺さんの手書きの文字で「昭和20年4月~12月 学徒動員 空襲罹災 父病臥 母、買出しの日々 聖子日記」と書かれてある。
戦時中の日記だろうか。奥の和室の押し入れを片づけていたら、この一冊が出てきたという。

中から変色した冊子が出てきた。
その場にいた田辺さんのめいたちが真っ先に開いたのは太平洋戦争終戦の日、昭和20年8月15日の記録だった。
それまで万年筆で丁寧に書かれていた日記とは全く異なる、強い筆致でつづられていた。
(昭和20年8月15日 終戦の日の記録より)
「何事ぞ! 悲憤慷慨その極を知らず、痛恨の涙、滂沱として流れ、肺腑は抉らるるばかりである。我等一億同胞胸に銘記すべき八月十五日。嗚呼、遂に帝国は無条件降伏を宣言したのである」
悲憤慷慨(ひふんこうがい)。17歳の女学生とは思えない表現力、終戦の知らせを聞いて湧き出た感情が筆致にも表れていた。
極めて強いことばを重ね、敗戦を嘆いた田辺さんはいわゆる「軍国少女」だった。

(※悲憤慷慨(ひふんこうがい)…「悲憤」は悲しんで憤ること。「慷慨」は社会の不正や世論が悪い方向に変わっていくことなどを憤り嘆くこと)
「何の為の今までの艱苦ぞ。サイパン島同胞婦人、日本の勝利を信じて静寂に髪を梳いて逝き、アッツ島守備兵また神国不滅を確信して桜花と散り、沖縄の学童はいたいけな手に手榴弾を握って敵中に躍り込み、なかんずく、特攻隊の若桜はあとにつづくを信ずと莞爾と笑って散った」
サイパン島、アッツ島、沖縄、特攻隊… 太平洋戦争で失われた命は何のためだったのか。強い怒りが示されていた。

しかし翌日、新聞で昭和天皇の大詔(たいしょう)を読み、揺れ動く感情が記されている。
(※大詔(たいしょう)…天皇が広く国民に告げることば)
(昭和20年8月16日 終戦翌日の記録より)
「今日はじめて新聞に接し、親しく大詔を見奉る。陛下の大御心、拝察するだに畏ききわみ、原子爆弾を使用せられては、大和民族滅亡のほかは非ず、かくては祖宗に対して申訳なしと仰せらるる言のかしこさ、母と二人で涙を流して読んだ」
天皇の決断の真意を知り、また涙を流したと記されている。

妹が語る太平洋戦争当時の姉・田辺聖子

田辺聖子さんには、2歳年下の弟と、3歳年下の妹がいた。
日記の発見後、妹の淑子さんに戦時下の暮らし、そして姉・聖子さんと戦争の日々についてインタビューする機会があった。
淑子さんによれば、聖子さんは小学校の頃から家に帰ってランドセルを置くとすぐに新聞に目を通し、部屋にずらりと並んだ小説や歴史書を読むことに没頭。

樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)に入学した昭和19年以降、みずから小説も書いていたという。
淑子さん
「私たちが寝る部屋にはお姉ちゃんの机があったんですよ。で、私が寝る時間になっても、12時とか1時ですかね、お姉ちゃんは、いつでも小説を書いていた。学校の宿題を終わらせた後に書いてんですよ。外で遊びまわったり、そういうことはしない。それよりも好きやったんですね、小説を書くことが」
「十八歳の日の記録」からは、太平洋戦争の末期、戦局が実際には悪化していたにもかかわらず、田辺さんが触れていたのは日本軍の戦果を強調する情報だったことが分かる。

そんな中で、田辺さんは「エスガイの子」というタイトルで小説を書いていたことが記されていた。
エスガイとはモンゴル帝国を建設したチンギスハンの父の名、つまりチンギスハンをテーマにした小説である。
(昭和20年4月9日の日記より)
「戦局はそんなことにかかわらずどんどん進展している。昨日は三十余隻撃沈破していたが、軍艦マーチも抜刀隊もしきりにして盛んであった。久しぶりに朗らかにはればれとした。その代わり、わが軍も犠牲が多くて戦艦一隻、駆逐艦三隻は沈没し、その戦闘に参加した航空機はみんな特別攻撃隊であって、その感激に打たれたものは、私一人ではなかろう。とにかく、こうして世の中はでんぐりかえっている。その中で、私は「エスガイの子」なる平和な小説を書いている。(中略)私は割合整った作だと思っているけれども、さあ、どうだか。ひとつ、立派な見識のある人にみてもらいたい」
(※特別攻撃隊…特攻隊のこと)
戦況が悪化する中で書き続けた小説。この月の4月20日には脱稿したことが記されていた。
「十八歳の日の記録」によると、この頃田辺さんは、動員令により学校を離れ、航空機製作所として稼働していた郡是塚口工場(兵庫県尼崎市)で働いていた。
工場ではボルトやナットの飛行機部品を作ることになり、日記が始まる頃には樟蔭女専での授業は完全に中止となっていた。
動員先の工場には、女性従業員たちの宿泊施設があり、田辺さんはここで寮生活を送っていた。
そうした中で、将来を夢見て小説を書き続けていたのである。

大阪大空襲 焼け落ちる家で母は…

日記を見ていくと、ひときわ長い文章が書かれている日があった。
昭和20年6月2日の記録である。

前日、生家があった大阪はアメリカ軍のB29による空襲を受けた。その日、田辺さんは学校にいた。
(昭和20年6月2日の日記より)
「六月一日の日、学校へ行って第一時限の授業を受けていると警戒警報がなりひびいた。早速用意をして階下へ降りる。間もなく空襲警報が出た。何となく、ラジオの情報もただならぬ気色が感じられる。十数機とか数十機とかが、しばしばくりかえされた。また編隊が、という言葉も一再ならず出る。「敵は今日は主に近畿地区を狙っております」という中部軍の情報である。私は富田さんたちと防空壕へ退避した。小阪はしかし平安であった。高射砲の轟きと爆音と爆弾の炸裂音をきいたが、何事もべつになく、手相やら、映画やら結婚やら、小説の話が弾んでいた。」
(※小阪…田辺さんの通っていた樟蔭女専があった場所)
空襲のさなかに交わされていた女学生たちの会話。
日記でしか感じられない、一人一人の戦時下の日常がそこにあった。

しかし、まもなく田辺さんたちのもとに次々と被害の情報が入ってくる。
「九時頃から防空壕に入って十一時近くなると、大阪がやられた、という情報が聞きこえた。罹災地は天王寺、都島の方だという。家はまず大丈夫と安心していた。壕から出て空を見上げると、恐ろしいばかりの雲がムクムクと起こっている。その動きは異常に速いし、色もちがう。あれは煙だ、と誰かが言い出した。まさしく大阪の方角である」
(※大阪…大阪駅のこと)
被害の情報が次々とラジオを通じて伝わってくる。
田辺さんの生家があった地域、「福島」の名前も耳にした。
「不安なままに教室で昼飯を摂っていると、細川先生がいらした。その前に私は小野さんに福島というのを聞いて胸がびくびくと震えていた。伊阪さんと、富田さん、黒田さん、大館さんらと帰る。小阪駅は満員だ。(中略)関急は鶴橋より向うは不通である。窓から、炎だとか煙だとかが遠望された。私は満員の電車の中で、それでも希望を失わないでいた」
(※関急…関西急行、現在の近鉄のこと)
電車が不通となっていたため、鶴橋駅から自宅を目指し歩き始めた田辺さん。

その頃、自宅は空襲の被害に遭っていた。
妹の淑子さんは、母の勝世さんが焼け崩れる家で聖子さんのためにとった行動が今も忘れられないと語ってくれた。
淑子さん
「お姉ちゃんは、お母ちゃんに『空襲になったらこの三つの革の鞄を持って出てね』と玄関の所に毎日鞄をおくんですよ。焼夷弾が落ちて、家が燃える中、お母ちゃんは家の中に飛びこんだんです。『聖ちゃんに頼まれたから』と、お姉ちゃんの小説や日記が入った鞄を取り出すために。二つの鞄は持って出て、さあもう一つを取りに入ろうと思ったら、『奥さん、もう行ったらあかん。家が崩れる!』と、近所の人に引き止められて…」
一面煙の街と化した大阪を歩き続けた田辺さん。

夜になって自宅があった場所で家族と再会した。
(昭和20年6月2日の日記より)
「向こうからお母さんが見るもいたましい姿でやって来た。眉は暗く、眼には涙の跡がある。ドロドロの破れ草履をつっかけ、汚れたもんぺに割烹エプロンという出で立ち。妹と妙ちゃんは、いち早く叫んだ。『お母ちゃん、姉ちゃんが』『聖ちゃん、帰って来やったで』お母さんは、私をみつけて、見る見る眼をうるませた。『聖ちゃん、家が……家がやけてしもうた……』その声は涙で曇って鼻声になっている。私は不覚にも涙がこぼれた。『あんたの本なあ、たくさんあったのが出してあげたかったんやけど、出すことが出来なんだ……』『……』私は何にも言えなかった。鼻がじんと痛くなり、涙がぽとぽと水槽の水の上へこぼれおちた」
大阪大空襲の記録からその三週間後。
日記に記されていた17歳の田辺聖子さんの“心の強さ”に私は驚いた。
(昭和20年6月23日の日記より)
「この数日来、私は心の平安を取り戻したように思う。学校へも忠実に通っている。それは勉強したいからだ。(中略)私はひるまない。私は泣かない。私は屈しない。新しき生への首途(かどで)――私は雄々しく新生への第一歩を踏みしめる」
戦時下の女学生の日常をみずみずしい筆致で記した「十八歳の日の記録」。

遺族の手により昨年出版された。

書き続けた大作家・田辺聖子さん

晩年、体調がすぐれないこともあり、仕事の数を絞って活動していた田辺さん。しかし、最後まで「書く」情熱を持ち続けていた。
書庫には明治維新の立役者となった西郷隆盛に関連する書籍が大量に並んでいた。
いつか西郷隆盛をテーマに小説を書くため、鹿児島も訪れていたという。

若き日の空襲も、晩年の病も田辺さんから筆を離させることはなかった。
2019年6月6日に亡くなった田辺聖子さん。
その後、伊丹市から遺族に対し、「田辺さんの自宅を記念館として期間限定で公開したい」という提案もあったという。

しかし、新型コロナウイルスのまん延で公開事業が延期になり、そのうち、豪雨をきっかけにあちこちから雨漏りがするようになった。
近所に住む遺族がそのたびに応急処置を繰り返していたが、しっくいがはがれ落ち、地下の書庫にカビも発生した。
田辺さんのこだわりが詰まった夢の家も、築後40年以上の時が経過していた。遺族は、これ以上家を維持していくことは無理だと判断して、記念館事業も白紙に戻した。

田辺さんの家は、今はもうない。

撮影した貴重な自宅の映像の一部をエピソードとともに紹介することで、田辺聖子さんの記憶、そして戦時下の記録に触れる人が一人でも増えてくれればと願うばかりである。

そして、最後になるが、「十八歳の日の記録」の表紙に書かれた田辺聖子さんのことばを紹介したい。

『――若き日は過ぎ去り易い――。けれども多彩であり、豊なる収獲がある。それ故に、“若き日”は尊い。』
大阪放送局 カメラマン
釋河野 公彦
2002年入局
ニュースカメラマンとして事件事故災害を撮影するほかNHKスペシャルなどドキュメンタリーの番組も取材・撮影