高校野球 夏の甲子園「コロナ世代の球児たちが残したことば」

高校野球 夏の甲子園「コロナ世代の球児たちが残したことば」
夏の全国高校野球は、宮城の仙台育英高校が東北勢として初めての優勝を成し遂げて、大会の幕を下ろしました。
ことしの大会に臨んだ3年生は、高校に入学した当初から新型コロナウイルスの影響を受け続けてきた、いわゆる“コロナ世代の球児たち”です。多くの苦難を乗り越えて、最後の夏に甲子園にたどりついた球児たちが残したことばが意味するものとは。(大阪放送局記者 並松康弘)

“コロナ世代”と呼ばれて

横浜 玉城陽希主将
「苦しい時を乗り越えられたのは甲子園があったからです」
開会式の選手宣誓で、横浜(神奈川)の玉城陽希主将は、甲子園という舞台が、コロナ世代の球児たちにとって、かけがえのない目標になっていたことを、感謝の思いを込めて伝えました。

3年生にとって、集大成となることしの夏の甲子園は、たび重なる苦難を乗り越えた末に、たどりついた場所でした。

おととしの入学当初から新型コロナの感染が拡大し、多くの学校が休校となり、およそ2か月、キャッチボールはおろか、チームメートと顔を合わせることすらできない日々が続きました。
その間に夏の全国高校野球の中止も決定。
夢の舞台があるのが当たり前ではないという現実を突きつけられました。

去年からは、春夏の甲子園での大会は開かれてきましたが、チーム内で感染が広がり、大会を辞退せざるをえない学校も出ました。

さらに、観客も学校関係者のみに制限されたり、ブラスバンドの演奏も認められなかったりと、高校野球生活は思い描いてきたものとは、かけ離れたものとなりました。

それでも続けてきた

そんな中でも、多くの部員が苦難と向き合いながら野球を続けてきたことを示す数字が残っています。
高野連=日本高校野球連盟の調査で、3年生まで継続した部員の割合は、92.7%と、集計を始めた昭和59年以降で最高となりました。

高校野球の指導者など関係者からは「さまざまな制約があるからこそ、仲間と協力し、みんなで乗り越えようと頑張ってきたことが数字に表れたのではないか」という声が聞かれました。
コロナ世代の球児たちは、全体練習ができない期間、オンラインでミーティングをして気持ちをつなぎ、SNSのグループをつくって、それぞれが練習している動画やライバルチームの選手の映像を共有しました。
たとえ一緒に過ごす時間が少なくとも、みんなで切磋琢磨(せっさたくま)して困難を乗り越えてきたのです。

球児たちの晴れ舞台に

たどりついた甲子園で、球児たちを待っていたのは、3年ぶりに、大観衆が詰めかけたスタンドでした。お盆休みと重なった大会の中盤は、連日入場券が完売し、14日間で56万人が訪れました。
声を出しての応援こそ禁止されましたが、ブラスバンドの演奏や大きな拍手で背中を押された選手たちにとって、それは子どものころから憧れてきた甲子園そのものでした。
日本文理(新潟) 田中晴也投手
「2年生のときは、甲子園に出ても観客がいなかったので、たくさんのお客さんが入っていた分、去年にない楽しさがありました」
三重 上山颯太投手
「高校野球生活がコロナで始まり、試合ができるかわからない状況の中で、仲間みんなで頑張ってここまで来られたと思うので、悔いはないです」
興南(沖縄) 禰覇盛太郎主将
「沖縄大会では感じられない応援でした。甲子園という特別な場所で力以上のものが出せたので、ありがとうと伝えたいです」
大阪桐蔭 松尾汐恩選手
「甲子園は人を成長させてくれる場所で、仲間と臨めたことが財産です。負けたことも含めて次に向けた成長に生かしていきたいです」

京都国際エース “負けても笑顔”の理由

京都国際のエース、森下瑠大投手は、コロナの影響を大きく受けた選手の1人です。2年生で臨んだ去年夏は初出場でベスト4に進出しました。
しかし、活躍が期待されたことしのセンバツは、出場権をつかみながら、大会直前にチーム内で新型コロナの感染が広がり、辞退を余儀なくされました。森下投手自身も感染し、利き腕の左ひじを痛みが襲いました。

チームの士気も上がらないなか、森下投手が大切にしたのが笑顔を絶やさないことでした。苦しい状況の中でも、チームの雰囲気は次第に明るくなり、最後の夏に向けて結束力が高まりました。

甲子園では、1回戦敗退と本来の力を発揮することができませんでしたが、森下投手には笑顔がありました。
京都国際 森下瑠大投手
「3年間、特にセンバツを辞退してから悔しくて、苦しいこと、思いどおりにいかないことばかりでしたが、最後に高校野球でいちばんいい場所で試合ができて楽しかったですし自然と笑顔が出ました」

辞退するチームを出さない

ただ、この大会も新型コロナの影響がなかったわけではありません。大会前のPCR検査などで6校が集団感染と判断されたのです。

これまでの大会では、集団感染となったチームは、出場を辞退せざるをえませんでした。去年の夏、ことしのセンバツと複数の学校が大会前から大会中に辞退に追い込まれ、今回もかという不安がよぎりました。

こうした中、高野連などは、選手たちの回復を待つべく日程の変更を行ったり、メンバーの入れ替えで選手全員の陰性が確認できれば出場を認めたりするなどの異例の対応をとりました。
できるかぎり、球児たちの出場機会が失われないようにしたいという思いからの苦肉の策でした。

集団感染と判断されたチームの1つ、県立岐阜商業は、メンバー10人を入れ替えて試合に臨みました。大差で敗れましたが、仲間の思いも胸に最後まで必死に白球を追いました。
県岐阜商 伊藤颯希主将
「療養中の選手から『しっかり自分のプレーを目いっぱいやってこい』とメッセージをもらって、テレビの前のチームメートの分までプレーしました。辞退せざるをえない感じだったんですけど、関係者の方々のおかげで1試合でもやらせてもらえて感謝しかないです」

18人全員起用の理由

指導者も特別な思いで大会に臨んでいました。
優勝した仙台育英(宮城)の須江航監督は、初戦でベンチ入りした選手18人全員を起用しました。
仙台育英 須江航監督
「この世代はコロナに非常に苦しんだ世代なので、どんな展開になっても全員出してあげたいと思っていました」
さらに決勝の前日に甲子園球場で行われた練習では、ベンチに入れなかった控え部員もグラウンドに出て、夢舞台の芝を踏みしめました。

その選手たちは、困難の中で磨いてきた力を甲子園でいかんなく発揮し、東北に初めて深紅の大優勝旗を持ち帰ることになりました。
優勝を決めた直後のインタビューで、須江監督は涙をこらえながら、“コロナ禍の球児たち”の頑張りをたたえました。
仙台育英 須江航監督
「入学どころか、おそらく、中学の卒業式もちゃんとできなくて、高校生活は、僕たち大人が過ごした高校生活と全く違うんです。青春というのはすごく“密”なんですが、そういうこともだめだと言われて、活動してても、どこかでストップが掛かってしまう。そんな苦しい中でも諦めないでやってくれました。それをさせてくれたのは、全国の高校球児の努力のたまもので、ただただ最後に僕たちがここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校球児に拍手してください」

“晴れ舞台”の重要性

新型コロナの感染拡大は今も収まらず、今後の大会も、対策をとりながらの運営が求められます。

社会生活やさまざまな行事などに制約がある状況が続くなか、大会が開催されることに「スポーツだけ、高校野球だけが特別扱いでいいのか」という意見があるのも事実です。
今大会を通して、球児たちの取材をする中で、印象的だったのは、甲子園で野球ができたことへの感謝のことば。そして、力を出し切ったことに胸を張り、前を向く姿でした。
「積み重ねてきたことを集大成となる舞台で出し切り、未来に向けて新たなスタートを切る」。
苦しい経験をした分、のちのちに生きることも多いはずです。
そんな“晴れ舞台”の重要性を感じさせる大会となりました。
大阪放送局 記者
並松 康弘
新潟局、仙台局を経て2021年秋から現所属
高校野球取材担当
仙台を離れて初めて迎えた夏に甲子園で東北勢の初優勝を見届けたのは何かの縁でしょうか