海のない長野に海軍が地下壕を掘った?その意図は?

海のない長野に海軍が地下壕を掘った?その意図は?
長野市内に今も残る地下壕の跡。その1つに海軍が掘り進めていたとみられるものがある。事実とすると海軍は海から遠く離れた長野の地で何をしようとしていたのか。調べるため、記者は何度も現地に行き、関係者から話を聞いた。終戦から77年の夏、太平洋戦争の秘話に迫った。(長野放送局記者 橋本慎也)

長野市で建設が進められた地下壕

長野に残る太平洋戦争の戦争遺跡と言えば「松代大本営」だろう。戦争末期、本土決戦に備えて建設が進められていた地下壕で、軍や政府の中枢、さらには天皇の生活の場を東京から移転する計画だったという。
10キロ余りに及ぶ巨大な地下壕に加え、仮の皇居とされる予定だった建物も近くには残っている。

この「松代大本営」から長野盆地をはさんで10キロ余りのところ、長野市の安茂里地区にも実は地下壕がある。
そこは松代方面を望むことができる高台に位置する。この地下壕は高さ2.5メートル、幅3メートル余り、100メートル程まで掘り進められたところで終戦を迎えたとされる。

終戦後は子どもが遊んでいたという話も残るなど地元の一部で存在は知られていたものの、その目的など詳しいことは分かっていない。

きっかけは村長の日記

この安茂里地区に残る地下壕は何なのか?

この謎を調査しているグループがいる。地元の住民や松代大本営を調査していた元高校教員などでつくる「昭和の安茂里を語り継ぐ会」だ。
調査が本格的に進むきっかけとなったのは10年前にある日記が発見されたからだった。

塚田伍八郎。当時村長を務めていた人物の日記だ。
塚田の自宅の蔵から見つかり、日記には昭和20年の5月から11月までの村の動きなどが記述されていた。

そして日記から、この地下壕に関わっていたのは海軍と見られるというのだ。
土屋事務局長
「村長という公的な立場で客観的に書かれたものが見つかるということはあまりない。海軍の将校が安茂里で何をしていたのか具体的に記されていて、これは超一級の資料だと思った」
終戦間際に安茂里で何があったのか。塚田村長の日記から引用する。
昭和20年6月28日
海軍施設部や大本営の将校が来た。非常事態に対応する防空洞穴や宿舎の件で要請があった。

昭和20年7月26日
横須賀海軍工廠造兵部薗田部隊勤務の墨谷助市海軍大尉が来た。宿舎の借り入れの申し込みがあった。

・昭和20年8月5日
部隊から薪炭1万貫(37.5トン)を買い入れたいと申し込みがあった。
いろいろと村で便宜を図ってもらおうと依頼した内容など、戦争末期に安茂里で海軍が活動していたことが記されているのだ。

海軍との関わり示すエピソード

会ではこの記述の内容を今も知る人がいないかどうか確かめるため、周辺での調査を繰り返した。

すると、終戦当時13歳だった大矢祥子さんが、地下壕から400mほど離れ、現在は保育園となっている場所に、軍人が寝泊まりしていたとはっきり記憶していた。
大矢さん
「炊事場やご飯を食べた場所がこのあたりにあったと記憶している。兵隊さんが朝起きるとよく顔を洗うために歩いていた」
さらに、大矢さんは兵士が着ていた服装の色を「茶色のようだった」と証言した。

会の土屋事務局長によると、この服装からここにいた部隊は海軍陸戦隊だと見られるという。海軍と安茂里の関わりがわかるエピソードだと言える。

地下壕の目的を知る手がかり

この周辺からは海軍に関係するものが発見され、会ではこうしたものを紹介する資料館を新たに開設している。

資料館では海軍が書いた「海軍薗田部隊」という表札や錨のマークが入った皿などが展示されている。
この地下壕の目的を知る手がかりは他にもいくつかある。

実際に地下壕を掘った第300設営隊は、昭和20年6月に東京通信隊長野施設設営予備調査のため調査員を派遣したとする記録を残している。

また、戦後、この設営隊の将校が防衛研究所の聞き取りに対し、「陸軍の地下壕内には海軍が入る余地がないので、海軍軍令部職員1000人が入れるものを新たに作ることが決まった」と証言している(「長野県史をふりかえる」より)。
近現代の軍事史などを研究している明治大学文学部の山田朗教授も、この村長の日記や地下壕が徹底抗戦の真相を知る手がかりになるとして注目している。

日記や表札にも記されている「海軍薗田部隊」部隊長の薗田美輝中佐は通信畑を進んだ人物で、山田教授は通信部隊が訪れていたとみている。

公的記録が残されていないので断定はできないとしつつ次のように指摘する。
山田教授
「ひとまず、横浜市の日吉にあった連合艦隊司令部などと連絡を取る機能を安茂里に置き、そのうえで、東京の海軍省や海軍軍令部の機能を本土決戦のために長野に移そうとしたのではないか。海軍が壕を掘ったということは一般的にあまり知られていないが、掘っていたことは事実だ。“大本営海軍部”がこの安茂里にできようとしていた可能性が高い。長野では陸軍主導の松代大本営が有名だが、これらの日記や地下壕からは海軍の中にも徹底抗戦をするために動いていた勢力がいたことがうかがえる」

本土決戦に備えて?

松代と安茂里だけでなく長野市周辺一帯に、国家の中枢を移して徹底抗戦するという大がかりな構想が練られていた。

会ではこのような仮説を打ち立てている。
安茂里から直線距離で5キロほどの山中にあり、戦争末期当時、すでに廃線となっていた鉄道のトンネル跡がある。

戦争末期にここで作業をしたという地元の学生が、戦後、「トンネルがいっぱいになるまで、高射砲の弾丸を積み込んだ」と文集に記している。

また、戦争末期には九州から長野に特攻隊の部隊も移転してくるなど、長野は単なる避難場所ではなく、本土決戦に備えて、多くの戦争施設が建設されたとみられているのだ。

戦争末期、陸軍の大物が長野を訪れていた。阿南惟幾陸軍大臣だ。安茂里から少し離れたこの地を視察していた。
視察に同行した長野師管区の平林盛人司令官は戦後の回想録で「天皇が松代に移ったあとの、皇太后(天皇の母親)の御座所をどうするかが問題だったが、このトンネルならばどんな爆撃を受けても大丈夫だ。温泉もすぐ近くにあるので、好都合だ」という阿南大臣の発言を紹介している。

天皇が移り住む松代だけでなく、皇族の退避場所としても長野が重要だと位置づけられていたのだ。

なぜ国家の中枢を長野に?

このトンネルでは今や大量のコウモリが舞い、崩れかけている部分もある。

なぜ国家の中枢を山深い長野に移そうとしたのか。そして、それほどまでしてなぜ戦争を続けようとしたのか。

昭和の安茂里を語り継ぐ会では、その意図を解明するためにも調査を行っていきたいと語る。
岡村 共同代表
「月日がたつにつれて戦争があったことが忘れ去られていってしまうという危機感を持っている。だからこそ、海軍壕や避難場所などがなぜここに計画されていたのかということを解明していきたい。調査することは戦争の記憶を風化させないことにもつながる」

取材後記

「海軍がこんな山の中に穴を掘っているなんて、戦争ももう終わりだ」

当時、安茂里ではこんな会話が交わされていたという。

どんな思いで軍人たちは信州の山を掘っていたのか。当事者の多くは亡くなり、その遺族たちも安茂里の地下壕について詳しい話は聞いていないという。

終戦から77年たつ中、地元の歴史を調べようという住民たちの熱意には圧倒される。今後もこの地下壕の謎を追い続けていく。
長野放送局記者
橋本慎也
2014年入局
鳥取局、前橋局を経て長野局で長野市政を担当
この戦争末期の地下壕を継続的に取材