光が丘公園から飛び立った若者たち

光が丘公園から飛び立った若者たち
炎上する飛行機。そこから落下する人。
絵本作家のかこさとしさんが描いた特攻の様子です。

特攻は洋上だけではなく首都東京の上空でも行われていたのです。
その拠点の1つとなっていたのが東京練馬区にある現在の「光が丘公園」でした。

東京の上空で行われた特攻とはどのようなものだったのでしょうか。
(首都圏局記者 清水若葉)

かこさとしさんが描いた“特攻”

「からすのパンやさん」に「だるまちゃん」シリーズなど、2018年に亡くなったあとも手がけた絵本が多くの人に愛されるかこさとしさん。この夏、かこさんが描いたある原画が東京・渋谷で初めて公開されました。
子どもたちにおなじみの親しみやすい作品のなかに、強いタッチで描かれた戦争の絵が展示されています。
描かれているのは上空で炎上する飛行機や、そこから落下傘をつけて落ちていく兵士の姿です。落下傘は開いていません。その様子を周りの人たちが見上げています。
アメリカ軍のB29に飛行機で体当たり攻撃をした特攻の様子です。当時、高校生だったかこさんが東京で目撃した光景を、戦後に描いたものです。

飛行機に体当たりする特攻。その拠点の1つとなっていたのが、今の東京 練馬区にあった飛行場でした。

光が丘公園は飛行場だった

かこさんが描いた特攻はどのようなものだったのか。私(記者)が訪ねたのは東京 練馬区の「光が丘公園」です。東京23区内にもかかわらず、自然豊かで多くの市民の憩いの場となっている公園。戦時中は陸軍の「成増飛行場」が置かれていました。
成増飛行場が作られたのは1943年。真珠湾攻撃のわずか4か月後の1942年4月に行われた、アメリカ軍による東京への初空襲(ドーリットル空襲)を受けたあと、「帝都防衛」の拠点として建設されました。建設は農民を立ち退かせ、土地を買い上げる形で行われました。

東京近郊にはこのころ、1941年に調布飛行場、1940年に多摩飛行場(横田)なども建設されていました。
今は光が丘公園となり、当時の面影は残っていないように見えますが、ところどころに飛行場のあとが残されているといいます。
成増飛行場の歴史について記録を続けている郷土史家の山下徹さんに公園を案内してもらいました。まず、公園にはいって山下さんが指さしたのが長い並木道。
郷土史家 山下徹さん
「これはもともと滑走路だった部分に作られたんです。今の並木道のあたりに、大江戸線の光が丘駅のほうから北に向かって、1200メートルの滑走路がありました」
公園や光が丘の集合住宅群を貫くまっすぐな並木道。東京都内ではなかなか目にすることのない長さで、上空からの写真ではそのことがよくわかります。ともに赤く囲った部分が滑走路があった部分です。北部に広がる公園も輪郭は残っています。
戦後接収されたあと、1973年にアメリカから全面返還され、大規模な団地が建設されました。そのニュータウンの輪郭も当時の面影を残しています。

光が丘を飛び立った若者たち

空襲に備えるため帝都防衛の拠点となった光が丘。滑走路からはアメリカ軍のB29を迎え撃つために四式戦闘機「疾風」などに乗って飛び立ったといいます。そして、戦況が悪化するなかで終戦の前の年にはB29に直接体当たりする特攻隊が編成されました。当時のニュース映画には、特攻に出撃する前に敬礼をする若者の様子や、飛行場から飛び立つ様子が記録されています。
B29への特攻の様子は当時のニュース映画にもなり、“英雄”として伝えられました。山下さんによると特攻隊員たちは20歳前後の若者が多かったといいます。
そのひとり、吉澤平吉中尉です。都内の寺には成増飛行場から飛び立った吉澤中尉の遺品が遺族から寄贈され残されています。帽子は特攻のときに身につけていたものだといいます。
郷土史家 山下徹さん
「実際に身につけられていたものですので、頭の大きさとか、見て想像できますね。この帽子をかぶっていた吉澤中尉は24歳でした。特攻兵というのは皆さん非常に若い。19歳、20歳という非常に若い人たちがなるわけですから」
帽子とともに辞世の句も残されていました。

「君の為 捧げし命の 重からで 只一筋に 宮居護らむ」
「大君の 御楯とあらば 何惜しまむ 雲染め散なむ 翼なりせば」

光が丘を飛び立った若い命が失われました。

“平和な春がきてほしい” かこさんが込めた思い

かこさんが目撃したB29への特攻。かこさんがそれを描いたのは終戦から12年後の1957年のことです。

どのような思いを込めて描いたのでしょうか。

長女の鈴木万里さんは、特攻隊員が落下する様子を目撃したことは当時高校生だったかこさんに大きな衝撃を与えたと考えています。
鈴木万里さん
「人々の悲しみ、本人もすごく衝撃だったわけですね。かこは、中学生の頃に、あのすばらしい航空機に乗ってみたい、航空士官になりたいと一途なばかりの思いがあった訳です。でも目が悪くて航空士官になれなかった。そのあと高校に進んでも何かの役に立てるだろうと理系のほうに進みました。ところが飛行機が体当たり攻撃で墜落して、落下傘も開かずに亡くなってしまうという事件を見た。そのときにあれがもしかしたら自分だったかもしれない、そして航空士官になって飛行機に乗るということは、その飛行機によって誰かを攻撃する。憧れでは済まされない、本当の意味をそこで知って、それも併せて衝撃だったと思います」
特攻兵が墜落する原画をはじめ、かこさんは19点の戦争に関する原画と原稿を残していました。原稿は加筆を加えながら、1982年に改訂されていて、30年にわたって推こうが重ねられていたことがうかがえます。編集者とやり取りした手紙も残されていましたが、生前の出版はかないませんでした。かこさんが亡くなったあと、この原稿の存在を知った鈴木さんはこの作品に対する強い思いを感じたといいます。
鈴木万里さん
「ここまで精密に清書して、出版社にお渡ししていたものがあったとは、全然知らなかったんですね。どうしても伝えておきたいという気持ちが文章になり、絵になり、それでこの絵が完成したんじゃないかなと。人には語らなかったけど、心の中ではいつもあって、それはいつかは伝えていかなければと思い続けていた30年間だったのではないかと思うんです」
おととしこの原稿を見つけた鈴木さんは、かこさんの思いをつぐ形で出版社にかけあい、去年「秋」という絵本が出版されました。戦争が何をもたらすのか。その悲惨さや理不尽さを子どもたちに伝えたいと描いた原画と原稿。かこさんはこう記しています。
どんな苦しみだって、戦争の苦しさにくらべたら耐えられるだろうにー
戦争をするだけのお金や物を、みんなの生活がよくなることに使ったら、ほんとうにたのしい世の中がつくれるだろうにー
平和な春がきてほしいー
私は願いました。切に私は思いました。
首都圏局記者
清水若葉
2022年入局。戦争、差別や多様性の問題に関心を持ち取材にあたっている。