終戦前日に失われた多くの命 証言でたどる”香住沖海戦”

終戦前日に失われた多くの命 証言でたどる”香住沖海戦”
昭和20年8月14日、兵庫県北部の日本海で旧日本海軍の艦艇2隻がアメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈没しました。

56人もの命が失われたのは、終戦の日の前日でした。

太平洋戦争最後の海戦とされるこの戦いを、その場にいあわせた当時10代の若者たちの証言でたどります。

(神戸放送局カメラマン 福本充雅)

終戦前日「漁場」は「戦場」になった

ズワイガニやカレイなどが特産の兵庫県北部の香美町(旧香住町)。

終戦前日、香美町の沖合およそ6キロの海域で、輸送船などの護衛に当たっていた旧日本海軍の艦艇がアメリカ軍の潜水艦からの魚雷攻撃を受け、沈没しました。
その2時間後、別の艦艇も攻撃を受け沈没。

「香住沖海戦」と呼ばれるこの戦闘で、2隻の乗組員411人のうち56人が犠牲となりました。

終戦のわずか1日前に起きたこの惨事は、旧日本海軍にも報告されず、終戦後の混乱などで、長年にわたり広く知られることはありませんでした。しかし、多くの地元の人たちがその状況を目撃していました。

助けられなかった後悔

海軍の支援にあたる民間訓練生だった宮代實也さん(当時16)は、30人ほどのほかの訓練生とともに、救助に向かう手こぎボートの上から交戦を目の当たりにしました。
宮代さん
船は目の前でした。大きな白い水柱がボーン、ボーンと上がっていました。(日本の艦艇は)爆雷(潜水艦攻撃用の爆弾)で応戦していました。「ここは戦場だ」と緊張しました。

魚雷が(日本の艦艇に)命中して船のどてっぱらからボーンと炸裂しました。艦が大きく2つに割れたんです。
海に投げ出された兵士をなんとか救助したいと思った宮代さん。
しかし、少年たちを危険にさらすことはできないと、引き返しの命令が出ていました。
宮代さん
自分が沖から引き返したことが悔しかった。
兵士を一人でも助けられたら、と思い、本当に申し訳ないという気持ちでした。

最後の目撃者 民間の漁船による救助

少年たちを乗せた手こぎのボートが引き返す一方、海に投げ出された兵士たちを救おうと、多くの漁船が沖へ出ていきました。

国民学校の児童だった山脇重信さん(当時11)は、漁船が沖で兵士を救助し次々と戻ってくる様子をすぐ近くで見ていました。
山脇さん
日暮れ時、船着き場には傷ついた兵士たちが次々にあがってきました。漂流中に海に浮かぶ油を飲んで亡くなった人もいた、と聞きました。

兵士たちは行き場を失っていましたが、100軒以上の民家が自主的に2、3人の兵隊さんたちを受け入れ、夕食と部屋を用意しました。私の家にも夜、2人の兵隊さんが泊まりにきました。

戦争も1日たったら終わっていたので、(犠牲になった人たちは)死ななくてもよかったはずです。ただかわいそうでした。
兵士を救助するために沖に出ることは大きな危険を伴いました。

「万が一敵の攻撃で漁船や人的被害が出た場合、その補償は誰がしてくれるのか」
「損害が生じた場合は漁協が面倒を見る。この際そんなこと考えている暇はない」
このときの緊迫したやりとりが、香住町漁業協同組合史に残っています。
漁師たちは、海に投げ出された兵隊たちを助けないといけないという一心だったと思います。漁業に携わる私たちもいつ遭難するかわからない。海に生きるものとして当然の行動だと思います。

終戦から77年がたち、兵士たちが漁港で救助される当時の様子を見たのは、今や私だけになってしまいました。
当時はお盆の時期で、町にはお墓参りをする人たちの線香の煙が漂っていました。

多くの棺が必要となりましたが、戦時下の物不足で用意ができず、「魚の水揚げに使う漁業用の木箱を何個も組み合わせ戦没者を葬った。人々は誰ともなく海で亡くなった人たちの棺に花を供え自然に手を合わせていった」と香住町漁業協同組合史に記されています。

今の10代に引き継ぐ

香住沖海戦での当時の10代の人たちの経験を、今の10代に引き継ごうという動きが広がっています。

香住青年会議所のメンバーが毎年、兵庫北部の小・中学校を回り、目の前の日本海で起きた戦いや人命救助に関わった人たちの思いを伝えています。
中学生
住民が命をかけて沈没した海防艦の兵士を助けたことが印象に残りました。
すぐ近くの海で戦争が起きていたので(当時の人は)怖かったと思います。

香住沖海戦のことを初めて聞きました。今日聞いた話を家族や友達に話し合って、自分の考えを広げていきたいと思います。
香住青年会議所 島崎貢さん
地元の戦争の事実や人の温かさを知っていただきたいと毎年伝えています。
もっともっと語り継いでいって皆さんにも知ってもらいたい戦争の歴史だと思います。私たちが語り継がないといけない責任を感じています。

救助された兵士の教え子が本で後世に

救助された乗組員には15歳の若い兵士もいました。この戦いの生存者、故・菅野昭さんです。

沈没後に漁師に救助された経験が、生前のメモに残されていました。
体は水につかって顔だけ出している状態で海水は非常に冷たかった。
そのとき「助けが来たぞ!」と声を聞いた。
漁船だ!エンジンの音が響く!
多くの漁船が沿岸から救助にやってきた。
浮かんでいた私に腕をさしのべてくれた漁師の言葉が生涯忘れられなかった。
「救助にきたけど年寄りばかりですいません。うちの息子は陸軍に行っていないんだ。年寄りと婦人会だけで家や地域を守っているんだよ」と。
菅野さんはその後、東京で小学校の教師となり、自身が戦場で漁師に助けられた話をときどき子どもたちに伝えていました。

教え子の1人だった島田潤さんは、菅野さんの話がきっかけとなり、この「香住沖海戦」を1冊の本にまとめました。
島田さん
乗組員が投げ出され漁師さんたちが危険をかえりみず助けに行ったことは、すごく勇気のあることだと思います。
私のような戦争を経験していない世代は、次の世代に戦争の事実をずっと継承していく責任があるのではないかと思います。
海を望む香住海岸の丘には今も鎮魂碑が残されています。
「平和を誓う」という碑文から地元の人たちが戦争の歴史を大切にしてきた気持ちが伝わってきます。
眼下に広がる日本海には今なお2隻の戦没艦が眠りつづけ、人々の暮らしの中に戦争があった事実を静かに語りかけています。
NHK神戸放送局カメラマン
福本充雅

1997年入局
エジプト・カイロ支局でアラブの政変を担当。京都局、広島局を経て2021年に神戸局へ。故郷・兵庫県の多様な魅力を取材。